『触感の文学史』真銅正宏

『触感の文学史』
p277 近代化の下で、個の世界の誕生と進展

p20 三島由紀夫の「志賀寺上人は恋」(『文藝春秋』昭和二九年一〇月)

志賀寺上人が、京極の御息所(*)を御所に訪ねる(略)

(*)御息所(みやすどころ)。「みやすんどころ」ともいう。天皇皇太子,親王らの配偶者。もとは天皇の休息所,寝室の意。制度的な呼称ではなく,天皇の御寝に侍した官女とか,皇子皇女を生んだ女御 (にょうご) ,更衣をさした。

p25 ふと目が合ったことから始まった二人の物語は、手の触れあいによって、成就もし、終焉も迎えたのである。この視覚から触覚への変遷は、視覚重視の発想とはやや違う可能性を見せてくれる。すなわち、視覚の世界ではいかにも不分明であったものが、触覚によって、それぞれの文脈の中で理解され、確認されているのである。特に上人においては、視覚によって始まった迷いが、触覚によって払拭された物語とも考えられる。これは認識における身体性の勝利と言えるかもしれない。
※視覚では女神に見えたが、触覚では人間と確認できた、ということか。

p25 この例のように、身体の接触には、登場人物の認識とのずれを示し、物語が、ただ精神的なものになることを回避する機能が見られることが多くある。そもそも、精神と肉体とを二分して考えることに矛盾が生じる根本原因があるのであろうが、このごく当然の事実に気づかせてくれる身体性の記述は、実は物語の重要な情報源である。

p27 第Ⅰ部 小説に描かれた「身体」と触感

p29 第一章 立体造形と触覚 江戸川乱歩「人間椅子」「盲獣」

p51 第二章 女の身体の表現実験 永井荷風「腕くらべ」

p70 我々は、芸者や女給、私娼などを対象とする作品であってさえ、それを評するに際して、ややもするとその肉体から離れようとする。それを論じることが、何らかの「悪」と結びついているという認識ないし偏見があるからであろう。

p73 第三章 視覚の喪失と手触り 谷崎潤一郎「盲目物語」「春琴抄」、泉鏡花「歌行燈」

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