覇道の槍 天野純希

■永正15年(1518年)
8月2日、義興が周防に帰国し高国政権が弱体化。
■永正16年(1519年)
これを好機と見た之長は翌永正16年(1519年)5月11日に高国方となっていた尚春を殺害した。殺害の理由は尚春の裏切りの他に之長と尚春の対立が絡んでいたとも、淡路の直接支配及び播磨灘・瀬戸内海など周辺海域を狙った之長の謀略ともいわれている。
10月には摂津有馬郡の池田三郎五郎(信正)が澄元に味方して下田中城に立て籠もる。
10月22日、高国方の瓦林正頼が攻撃をかけたが敗れた。
11月6日(9日とも)、この動きを知った之長は澄元と共に兵庫に上陸し、正頼が籠もる摂津越水城を包囲した(田中城の戦い)。
12月19日、包囲中の京都で前日に合戦があって之長父子が戦死したという噂が流れて大いに喜ばれたというが、誤報に過ぎない。
●人物・逸話編集
等持院の戦いに大敗した時に逃亡せずに捕縛されたのは、京都の医師である半井保房の記録である『聾盲記』によると之長が肥満して10歩も歩けなかったためという[15]。高国が態度を急に翻して之長を斬った理由は、尚春の遺児である彦四郎の強請によるものであるといわれる。そして之長が斬られた日は前年の永正16年に尚春を殺害した日であった[16]。処刑された時、聾盲記において「合戦には三好と申して大強のものなれども、天罰にてかくのごとし。一時に滅するなり……いまの三好は、大悪の大出(最高)なるものなり。皆の人々悦喜せざるはなし」と記されている[17]。之長は成り上がりの他国者の権力者として京都の人々には大変嫌われており、「大山寺縁起」には建設工事で嫌々働く人々が描かれ、『細川大心院記』や『瓦林政頼記』には当時の之長を風刺する落首がいくつも残されている[18]。
(Wikipedia三好之長)

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海船館(海船政所)跡
https://masakishibata.wordpress.com/2017/07/15/sakai-kaisen/

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p15
■永正一七年(一五二〇)
四月、父長秀の死から一一年、元長は二〇歳を迎えていた。(略)今回の上洛戦でも、元長の近習や馬廻りを中心とした五百の兵を率いていた。
p16
細川澄元を総大将に阿波軍が兵庫に上陸したのは昨年、永正一六年(一五一九)の一一月。今年の三月には澄元と細川家の家督を巡って争う細川高国を破り、入京。摂津伊丹城にある澄元に代わって采配を握るのは、元長の祖父之長。
念願の京都奪回を果たしたとき、配下の軍は二万を越えていた。だが、近江に逃れた高国が再度京をうかがうようになると、いったんは服従した畿内の国人衆(地元の有力武士。地侍)が次々に高国チームに寝返った。(略)
京に入ってから、阿波軍は都で悪いことばかりしている。スパイの侵入を防ぐという建前で都に通じる七口に関を作り、通行料をむしりとった。雑兵(足軽)たちは落ち武者狩りと称して商家や寺社に押し入り、金品を奪い、女に乱暴する。

p27
永正一七年(一五二〇)
五月四日。上京三条に阿波軍は布陣。
二日前、細川高国軍、近江を出陣。都の東、如意ヶ嶽に姿を現した。
p28
同日、北方の船岡山にも高国チーム、丹波の内藤貞正、波多野稙通(はたのたねみち)ら。近江の六角定頼や京極高清の軍を加えた高国チームは総勢五万。実数は三万弱としても阿波軍の三倍を優に超えている。(略)
昨年一一月の摂津上陸直後から、澄元は長く病に伏せっていた。三二歳という若さだが病は重く、摂津伊丹城から動けない。之長に担がれた神輿に過ぎないが、総大将が陣頭に立てないほどの重病では、チームの士気が上がるはずもなかった。
戦の原因は細川京兆家の後継者争い。幕府管領として権勢を振るっていた細川政元の死後、(※澄之を作者はあえて外しているのだろう)澄元と高国という二人の養子がナンバーワン争いをしているのだ。
発端は一三年前、政元が謀反人(※薬師寺ら)に暗殺されたこと。それから間もなく、合わせ守護家から養子に入った澄元を擁する之長が謀反人を討伐して、京を制した。
一度は澄元を後継者と認めた高国だが、一年と経たないうちに挙兵。之長と澄元は京を追われた。その後も、両者は幾度となく干戈を交え、京の奪い合いを飽くことなく繰り返している。その戦争で元長の父、長秀も死んだ。
※作者は大内政弘の存在をあえて伏せている。
p39
之長は捕縛され、上京百万遍において腹を切らされた。

p48
細川京兆家と同様、足利将軍家も二つに。
足利義賢(後の堺公方義維)は、母が戦乱を避けて逃れていた播磨で生まれた。父義澄(清晃。義政の兄政知の子)はその間も京都に。
※政元のお飾り将軍。
一度も対面する機会のないまま、義賢が三歳の時に死んだ。
p49
やがて義賢は、高国に担がれた一〇将軍義稙(義材。義政の弟義視の子)の養子に迎えられ、京に。
※父の弟だから、叔父の養子に。
だが義稙は等持院合戦の翌年に高国と不和になり、義賢を連れて阿波へと逃れる。
※阿波公方。あくまで作者は大内政弘の存在を伏せている。
義稙の代わりに高国が擁立したのは、義賢の異母兄、義晴だった。
※つまり、義澄(清晃)の子か。
阿波へ逃れた義稙は、高国をひたすら恨み、都に返り咲くことを夢見ながら、三年前にこの地で死んだ。
元長はその二月後、この乱世を終わらせるという夢を語った。義賢は心を動かされた。

p52
■大永六年(一五二六)
p58
七月も半ば、(略)七月一三日(p62)
p61
香西元盛、誅殺。波多野稙通の弟。柳本賢治の兄。
謀反は事実ではなく、香西元盛と犬猿の仲にある細川尹賢(ただかた)の讒言らしい。尹賢は高国の従兄弟で、摂津欠郡の守護。きっかけは些細。高国が中嶋に城を築く際、香西元盛の人足が、尹賢の人足ともめた。これを恨んだ尹賢が高国に香西の謀反を訴えた。それを信じた高国は、香西を屋敷に招き、討ち果たした。丹波衆が1世に離反しかねない暴挙。

p223
一五三〇年、春。
元長の蟄居以来、京は丹波衆の支配下にあった。
p224
堺公方府の中心は、すでに金蓮寺(こんれんじ)から六郎(細川晴元)の私邸に移っている。金蓮寺の足利義維が公方府の決定に関与することはない。すべては六郎と御前衆(茨木長隆、三好神五郎(政長)、木沢長政ら)が決め、義維は単なる飾りとして祭り上げられているにすぎなかった。
※このあとに御前衆各人の描写あり。

p266
木沢長政が、浦上村宗と向き合う敵の側背を衝く。あるいは、空になった堺を落とす。それで、この戦は片がつく。木沢の功が大きくなりすぎるが、あまり図に乗るようならば、何か口実を作って誅殺すればいい。(略)
「赤松政村、並びに明石修理亮、謀反にございます!」

p279
浦上村宗死没享禄4年6月4日 (Wikipedia)
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洞松院(1460,1461,1463~没年不詳)
細川勝元の娘。細川政元の異母姉。赤松政則の妻(後室)。義子・赤松義村の後見人として赤松家を支えた女戦国大名。
義村と不仲になり、浦上村宗と組む。義村は暗殺され、義村の子である政村は明石修理亮とともに浦上村宗を最後に討つ。1531大物(だいもつ)崩れ。(Wikipedia洞勝院)
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第四章 夢の裂け目 p281
p284
これで、名実ともに細川六郎(晴元)が細川京兆家の家督。あとは足利義晴を下し、足利義維をただ一人の将軍とする。自分にも義維にも、三好元長という心強い兄がいるのだ。(略)
堺に凱旋し、勝利の宴は金蓮寺(こんれんじ)で。戦場で活躍した阿波衆や元長の直臣たちは大声で笑い、それぞれの手柄話を肴に盃を干していく。対照的に、茨木長隆や三好神五郎(政長)ら御前衆の顔は浮かない。木沢長政は今も飯盛山(いいもりやま)で蟄居。結局、堺公方府を支えているのは元長一人か。六郎は、軽い酔いを感じながら思った。

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