燕雀の夢 天野純希

p6 長尾為景 下剋の鬼
一五〇六~一五四二
長尾為景 越後府中長尾家 家臣傅役村山盛義。
父能景(よしかげ)
お屋形様、越後守護上杉房能(ふさよし)は気位ばかり高い。
先代房定は四〇年以上越後をよく治めた名君。
長尾家は足利幕府草創の頃から上杉家に仕え、代々越後守護代に。
房能から能景に、越中に攻め入った一向一揆討伐の命。
p10
父からの増援の要請で出陣を願い出た為景に房能はにべもなく言った。
「ならん。能景には手持ちの軍勢で何とかせよと申しておけ」(略)
p11
永正三年九月一九日、能景は越中砺波郡般若野において、一揆勢に大敗、討ち死に。「越中の国人衆の裏切りによりお味方は退路を断たれ、大殿は奮戦の後、討ち死に」(略)房能は最初から、父が負けるように画策。越中の国人衆を裏切らせた。だから増援も認めなかった。

p13
永正三年一一月。房能に叛旗を翻した五十嵐、石田を為景は鎮圧。
一一月一五日、為景らは越後府中に凱旋。

p17
永正四年。
上杉定実。房能の娘を正室に。男子のない房能の養子に。
p18
永正四年六月二三日。細川政元暗殺。
p19
八月一日。為景は手勢とともに上杉定実の屋敷に。八月六日。逃げた房能の居場所判明。
p21
未の刻(午後二時頃)、房能は天水(あまみず)で側近たちと自害。
p22
永正六年七月二八日。府中上杉館。軍議。房能を討って以来、為景は様々な手配り。銭八千匹をかき集めて幕府に献上、定実を正式な越後路守護職に就けることに成功した。上野平井城を中心に広い版図を持つ関東管領上杉顕定については、顕定と対立している相模の伊勢宗瑞(北条早雲)と同盟して対抗。
※扇谷上杉チームの早雲vs山内上杉チームの顕定
上杉顕定はついに大軍動員。越後侵攻。三国峠を越え、越後に。少なくとも六千の軍勢。
※弟の仇討ち。長兄夭逝。次兄顕定は山内上杉家に養子。三男が為景に殺された房能。
p23
顕定は五六歳。一三歳で山内上杉家を継いで以来、関東管領として数十年にわたり食うか食われるかの戦乱を生き抜いてきた男。対策なしで軍議は散会。伊達や蘆名、為景の母の実家である北信濃の高梨政盛から救援要請に対して色よい返事なし。
このまま負けるのか。越後の頂点に立ってわずか二年で滅びるのか。
「嫌だ。府中は捨てる。糸魚川まで退き、反攻に備える」
間もなく上越、中越はほぼ顕定の手に。
p24
八月。為景は糸魚川に近い西浜に砦を。同時に越中、北信濃、奥羽諸勢力に顕定の不法を訴え、協力要請。
九月。顕定の軍の一部が出陣。中越の三条城に籠もる為景方を攻めるため。
「反撃。手薄の府中を攻め、顕定を打ち払う。先方は盛義」
「なりません。こちらを誘い出す罠かも」
「選べ。出陣か、去るか」
盛義は出陣。為景が主力を率いて糸魚川の陣を出た途端、顕定は逆襲。盛義は追撃中に伏兵に襲われ、敵に包囲された。
「救援無用。ただちに撤退なさるべし」
使い番が盛義の言葉を伝えた。
「馬鹿な、ここで退けるか。盛義を死なせるな」
為景は前進した。
「先鋒壊滅。村山盛義殿、お討ち死に」
糸魚川で為景生まれてはじめて敗戦。為景、逃げる。
p27
永正七年正月。
為景は定実を擁し、越中へ逃亡。
顕定の本拠、関東では相模の伊勢宗瑞が台頭。顕定としては速やかに越後を固めて早々に関東へ帰りたいが、雪に阻まれている。
p29
為景方の処刑は、十日に一度は行われているという。密告が奨励され、無実にもかかわらず、ろくな詮議もなく斬られる者も多いらしい。顕定は越後人の気質を読み違えている。恐怖で人心を支配するつもりだろうが、越後のものは反発を強めるだけだ。
p30
四月一五日。為景は定実を擁し、越中から佐渡へ上陸。
足手まといになる定実を残して、北越後の蒲原に上陸。越中にいるはずの為景が反対方向から攻め寄せるとは、顕定は思っていないだろう。
顕定に対する一斉蜂起。
p31
揚北衆や
越中中部に所領を持つ古志長尾家当主、長尾房景
逼塞していた斎藤昌信、宇佐美房忠ら
形勢を見た北信濃の高梨政盛も味方を約束。
蒲原に陣を置くと国人衆が集まってきた。兵力は二千に。今度こそ完全に越後を支配。(略)数ヶ国を制すれば、じょうらくして天下に号令をかけることも夢ではない。
p32
五月二十日。越中に残した村山直義(盛義の遺児)が、高梨政盛と合流。越後攻め。今井、黒岩で顕定方を破り、糸魚川に陣を。狙い通り挟撃の形に。
六月六日。顕定は予想外の行動。北へ進軍。
「馬鹿な。府中を捨てる気か」口に下直後、為景は息を吞んだ。顕定の進む先には、長尾房景の蔵王堂城がある。房景の兵力はせいぜい三百。老女しても、三日もつかどうか。そして蔵王堂城を抜けば、ここ蒲原まで遮るものはない。肌が粟立った。顕定は府中を捨てるのと引き換えに、為景の首を獲るつもりなのだ。為景さえ討てば、府中を奪われたとしても、後でどうとでもなる。
「陣触れだ。蔵王堂城を救う」
「しかし兄上、テキパキ六千の大軍ですぞ」
「構わん。房景を見捨てれば我らの負けだ」
房景を助けたいわけではない。だが、蔵王堂城が落ちればずるずると押し込まれ、身動きが取れなくなる。配下となったことを見捨てたことで信を失い、離反も招く。正念場だ。
弟為繁を振り切り、全軍出陣。
蔵王堂城を囲む敵の背後を衝ければ勝ち目あり。
出陣翌日。城を囲む敵の陣が見えた。
「突き崩せ。顕定の首を挙げれば我らの勝ちぞ」
p34
「もはや支えきれません。ここはお退きください」
気づくと、周囲を味方が固めていた。そのまんま一丸となっている駆け抜ける。無我夢中。どれほど味方を失ったかわからない。だが、まだ生きている。命ある限り、終わりではない。自分に言い聞かせた。
p35
蔵王堂城は、その日のうちに落ちた。長尾房景は辛くも脱出し、為景の陣に逃げこんでいる。
敗戦から三日後の六月一二日。
「てき、蔵王堂城を発し、こちらに北上中。敵兵、およそ四千。総大将は上杉憲房」
顕定の養子だ。本人が出てこないのは、関東が気がかりだからか。

p37
「兄上、上条家がこちらに寝返りましたぞ」
為繁が声を弾ませる。敵は雪崩を打ったように敗走。(略)
為景は馬上から声をかけた。
「上条定憲殿。守護職定める公の舎弟でありながら顕定に味方した罪は此度の働きに免じて問わぬ」

p38
決戦は六月二十日。

p43
勝った。守護を討ち、関東管領を討った。なお、自分は生きている。天はわれを越後の主と認めたのだ。

p45
天文一一年(一五四二)も、残すところあとわずか。明ければ為景、五五歳。
「三三年か」
上杉顕定を討った長森原の合戦から。
(略)
顕定を倒した三年後、守護をないがしろにする為景を討つという名目で、上条定憲と宇佐美房忠が挙兵。背後に定実。(略)
越後がいちおうの安定を見ると、為景は越中への侵攻開始。かつて父を裏切り敗死に追いこんだ国人らを討ち、越中に版図を拡げる。一方、定実を介さず京の幕府や朝廷に献金。官途や禁裏の御旗を下賜された。越中侵攻の軍役負担や京への献金は、国人衆らの不満を増大。
(略)
上条定憲再度挙兵。越後再び戦乱。時を同じくして、京の戦乱で細川高国が敗死。為景は幕府の後ろ盾を失う。※高国を匿ったのは浦上村宗だっけ?
p46
為景は自身の身隠退を条件に、上条かたどる和議。それが六年前のこと。守護代職と長尾家の家督は当時まだ二八歳の嫡男晴景に。
晴景は定実の幽閉を解き、上条方との融和を図ったが、為景はその裏で刺客を放ち、上条定憲を密殺。気づいて反抗の気配を見せた斎藤昌信も、病死に見せかけ暗殺。晴景の知らぬこと。
側室の虎御前が産んだ次男の虎千代。とてつもない才を秘めていた。※上杉謙信! 為景の息子かあ。
p47
村山直義が為景を暗殺。
p48
「これを虎千代に」
血に汚れた毘沙門天。俺の息子には、似合いだと思った。
「虎千代に伝えよ。兄を倒せ。そして、京に長尾の旗を」

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p49 武田信虎 虎は死すとも
信長二六歳(一五六〇)
p71
永禄八年の夏
京にはきな臭さ。将軍義輝と、畿内を事実上支配する三好三人衆との間で緊張が高まっている。
※ということは、松永久秀失脚後か。
p73
義輝が討たれた。

p74
永禄一一年冬。
九月、亡き義輝の弟・義昭が、あの織田信長の合力を得て上洛。尾張に加え美濃までも制した信長は、京を支配していた三好三人衆を鎧袖一触で破り、畿内の大半をまたたくまに手に入れている。

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p97 伊達輝宗 決別の川
一五六七~一五八四 信長死後二年

p143 松平広忠 楽土の曙光 ※織田信秀
天文一〇年(一五四一)~天文一八年
於大の輿入れから物語は開始。信長八歳

p189 黎明の覇王 織田信秀
p191 ※信長一五歳
■天文(てんぶん)一六年(一五四七)九月
織田弾正忠(だんじょうのじょう)信秀は斎藤道三を攻めた。美濃金華山の麓にあたる井ノ口の町は、炎に包まれていた。敵兵は山上の稲葉山城へと引き揚げている。
p192
敵の兵力はおよそ六千。織田勢は、寝返った者も合わせて一万。さらに、北からは同盟を結んだ越前朝倉家の軍一万五千が美濃へ攻め入っていた。
戦の名目は、道三によって越前に追放された前美濃守護、土岐頼澄を復帰させること。隣国の主は知謀に長けた道三よりも、愚鈍な頼澄がよい。織田信秀と朝倉家当主孝景の思惑が一致。今回の美濃侵攻が決まった。
p193
元々、信秀が当主を務める織田弾正忠家は、尾張守護斯波氏の陪臣。斯波氏は長い戦乱で衰え、実権は守護代の織田家が。その織田家も、北の上四郡を支配する岩倉の織田伊勢守家と、南の下四郡を押さえる清洲の織田大和守家に分かれていた。そして弾正忠家は、大和守家に仕える奉行衆にすぎなかった。
弾正忠家の力が主家をしのぐほどになったのは、信秀の父、信定が尾張随一の湊、津島を支配してから。(略)信秀はまず、津島の富裕な商人に保護を与えた。一方で、その利益の一部を税金として吸い上げる。(略)信秀
立ちはだかったのが、北の斎藤道三と、東の今川義元。
□天文(てんぶん)一一年(一五四二)
五年前のこの年、信英は、三河小豆坂の戦いで今川義元の率いる大軍を破っている。
□天文(てんぶん)九年(一五四〇)
その二年前のこの年、今川と同盟を結ぶ三河岡崎の松平家から西三河の要衝安祥城を奪った。松平家は当主広忠がまだ若く、一族の内紛が絶えない。(略)
ゆえにここで道三を倒せば、北が安全になり、余った兵力を東に回せる。そして三河を完全に併呑した後、返す刀で無能な土岐頼澄を討てば、美濃一国も信秀のものになる。朝倉を敵に回すことになるが、尾張、三河、美濃の三国を手に入れれば、越前一国の朝倉など問題ない。(略)
p196
信秀は負けた。大敗だ。
p202
「近く、三河に兵を出す。采配を、そなた(信長)に委ねる」
信秀の言葉に、信長は目を見開いた。
「恐ろしいか。ならば、父が付き添ってやってもよい」
訊ねると、信長は激しく頭(かぶり)を振った。
「いらん。俺一人でやる」
p202
ひと月ほど後、吉良の町は戦の気配。吉良は信秀と同盟を結ぶ三河刈谷城主、水野信元の支配下。数日前から、吉良に近い大浜に今河軍が砦を。信長出陣。
大浜の今川軍はおよそ二千。信長の兵は八百ほど。
p203
信長の傳役平手政秀。
p204
「砦が普請の途上にあるのを見越して火攻めとは、さすがは平手様にございますな」(略)
浜の方から数百の軍勢。信長は槍と采配を手にし、陣頭に立っていた。(略)
一方的な殺戮だった。今川軍はほとんど討ち果たされた。(略)
信秀はなぜか素直に喜べなかった。(略)初陣とは思えなかった。信秀は嬉しさよりも、空恐ろしさを感じていた。あの采配がいつか自分に向かって振り下ろされるのではないか。

p205
■天文一七年(一五四八)
正月、三河岡崎へ送った使者の口上を聞き、信秀は唇を噛んだ。
「我が子を捨てても、今川を選ぶか」
昨年の美濃攻めに先立つ八月、信秀は松平広忠の長男竹千代を奪った。
※信秀は、竹千代が今川に人質として送られる時に、行き先を護送役買収により尾張へと変えさせた。
三月、今川家が動く。一万の軍。安祥城の攻略。(略)信長には那古屋で留守居を命じた。
三月一八日、古渡城を出陣した信秀は五千の軍で安祥城に入り、信広と合流。安祥と会わせても六千。今川は藤川まで達し、松平広忠の軍も合流して、一万二千。(略)
信広は、信長より六つ年長の二一歳。(略)敗戦。(略)
一一月、今度は道三が動いた。
信秀の押さえる西美濃の要衝、大垣城奪取の軍勢を集めているという。信秀は五千の軍を率いて大垣城へ。信長は今回も留守居を。
道三は稲葉山城から動かず。兵力は八千から一万。信秀は、大垣城の守兵を加えて七千。
p212
一大事。信秀の主筋織田大和守、清洲城で信秀打倒の挙兵。
信秀は馬廻衆五百のみで、夜を徹して古渡城へ。
p215
「かくなる上は、是非に及ばず。夜討ち。大和守の首を獲る」
信秀が押し切る形で夜襲。
p215
「お父、危うかったな」
「まだ、たったの二十挺だけだ。これからは鉄砲の多寡が戦を決める」
「お父は、いざとなると気が短い。仕掛けるならば今宵と踏んで、本陣の背後に潜んでいた」
認めるしかなかった。息子の才に嫉妬していたのだ。
「決めたぞ、信長。そなたに嫁を迎える。相手は、蝮の娘だ。不足はあるまい」
「面白い」
不敵な笑み。頼もしいことだと、信秀は思った。

p220
■天文一八年(一五四九)
正月、古渡城で信長と道三の娘、帰蝶の祝言。
p222
三月、三河安祥の信広から火急の報せ。信秀が末森城に移って間もない頃。
「三月六日、松平広忠が家臣に討たれたとの由」
信秀は確信。黒幕は太原雪斎(今川の軍師)。広忠の死の十日後、雪斎は大軍を率いて城主不在の岡崎城へ入り、城代の座に。
「まだだ。まだ、竹千代がわが掌中にある」
p223
信秀は平手政秀に命じ、松平家臣団の調略を命じた。が、松平家臣団は広忠暗殺の黒幕が信秀だと信じこんでいるという。
一一月、雪斎は二万の軍で安祥に攻め寄せた。城将の信広は捕縛。信秀遅かりし。
「信広と竹千代の交換だと?」
配下を見殺しにした大将には誰も従わない。それを防ぐには、竹千代と西三河を手放すしかなかった。
(略)
数日後、尾張鳴海城にて、人質交換。

p226
■天文一九年(一五五〇)
一月一九日、犬山城主織田信清が、信秀に謀反。軍二千。信秀直轄領の柏井村に攻め寄せた。信とは、三年前の美濃攻めで討ち死にした信秀の弟、信康の子。
p228
柏井村での勝利。これにより傾きかけた弾正忠家は、何とか持ちこたえた。
p229
■天文二〇年(一五五一)信長一八歳
二月の終わり、末森城を訪ねた信長が言った。
「そろそろ時ではないのか、お父」
「ほう」
「とぼけるな、守護代を滅ぼして尾張を統一」
「わしは隠居の報告をしに清洲の大和守のもとへまいる。そなたは当主じゃ。清洲で何が起ころうと狼狽えるでないぞ」
「お父、死ぬ気か」
主筋であると大和守家を滅ぼすには大義名分がいる。父の仇討ちとなれば別だ。事前に毒をのんで清洲で果てれば、誰もが大和守の謀殺と見るだろう。
p236
「信長…久子を、伸之を…討て」
その一言で、信長はすべてを察したようだった。端正な顔が憎悪に歪む。
「わかった、俺が殺してやる。だから、お父、まだ死ぬな」
信長の表情に、憎悪とは別の色が浮かんだ。ほとんど感覚の無くなった信秀の頬に、温かいものが落ちる。
「泣くな、信長。人の生など、夢幻ぞ…」

p236 木下弥右衛門 燕雀の夢 ※織田信秀二三歳
秀吉の母、仲。
■一五三三年または三二年か?
p245
那古屋城で変事。
織田大和守に仕える織田弾正忠(だんじょうのじょう)信秀が、わずかな兵で那古屋城を乗っ取った。那古屋城は元々、駿河を本拠とする那古屋今川家の城。駿河、遠江を領する大国、今川家の一族で、当主は氏豊という。
氏豊は那古屋から熱田湊にいたる広大な領地を支配。織田家とは良好な関係。諍いの種はなし。
p246
信秀は一夜にして那古屋城を奪うと、翌朝には手勢を繰り出し、熱田湊まで押さえた。城主の氏豊は何処かへ落ち延びたという。(略)
「弾正忠は、父の代に津島の湊を押さえた。熱田までも掌中に収めれば、わしらには想像もつかんほどの銭が弾正忠の懐に(略)」
勝端(しよばた)城を本拠とする弾正忠家は元々、織田大和守に仕える奉行衆の一人にすぎなかった。だが、津島から挙がる銭を元手に勢力を拡げ、今や主家の大和守をも凌ぐ権勢を持つという。大和守も、信秀の行動を黙認せざるを得なかったのだろう。(略)
信秀はまず、連歌を通じて氏豊に近づき、互いの城を行き来するほど親交を深めたという。そして、連歌の会で那古屋へ招かれた機会に乗じ、策を決行。会が終わった後の酒宴で城の者たちが眠りこけている隙を衝き、門を開いて城外に伏せていた手勢を引き入れた。
信秀は永正七年(一五一〇)生まれ。この年、二三歳。父の死で弾正忠家の家督を継いだのは、今から五年前。(略)いずれは無双の大将になるに違いない。
p247
尾張は応仁の乱で守護の斯波氏が没落して以来、清洲の下四郡守護代・織田大和守家と、上四郡守護代で岩倉を本拠とする織田伊勢守家、そして那古屋今川家が割拠。各地の国人や土豪衆も概ねそのいずれかに属している。この十数年は大きな戦もなく、小康状態。だが信秀の台頭。戦が増える。

p249
それから一月半ほど後。正月早々、岩倉の織田伊勢守が、那古屋に向かって出陣。※織田信秀攻め
中村郷には清洲の織田大和守から、足軽を出して信秀の軍に加われと命令が。
木下弥右衛門、出陣。
p251
信秀率いる那古屋勢は、城を出ると、庄内川を越えたところで背水の陣を敷く。

p267
天文一一年八月。織田信秀率いる織田軍はおよそ四千。松平家の本城、岡崎は目の前。後に『守山崩れ』と呼ばれるようになった松平清康の横死から、七年が経っていた。あれから信秀は徐々に松平領を浸食し、今や三河の西半分は織田家の領土となっている。清康の跡を継いだ広忠は、駿河今川家の傘下に収まることで、何とか信秀の侵攻を食い止めていた。
今回の戦は、今川義元自らが安祥城奪回のため大軍で出馬。信秀はすぐ安祥へ入った。今川、松平連合軍、実に一万余。信秀は籠城策を採らず、果敢に出陣を命令。決戦はおそらく小豆坂。
(略)
p266
天正元年(一五七三)、冬。竹阿弥、六三歳。
p277
小豆坂の戦から数年後、岩松八弥は何を思ったか、主君の松平広忠を斬殺し、自身も岡崎城内で斬り殺された。竹阿弥(木下弥右衛門。秀吉の父)が憧れてやまなかった信秀も、美濃攻めに敗れた後は尾張の覇者の座から転げ落ち、四二歳の若さで逝った。
跡継ぎの信長は、桶狭間で今川義元を討ち取ると、美濃を攻め取り、とうとう京まで兵を進めた。先日、宿敵の近江浅井、越前朝倉の両家を滅ぼした。
p281
秀吉の築いた城が完成したのは、天正三年の夏頃。城の落成とともに、秀吉は彼の地(今浜)を長浜と改めている。信長の名から一字を拝領したという。

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