蝮の孫 天野純希

斎藤道三(1494-1556)
斎藤龍興(1527-1561)
斎藤龍興(1548-1573)

p9
隣国の尾張織田家とは、祖父道三の代には同盟を結んでいた。道三の娘帰蝶が織田家に嫁いでいるので、信長は斎藤龍興にとっては義理の叔父に当たる。だが、龍興の父義龍が不仲となった道三を討って以来、両家は不倶戴天の敵と言ってもいい間柄。
p10
そして二年前(永禄四年(一五六一))に名将と謳われた義龍が没すると、織田の軍勢はたびたび国境を越えて侵入を繰り返す。

p25
龍興を傀儡とし、重治が美濃一国の政を差配する。そして機会を見て、龍興は暗殺なり放逐なりすればいい。土岐家を追って美濃を乗っ取った斎藤道三も、同じやり方をしている。我が子に首を取られるような愚か者にできて、この自分にできないはずがない。

p80
永禄九年(一五六六)閏八月。謀反を起こした竹中半兵衛重治から稲葉山城を奪回して二年が経ち、龍興はようやく一九歳になった。家督を継いでからは五年。(略)
「信長め、ようやくの和睦を簡単に反故にするとは、やはり信の置けぬ輩」
p82
信長との和睦が成立したのは、ほんの数ヶ月前。仲介は、ミヨシ一党に謀殺された前の公方足利義輝の弟、義秋。今は三好の手を逃れて近江の矢島に逼塞しているが、兄の仇を討つために諸国の大名に支援を求めている。その一環としての、斎藤・織田両家にたいする和睦の仲介だった。見返りに、両家から三好を討つための兵を借りようという魂胆。

p94 永禄一〇年(一五六七)?
竹中半兵衛重治は(略)世捨て人のように二年以上も山中の閑居に籠もり、二四歳になっていた。(略)
「そのほうか。我が誘いを足蹴にし、美濃半国を棒に振った大うつけは」(略)
「わしは、京に上る」
「美濃を奪った暁には、上洛し、足利義秋を将軍に立てる。逆らう者があれば、全て討ち滅ぼす。うずれ、この日ノ本はわしの名の下にひとつとなる」

p117
永禄一一年(一五六八)
龍興は、堺で二一歳に。(略)
一〇月、龍興の耳に、嫌でも信長の動向が。上洛した信長は、三好三人衆を鎧袖一触で破り、わずか数日で京の周辺を制圧。三人衆は本拠の阿波へ逃げ、摂津の池田勝正、大和の松永久秀は人質を差し出して降伏。

p155
永禄一二年(一五六九)
一月五日、本拠阿波に逃れていた三好三人衆が京に侵入し、信長が擁する将軍足利義昭の宿所本圀寺(ほんこくじ)を包囲。信長と配下の大軍が岐阜へ戻ったところを見計らっての挙兵。
本圀寺の守兵は、明智光秀の指揮する幕府奉公衆を中心とした一千余。対する三好軍は、五千とも八千とも。

※本圀寺は、建長5年(1253)8月、日蓮大聖人が鎌倉松葉ヶ谷に構えた法華堂を始めとされております。
その後、弘長3年(1263)5月には大光山本国土妙寺として創立されました、宗門史上最初の祖跡寺院です。
光厳天皇の勅諚を受けた四世日静聖人により、貞和元年(1345)3月に京都六条へ移遷され、その後、昭和46年(1971)に現在の地・山科へ移されました。(本圀寺サイト)

p157
「追撃だ。手柄の稼ぎ時ぞ!」
秀吉の声(略)。弱兵揃いの織田兵でも、手柄はいくらでも挙げられる。
だが、前衛が敵の最後尾に雪崩れ込んだ時、右手の雑木林から突如轟音が響いた。味方がばたばたと倒れ、竹中半兵衛重治の周囲でも悲鳴が上がる。(略)鋒矢の陣。まるで、自軍(三好軍)の敗走を予期していたかのような動き。(略)
「木下さま、ここは一旦退くべきです!」
「…わかった」
p158
敵の旗印に重治は目を凝らした。
二頭立波。美濃斎藤家の旗。
「あの男か」
(略)遠ざかる旗を睨みつける。(略)よほどの因縁で結ばれているらしい。

p159
永禄一二年(一五六九)
一月八日、信長がわずかな人数で京に入った。(略)寺を守り抜いた明智光秀を褒め称えた。(略)
今にして思えば、義昭は単なる餌にすぎなかった。信長は三好の勢力を壊滅させるため、わざと京を手薄にしたのだろう。せっかく洛中に率いれた三好三人衆を取り逃がした秀吉に恩賞が出るはずもなかった。重治の読みの甘さが招いた結果でもある。

p191
元亀元年(一五七〇) 龍興二三歳
九月一二日、斎藤龍興は摂津福島城に籠もっていた。
四月、盟友浅井長政の裏切りによって越前攻めに失敗した信長は、本拠美濃に戻るとすぐに反撃開始。
六月、姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍を破り、長政の居城小谷から目と鼻の先にある横山城を奪っている。
七月下旬、本圀寺での合戦に敗れ阿波に逃げた三好三人衆は再び八千の兵で摂津に上陸。近隣の織田の城を攻略し、野田、福島の古城を修理して籠城。三好家客将龍興も参陣、福島城の指揮を任されている。
八月二六日、信長は天王寺に本陣。野田、福島から南東へ一里余。足利義昭も出馬させた。信長は幕府再興という錦の御旗を掲げていたから。総兵力四万。
九月一二日、払暁、信長は福島城を囲ませた一万余の兵に攻撃を開始させた。
p194
雑賀孫市も福島城に。二五歳。
p196
福島城を囲んでいた敵が、十町(約千百メートル)近くも後退。城の周囲は広大な沼地。福島城は浮かぶ小さな島の趣。
唖然とする龍興に孫市は言う。
「強い西風で淀川が逆流した。この時季にはよくある。それに合わせて堤を切った」
「誰が堤を」
「一向門徒」
「なんと」
「石山本願寺が動いた。信長は底なし沼に首まで浸かったようなものよ」
一向宗総本山である石山は、野田、福島から一里と離れていない。
「なぜ、石山が」
「信長は本願寺に矢銭(やせん)と石山からの退去を要求した。本願寺は矢銭こそ払ったが、信長をよく思うはずもない」(略)
「大風の時季に兵を挙げ、大軍の動きを阻む。そして信長の背後を本願寺が衝く。それだけではない。信長が摂津に釘付けになっている間に浅井、朝倉が京に向かって動く。今頃、それぞれ出陣したところだろう」
六月の姉川の合戦は相当な激戦とだったが、浅井も朝倉もまだ余力を残していたということ。
「他にも、本願寺の檄に応じた伊勢長島の一向門徒が近々蜂起。江南でも六角承禎が再び兵を挙げると確約した」
「なるほど。見事な策です」
六角承禎は、かつて南近江の大名だったが、一昨年(一五六八)信長に敗れ、甲賀山中に逼塞していた。伊勢と江南での蜂起が実現すれば、信長は本拠美濃から完全に切り離される。
「誰がこれほど大掛かりな仕掛けを?」
「足利義昭。反織田包囲網。ただの操り人形ではない」(略)
p198
「黒幕が義昭公であることを、信長は?」
「勘づいているだろう。それでも平然と義昭公を出馬させるのが、あの男の恐いところよ」
手元に置いて監視ということだろう。さらに、こちらは敵の本陣を攻めることができない。義昭の身にもしなにかあれば、反織田の諸侯は要を失い、将軍殺しという大罪まで背負う。総大将を人質に取られているのと同じだ。

p207
元亀元年(一五七〇) 龍興二三歳
九月二三日、信長は摂津から兵を返した。
翌二四日、休む間もなく逢坂の関を越え、比叡山の東麓坂本に陣を敷いた。延暦寺に中立を保つよう使者を送るが回答なし。それからひと月近く経つが、織田軍と比叡山に立て籠もる浅井・朝倉軍の睨み合いが続いていた。
四千とも五千とも言われる僧兵を抱える比叡山延暦寺は、これまでどの大名にも与せず、常に中立を保ってきた。その延暦寺が反織田を表明した影響は大きい。
p208
織田軍本隊が去った摂津では三好三人衆で暴れ回っていた。京へ出る気配はない。旧領を取り戻すのみで、信長を討つという気概は見られない。
石山本願寺も似たようなもの。ただ、呼応した伊勢長島の門徒たちは不穏な動き。
厄介なのは江南。六角承禎が挙兵。本願寺の檄に応じた門徒と地侍(※国衆あるいは国人と同意で使用された語か?)も連合して方々で蜂起。織田の領土は分断され、信長の本拠である美濃、尾張からの兵站も断たれている。いずれ兵糧が尽きれば終わりである。
だが江南の一揆を鎮圧し兵站を確保しようにも、各地の織田軍はそれぞれに敵を抱え、兵力が足りない。
十月、いま秀吉がいる横山城も主兵は二千。対する小谷城は三千。(略)
p209
竹中半兵衛重治は一同を見回した。
「我らがなさねばならぬのは、美濃と京を結ぶ線を確保し、本隊を孤立から救い出すことです。(略)ただちに城兵の半数を率いて出陣なさいませ。留守はそれがしが守ります。(略)援軍は参ります。(略)徳川軍五千、すでに木曽川を越え、美濃にまで達しております」
越前金ヶ崎での退き陣、続く姉川の合戦で徳川軍の精強さは織田家中に知れ渡っている。

p213
(大坂)福島城で織田本隊の撤退を見届けた龍興は、孫一とともにわずかな手勢を引き連れ、江南へ移動した。美濃と織田軍本隊で分断し、信長を孤立させるため。

p224
「切り抜けましたな」
竹中重治に木下秀長が言う。(略)
死を恐れない敵(門徒。洗脳。テロリスト)にはどんな作目効果はない。(略)駆けつけた徳川軍が敵を粉砕したのは、ほんの半刻ばかり前だ。(略)
一昨日、秀吉が江南で破った四千の敵も、オオクガ一向門徒だった。総大将は斎藤龍興。(略)
戦は圧勝。龍興の生死は定かではない。

p226
一一月二一日、伊勢長島
二五日、湖西堅田
信長、和議。朝廷を動かし、天皇から和議を命じる綸旨を引き出した信長は、「天下は朝倉殿が持ちたまえ。我は二度と望まず」とまで言って、浅井、朝倉に頭を下げてみせたという。
一二月一四日、信長は比叡山(坂本)から兵を退き、翌日には浅井・朝倉軍も山を下りて帰国。
p227
本願寺を屈服させるには、門徒たちを殺して、殺し尽くすしかない。相手が民であろうと、己に逆らう限り、信長は一切の妥協を許さない。

p228 第七章 流浪の果ては
p229
元亀二年(一五七一)
九月一二日、木下秀吉と兵二千は比叡山の北方、横川(よかわ)に布陣。
「悪いのは叡山じゃ。僧兵を抱え、肉食妻帯し、あまつさえ浅井、朝倉に味方までしおった。焼き払われるのも、当然の報いじゃ」
自分に言い聞かせるように、秀吉はぶつぶつ呟いている。
※人は神を信じてしまい、恐れる。
昨年九月、信長は、あくまで敵対するのであれば、比叡山の全山ことごとく焼き払うと言い放った。
敵味方問わず、誰もが脅しに過ぎないと判断。だが信長は一年の時を経てその言葉を実行する。
p230
比叡山にいるのは僧侶だけではない。四千の僧兵、相手をする遊女、年端もいかない稚児も、織田軍から逃げてきた麓の坂本の民。
僧俗、老若男女を問わず、そのことごとくを殺せ。一人も逃がすな。坂本に本陣を置いた信長はそう命令している。
※今ならば国際法違反で国連から罰を受けるだろう。笑

p268 第八章 旗は無くとも

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