松永弾正久秀 黒部亨

p34(『松永弾正久秀』黒部亨)
永正一一年(一五一四)夏、之長は高国との戦に敗れて京の百万遍で自害した。
あとを継いだのが現当主元長。いま山城下五郡(愛宕、葛野、宇治、紀伊、乙訓)の守護代。押しも押されもせぬ権力者。将軍も管領もいま細川家の内紛のあおりをくらって近江へ逃亡しているため、元長は堺にいる細川義維(※おかしい? 足利義維の間違い)の代理という形で京に君臨していた。
※『覇道の槍』天野純希、『妖雲』徳永真一郎と違う。

p46
この二年のあいだに京もすっかり変わっていた。去年の秋に三好元長が柳本賢治との政争に敗れて阿波へ引き揚げていったという。
※政争? これも違う。

p48
兵書のなかでは、ほかの学問や仏典とことなって、人を欺くのも殺すのも正当なこととして認められていた。奪うことも、裏切ることも悪ではない。要は勝つことにある。この世に万古不易の正義などない。勝つこと、強いことが正義であり、弱者や敗北者は不正義なのだ。戦の名目たる大義名分などはそのつど勝手にでっちあげればよい。
たしかに現実はすべてそうなっている。ほかの学問にはいつわりが多いけれども、兵書には人間の現実に直結した真理がある。

p51(『松永弾正久秀』黒部亨)
享禄四年(一五三一)夏、阿波へ引き揚げていた三好元長は、四国の軍勢を催して畿内へ反撃してきた。こんどは細川澄元の子晴元を奉じて宿敵の細川高国を破って入京。ふたたび政権の座に返り咲いたものの、あいかわらず細川家の内紛はやむことなく、こんどは元長の復活を喜ばない摂津の国衆がかれに敵対して立ちあがった。するとまた元長と主君晴元とのあいだに確執が生じた。晴元の側近には実力者の木沢長政とともにいまひとり、元長を追放した陰の策士三好宗三(政長。祖父之長の甥。三好家庶流)がいてにらみをきかしている。
※茨木長隆の名が見当たらない。1996.5刊行時にはまだ知られていなかったのか。
p51
元長は宗三と決着をつけるため主君に刃向かうはめになって、戦いは河内方面で展開。はじめ元長有利。が、晴元が本願寺門主の証如(※他の本では光教? 同一人物か)と同盟して門徒勢力を味方に。形成逆転。
天文元年(一五三二)、元長剃髪、堺の南庄に隠れた。十万といわれる本願寺門徒勢が堺を包囲。元長は顕本寺で自害した。激怒のあまりみずからの腸(はらわた)をつかみ出して天井に投げつけた。

p59
「家臣を頭から信じこんではなりませぬぞっ(略)大将たるもの、家臣を信頼するは第一義のことながら、みずから人をまるごと信ずるは破滅のもと。すべからく家臣を疑ってかかるべし。(略)人間はきのうと今日はおなじ人間にあらず。人は容易に変節するものとお心得あるべし。大将とは孤独なものでござる」

p67
天文二年(一五三三)六月、三好勢は長慶を奉じて芝生城(しぼうじょう)を発し、念願の畿内進出を果たした。
いらい長慶は晴元の内衆として、曽祖父之長とおなじ、摂津半国の守護代。西宮の越水城が拠点。京都にも屋敷をかまえて、京都と越水城のあいだを往復して幕府に出仕する生活がはじまった。

p68
越水城の東を南北に武庫川が流れている。

p115
長慶の三人の弟たちは久秀にとっていずれもあつかいにくい相手だった。
長弟の実休(義賢)
三弟の一存(かずまさ)※姓は十河(そごう)
次弟の冬康こそ久秀にとってもっとも難物だった。

p150
多聞城がほぼ完成したころ(略)※奈良の聖武天皇陵のそば。現在は中学校。
p152
三好長慶の病は無気力症ともいうべきもので、要するに四十歳に達して政治に倦み、戦にも施政にも急速に意欲を失ってしまった。万事逃避的になってわずらわしいことには関知しなくなり、連歌・茶湯など風雅の道に韜晦する明け暮れがつづいている。(略)
p153
昨年の五月、かねて出家していた旧主細川晴元が、将軍の口ききによって長慶と和睦し、これを機に摂津富田の普門寺にはいって余生を送ることになった。この和睦を長慶は旧懐の涙を流してよろこんだ。親を殺され、幾度となく利用されては裏切られ、さんざん煮え湯を飲まされているにもかかわらず、ただ旧主というだけでうれし涙にくれている長慶の人の好さが、松永久秀にはどうしても理解できなかった。
p154
今年の春、和泉と京の両方で大合戦が。相手は近江六角義賢と紀伊畠山高政。義賢は義兄弟の細川晴元の無念を晴らすため。※和睦したのに? 無念の和睦と六角義賢は理解したのか?
高政は河内を長慶に奪われた怨みを晴らすため。ともに連携しつつ同時に挙兵。南北から長慶を挟撃。義賢は京の瓜生山城にはいって洛中ににらみをきかせ、高政は十河一存が亡きあと弱体化した岸和田城をねらった。ふたりの背後に将軍義輝がいることは天下周知の事実。
三好方のうち、実休は三好長逸ら一族とともに岸和田城に集結して畠山勢にあたった。京都防衛軍としては長慶の嫡子義興(よしおき)が梅津に、久秀は東の西院に七千の兵をもって六角勢にあたった。(略)
戦は年を越して永禄五年(一五六二)三月、※信長二八歳
和泉国久米田合戦で三好軍はついに総崩れ。安宅町冬康は岸和田城を見捨てていったん淡路へ引き揚げたが、兄実休は(略)根来寺宗徒の鉄砲に倒れた。
※p155~p156,3行目まで、久秀の謀略で勝利。柳生宗厳が賞賛。
p156
「尾張の人…とは織田上総介のことでござるか」
「御意。(略)先年の上洛といい、この正月の三河徳川との和平同盟といい、(略)」
一昨年、信長が桶狭間において今川義元を討ち取った一戦は、全国に鮮烈な印象をあたえて、ちまたでは「東海の麒麟児」だの「不世出の武将」だの(略)三河の徳川家康と和平同盟を結んだのも、東方の不安を消して西方、すなわち京へ進出する意図(略)。
いま信長は美濃の斎藤攻めにとりかかって大垣の北方へ侵攻している。それが片づきしだい後顧の憂いなく畿内へ攻めのぼってくるだろうと柳生宗厳は心配。

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