『妖雲 三好長慶』徳永真一郎

主要登場人物
将軍義晴、管領晴元、叔父政長(河内代官。堺がある)、守役松永久秀、三好三人衆
p51
(若いが、この三好範長という男は大物だぞ)
六角定頼は考えた。

史跡
https://akiou.wordpress.com/2017/06/25/shozui/
http://saigokunoyamajiro.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8.html?m=1
https://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q11121719686

婚儀p52
p64
「いっぽう細川政元は、魔法に明け暮れ、女にも振りむかない有様だったから、嗣子さえいなかった。これを心配した家臣たちは、無理やりに、前摂政の九条政基の末っ子を養子に迎え、(※猶子とも)これを澄之と名のらせ、とりあえずは、丹波一国を与えていた」
「しかし、細川家(※内部の別の一派)では、それを不満として、十二年後に、阿波屋形の細川成之さまのお孫さまにあたる六郎澄元さまを、政元さまの二人目のご養子になされたのですね」
範長(※のちの三好長慶)の新妻お琴がいった。
「うむ、それが細川家の流れを二つに割り、家臣たちは澄之派と澄元派に分かれて、争うもととなってしまった」(略)
このこと(※両細川の乱の原因)が三好の名を世に広めるきっかけになったが、そのために、範長の曽祖父の之長は(略)世間から、
p65
「大悪の大出(最高)なるもの」
なる悪評をもらい、京都の百万遍の智恩寺で自害することになる。
「範長さまの曽祖父にあたる之長さまは、阿波細川家の重臣として澄元さまを擁立したわけですね」
「もちろんだ。政元はそのころ、幕政をおろかにし、魔法に夢中になっていた。飛びあがって、空中に立つというような芸当をしたというが、それが、はたして真実かどうかわからぬ。が、政元が幕政をかえりみなかったことだけは事実であったろう。そこで摂津守護代だった薬師寺与一という人が、政元を殺し、澄元を迎えようとしたが、これは失敗した」
「与一という方は弟の薬師寺長忠という人に、攻められて敗死したのですね」
「その後、政元は、やはり澄元を必要としたのであろう、長忠に命じて澄元を阿波から迎えることとなった」
「このとき、あなたさまの曽祖父の之長さまが、阿波小笠原の惣領として、澄元さまをお守りしたというわけですね」
「之長が上陸してくると、薬師寺長忠は、之長に恐れをいだくようになった。それは、評判どおりの切れ者で、武勇の達人であるとわかったからだ。長忠にしてみれば、兄の与一を殺し政元の腹心になってはいたが、之長がいたのでは、とうてい第一の実力者にはなれないだろうと考えた」(略)
永正四年(一五〇七)六月二三日。細川政元は湯殿。三人の武士が踏みこんできて、
「お命ちょうだいいたす」
p66
享年四二歳。
長忠が暗殺した。
「六郎澄元さまを擁する三好筑前守之長がいる以上、われらは、いつも日陰に甘んじておらねばならぬぞ。それよりは、いまのうちに、政元さまを殺め、丹波から九郞澄之さまをお迎えして、細川家を継がせ、われらの天下にしようではないか」
(略)
翌日、長忠ら澄之派は、六郎澄元の館を急襲した。
不意をつかれた澄元は、一八歳の若さながら、自ら奮戦し、深手を負った。このとき澄元を助けたのが、筑前守之長だった。
「武勇の達人」
だと、阿波守護の細川義春、つまり澄元の父から折り紙をつけられ、澄元の身辺警護を頼まれただけのことはある。(略)
p67
澄元を守った之長は、まず近江守護の六角高頼を頼った。このとき高頼は隠居していたが、まだ六角家の実権を握っており、江南一円の武士たちを顎で使っていた。
高頼は、甲賀谷の武将山中為俊を観音寺城に呼び、かくまうように命じた。
「それから之長さまは、いかがなされたのでしょう」
「澄之を丹波から迎えて、遊初軒という邸宅に住まわせている薬師寺一味を襲撃してやろうと、六角高頼と相談して、甲賀武士たちを中心に三千ばかりの兵を集め、政元が暗殺されてから四〇日後の八月一日、遊初軒を囲み、薬師寺長忠と香西元長を討ちとり、澄之を自刃に追いこんだ」

p70-73 高国の裏切り、流れ将軍復活。
永正五年(一五〇八)四月九日、之長は澄元を連れて近江に。
同年四月一六日、将軍義澄も京を逃げ出し、まず朽木谷に身をひそめ、やがて蒲生の岡山城の九里(くのり)備前守員秀(かずひで)を頼ることになる。

p74-75
之長は「義澄さまのために、きっと、都を奪回してみせましょうぞ」と、前管領の澄元に誓い、
永正六年六月、甲賀武士たちの援助のもと、山城の如意岳に出陣したが、大内義興の大軍に囲まれ、やむなく敗走。
直後も之長は嫡男三好長秀と再出撃。管領はが逆襲。長秀は伊勢の山田まで敗走して追撃され自害。
十月二六日、之長はわが子長秀の仇討ちのため甲賀者で夜討ちの達人円珍という時宗僧を選び、義稙暗殺未遂。
永正八年三月五日、前将軍義澄の妻福子が嫡子亀王丸を生んだ。のちの一二代将軍義晴である。
朗報に合わせるかのように、之長は細川澄元を擁して、五千の軍とともに境に上陸。澄元の妹婿で和泉守護の細川政賢を味方にひき入れ、八千余りにふくれあがった軍をもって、泉州深井で高国軍を破った。
p76
八月一四日、義澄病死。将軍返り咲き目前。三二歳。
八月一六日、之長を主将とする澄元軍上洛。
八月二三日、丹波に逃げこんでいた将軍義稙を奉じて、管領高国と管領代大内義興が二万五千の大軍をひきつれ、北山から出陣してきた。
「近江御所は、十日も前に死んでいるらしいぞ。それなら、この戦いだれのためにするのかわかったものでない」
澄元の妹婿ということで総大将の細川政賢は羅漢橋で討ち死に。
p78
永正一〇年()当時、播磨守護赤松義村に預けられていた義澄遺児亀王丸をひきだし、将軍義稙に預け、和議を結んだ。反対した管領高国と口論になり、義稙は、いったん近江の甲賀に身を避けた。亀王丸はまた義村に預けられた。大内義興の仲裁で、義稙は都へ戻る。二年後には三条高倉に新御所を造り、住んだ。義稙は勝手に畠山種長を管領にするなどして、高国を怒らせた。そして在京費用が底をついてきた大内義興は帰国。
喜んだのは三好之長。
永正一五年()九月、阿波、讃岐の兵をひきいて、淡路に入り、やがて兵庫に移り、制海権を確保したうえで、上洛の機会をねらった。
p79

-83之長の死

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