20171113 物理2600年の歴史を変えた51のスケッチ ドン・S・レモンズ

p8
数学は科学の言葉である。(ガリレオ)
p35
「人間は自然に服従することによってのみこれを支配できる」フランシス・ベーコン(1561~1626)
p69
1588年、シモン・ステヴィン(1548~1620)はオランダのデルフトで、ピロポノス(490~570)が本に書いた自由落下の実験を実際に再現した。ガリレオは、おそらく自由落下の実験(ピサの斜塔の実験)を行っていない。しかし彼の生まれる1000年も前にピロポノスによって行われた自由落下の実験の功績は、ガリレオに与えられている。歴史の皮肉といえる。
p74
眼球の奥の網膜に、視覚をもたらす像が形成される。それがわかるのはヨハネス・ケプラーが牛の眼を解剖する1604年。
p75
光学
プトレマイオス(90~168)入射角とはんしゃかくは等しい。
アルハゼン(965~1040)ファーティマ朝の王に依頼されたナイル川の工事を断るため狂人を装い投獄され獄中で研究。視円錐(外装理論)の長所を内装理論の長所と合体。『光学の書』
外装理論…エウクレイデス、プトレマイオス。眼から光線。
内装理論…アリストテレス、ガレノス。眼に光線。
『光学の書』に言及した学者
ロジャー・ベーコン(1214~1294)
ヨハネス・ケプラー(1571~1630)
ヴィレブロルト・スネル(1580~1626)
ピエール・フェルマー(1601~1665)

p77
ニコル・オレーム(1323~1382)フランス北西部リジュー司教。最古のグラフ「オレームの三角形」。速度(縦軸)と時間(横軸)。

p105
ヴィレブロスト・スネル(1580~1626)
スネルの法則。光の屈折。
p106
光の性質の仮説。
ルネ・デカルト(1596~1650)の説明。「光は異なる媒体の境界を通るとき、速度を上げるか下げるかする」
ピエール・ド・フェルマー(1601~1665)の説明。
「光は二つの点を通るとき、最短経路を通る」フェルマーの原理。
1850年、水中と空気中の光の速度が計測され、空気中の方が速かったので、フェルマーが正しかった。
※光速度一定なのでは?
p109
デカルトや17世紀の自然科学者にとって、光の伝わり方は純粋に機械的なプロセスでなければならず、それを説明するのに目的志向のような振る舞い(光粒子が最短経路を探す)が関わるのは認められなかった。数学的には文句のつけようがない(フェルマーの最小時間の原理に基づく)説明と、機械的でなければならないとする物理学の要求との対立は、19世紀初頭に「光の波動説」が大勝利を収めるまで続いた。
※波動説ならなぜ勝利できる? さらに、その後、粒子との二面性が発見されたらどうなった?

p110
光を集める凸レンズと、目で覗く凹レンズを一枚の筒に並べる。
1608年、ハンス・リッペルスハイは、当時『スパイグラス』と呼ばれたこの装置の特許を取ろうとした。倍率3倍。
1609年5月、ガリレオはスパイグラスの話を聞き、夏には改良版スパイグラスをつくりはじめた。最終的に倍率30倍。
少なくとも20倍以上の倍率がないとガリレオが初めて自家製スパイグラスを天に向けたときに見た「驚くべき光景」を見ることができなかった。
p112
平らだと思われていた月の表面は、山とクレーターでデコボコだった。天の川は、じつはおびただしい数の星の集まりだった。何よりも驚いたことに、木星を中心に回っている四つの「さまよえる星(惑星)」が見つかった。
p113
『星界の報告』という短い本にまとめた。ガリレオにしては珍しく、母語のイタリア語でなぬ当時のラテン語で書いている。すぐさまイタリアで大評判。(略)
ガリレオは月のさまざまな山の高さを割り出せた。もっとも高い山は4マイル。これは現代の測定結果からそれほどずれていない。
p114
月の表面がデコボコという事実は、アリストテレスの宇宙論できわめて重要であった「不完全な地上界(地球と大気圏)」と「完全なる天界(月も含まれる)」との区別を根底から揺るがした。
※地球と月の造りはいっしょじゃん、てか。
ガリレオは望遠鏡で発見していた頃、密かにコペルニクスの地動説を信じていた。数年後には公の場でもそれを隠さなくなる。地動説は間違いない確信したのだろう。

18 木星の月 1610年
p115
『星界の報告』
p116
1610.1.7~13 「(略)木星の四つの惑星の姿が明るみに出たのだ」。
p119
いまでは、木星のもっとも明るい四つの月は神話の登場人物にちなんでガニメデ、カリスト、イオ、エウロパと名付けられている。すべてゼウス(木星)が口説き落とした女性じゃ。
木星の月は全部で67個ある。
p120
ずっと敬虔なカトリック信者だったガリレオは、ヨシュアが奇跡を起こして「民がその敵を打ち破るまで」夜にならないように一日を引き延ばしたことを疑ってはいなかった。
※まじか?
ヨシュアが太陽に動きを止めるように命じた部分(『ヨシュア記』10章12-13節)や、聖書内に何カ所か、地球が静止しているとする記述がある。しかしガリレオは、その記述は「静止した地球の周りを太陽が回っている」と信じている読者のためだという解釈を示した。
※方便だと。
このような弁明は、聖書を解釈する権利を独占していたローマ教会幹部に悪い印象を与えた。

19 惑星運動 ケプラーの法則 1620年
p121
ヨハネス・ケプラー(1571~1630)
1600年2月、ケプラーはティコ・ブラーエ(1546~1601)と出会った。
※後日
p125
ケプラーは非常に信心深く(略)
※この時代「神」は生きていた。

20 ガリレオの考えた自由落下 1638年
21 ガリレオの考えた放物運動 1638年
22 ガリレオ 拡大縮小と相似 1638年
23 空気の重さ 1644年
p143
エヴァンジェリスタ・トリチェリ(1608~1647)
p144
トリチェリの真空
p145
トリチェリはガリレオをたいそう尊敬し、盲目でしかも軟禁中だったこの人物が亡くなる最後の三カ月間、身の回りの世話をしたほどでした。しかし、真空が水の重さを支えているとするガリレオの説は否定した。

p149
24 ボイルの法則 1662年
p156
25 色に関するニュートンの理論 1666年
アイザック・ニュートンがケンブリッジ大学のトリニティカレッジに入学したのは1661年。王政復古の翌年で、チャールズ一世の斬首とオリバークロムウェルの10年におよぶ独裁政治には続く時代。ニュートンが入学したあたりからケンブリッジ大学は長い下り坂の時期に入り、ニュートンの死後になってやっと盛り返す。同大学の教授たちは主として聖職者となる若者の教育に専念することになっていたが、名ばかりで、実際には個別指導も講義も論文公表も義務づけられておらず、大学に留まっている必要さえなかった。実際、多くの教授は何カ月も何年もまとめて休んでいた。それで給料がもらえた。教授を首になる理由は三つだけ。
一、故意に人を殺す
二、異教徒になる
三、結婚する
このいずれかの罪を犯したときだけ。
p157~160
後日。
p161
そう気づいてニュートンは反射望遠鏡をつくる気になったようだ。1668年、彼がつくった史上初の反射望遠鏡は、いっさい光の屈折を使っていない。
ニュートンの伝記で作者リチャードウェストフォードは打ち明けている。
「知れば知るほど、変わり者に思えてくる」
ニュートンは死ぬまで結婚もせず、友達もほとんどいなかったようだ。それでもケンブリッジの教授たちは、畏怖の念とはいわないまでも敬意は抱いていた。ニュートンは時々、きれいに整えられたトリニティカレッジの砂利道に前ページのような絵を描くことがあった。後日。

p162
26 自由物体図 1687年
p163
遠隔力…重力。地球本体は本にもテーブルにも触らずそれらを下に引っ張る。
※磁力も。プラトンは神の存在の証拠とした。
接触力…相手に触らないと作用できない力。

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