20171109『前髪公方(宮本昌孝)』

p8
茶々丸は、堀越公方・足利政知の子。
政知は、六代将軍義教の第三子だが、庶子は出血死という将軍家の先例により、幼いときに京都北山の天竜寺香厳院に入った。以後、二三歳まで寺にいた。
ところがかつて義教に滅ぼされた関東公方・足利持氏の遺児の成氏が、またも幕府の命令に背いて挙兵したことで、政知の運命は変わった。
八代将軍で、兄でもある義政の命令により還俗し、成氏征伐の総大将として、関東に行かされることになった。
ところが逆に成氏に押された。結局、政知は、関東に行けず、伊豆韮山の堀越に館を建てて住むようになった。
ゆえに、当時、下総古河にいた成氏は古河公方、政知は堀越公方と呼ばれるようになった。
何もやることがない政知は何人か子をもうけたが、成長した男子は茶々丸ひとりだった。
政知がなぜ茶々丸の傳人(めのと。養育係)に関戸播磨守吉信を選んだのかはわからない。政知が京都から連れてきた者でも、後に呼び寄せた者でもない。下田の深根城に住む伊豆の人だった。播磨守は、伊豆では名高い勇将である。
p11
その間に、政知は、京都から正室を迎えた。
※後日

p13
関戸播磨守吉信は、傅人(めのと。養育係)として、茶々丸を、堀越御所から連れ出し、下田の深根城に住まわせることにした。
『前髪公方(宮本昌孝)』

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