20171108 黎明に起つ 伊東潤p148~

■明応三年()
p148
 四月、早雲は久しぶりに京都を訪れた。
 今川氏親の代理として、清晃の将軍職就任(正確には従五位下叙任)のお祝いを言うためと、堀越公方(茶々丸)攻略の報告が目的じゃ。
 早雲は、室町第で新将軍義高(後の義澄)と会ったが、手前勝手な態度に良い印象は持てなかった。
「すべては政元様次第か」
 この時の早雲は、いまだ管領の政元が事実上の政治トップだと思っていた。
 その足で早雲は、五一歳になる伊勢貞宗の邸に向かった。政変を成功させた一方の首謀者じゃ。
 貞宗は明応二年の政変以後のことを語った。
■明応二年()
 捕らえられた義材は、上原元秀の館に幽閉された。元秀は細川家内衆の一人じゃ。
 六月、元秀邸から義材は脱出し、越中の畠山尚慶(政長の嗣子)のもとに逃げた。
 七月、尚慶と共に挙兵、諸国に「義高と政元征伐」の手紙を出した。
 応えた者たちがいる。

一、九州諸大名家(大友、菊池、相良、島津)
二、関東管領・山内上杉顕定(早雲に伊豆を侵された)
三、遠江守護・斯波義寛(駿遠国境で今川家と小競り合いが絶えない)
四、越後の上杉房定(顕定の実父)、房能(顕定の同腹弟)の父子

 味方は修理大夫こと扇谷上杉定正じゃ。彼は顕定との間で長享の乱を戦っていた。そのため秘密裏に早雲と結び、現将軍の義高を支持していたのさ。
 ここで今川家の立場で考えてみる。甲斐の武田信縄(のぶつな)も義材派である。つまり今川家は、東は関東管領・山内上杉顕定、北は甲斐の武田信縄、西は斯波義寛と、三方を敵に囲まれている。ピンチじゃ。
 早雲は貞宗に問う。
「調略により、いずれかを寝返らせることはできませんか」
 貞宗は昨年の出来事の続きを語る。
 十月、上原元秀がケンカで斬殺された。不可解な死である。代わりに台頭してきたのが、赤沢宗易という細川家内衆だった。
 赤沢氏は小笠原一族であり、遠江守護・斯波義寛に近い。ということは、今川家の敵じゃ。要するに細川家自体が、義材寄りになりつつある。
 早雲はまた問う。
「しかし当主である政元様次第ではないのですか」
 それが違う、と貞宗は答えた。
「政元は修験道によって政変を行う日時や方法を占ってきた。たまたまそれがうまくいき、政変は成功した。以来、政元はすべてを修験道の占いに任せるようになった」
「なんと…」
 早雲は絶句した。貞宗は続けた。
「新将軍の名も四月に義遐(よしとお)と名乗らせたばかりなのに、六月に義高と改めさせ、さらに元服と将軍宣下の儀を遅らせておる」
 将軍の名や将軍宣下の日取りまで、神のご託宣に任せるなど前代未聞である。
※『天魔ゆく空(真保裕一)』では違う。義遐は富子の付けた名だから変えたとされる。
p152
早雲が細川邸の地殻まで来ると、何かの呪文を唱える男たちの声が聞こえてきた。
 挨拶後、早雲は探りを入れた。
「ご精進なされておられるようで」
「ああ、すべては、愛宕神と飯綱神の仰せのままにせねばならぬからな」
(略)
「なにゆえ義高様の将軍宣下を遅らせておられるのか」
「ああ、そのことか」
当然のごとく、政元が答えた。
「日が悪いのだ」
早雲は、これ以上、何を言っても無駄だと覚った。
 一二月二〇日、義高の元服と将軍宣下がこの日に決まったが、当日になって、政元が「迷惑、難儀」と言い始め、中止にした。
 一二月二七日、儀は行われ、晴れて義高は将軍に就任した。

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