20170929 宿神 夢枕獏

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璋子が、崇徳天皇を身籠もった可能性が高い日は、誕生の前年、元永元年(一一一八)の九月二十四日から二十七日までの四日間。璋子と白河法皇は、三条西殿で、一緒にいた。
p249
十九歳の璋子が、崇徳天皇を産んだのは、入内して二年後の、五月二十八日。この時、鳥羽天皇は十七歳。※元永二年(一一一九)
(略)
西行(佐藤義清(のりきよ))が生まれたのは、崇徳天皇誕生の一年前、元永元年(一一一八)であった。

p253
保安三年(一一二二)六月、璋子は第二子である皇女を産む。
同年八月二十三日、白河法皇は、生まれて五十六日しか経っていないこの皇女を准后(じゅごう)にした。
p254
保安四年(一一二三)正月、鳥羽天皇は譲位した。二十一歳で上皇となった。崇徳天皇は五歳である。譲位を裏で操ったのが、白河法皇。璋子生ませた自分の子を早く天皇としたかったのだろう。
鳥羽上皇は御所を出て璋子と新しい屋敷に移るが、ここに白河法皇も同居。
同年九月、璋子はまた懐妊。
天治元年(一一二四)五月、皇子通仁が生まれる。
同年十一月二十四日、璋子は女院に列せられ、待賢門院(たいけんもんいん)の院号を賜っている。
天治二年(一一二五)五月、皇子君仁誕生。
同年十一月、白河法皇、鳥羽上皇、璋子はともに熊野詣で。
大治二年(一一二七)も熊野詣で。九月十一日、雅仁皇子(のちの後白河天皇)を璋子は産む。
大治四年(一一二九)七月七日、白河法皇は三条西殿で、七十七歳で没。
p255
不幸は続く。三日後の七月十日、璋子の第三子通仁が死に、四年後の長承二年(一一三三)に第二子の皇女が死んだ。
長承三年(一一三四)鳥羽上皇の寵愛を受けて、権中納言藤原長実(ながざね)の娘、得子(なりこ)が入内。得子は十八歳。この時三十四歳の璋子より十六歳も若かった。
得子に鳥羽上皇は夢中になった。
保延元年(一一三五)十二月、得子は叡子内親王を、保延三年(一一三七)四月に、暲子(あきこ)内親王を産んだ。
この年の秋、法金剛院にて、佐藤義清は源渡と競馬(くらべうま)をした。
璋子は、夜離(よが)れの状態であった。

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