20170828 太陽よ、汝は動かず アーミティジ p121~

26 医者としてのコペルニクス
p121
考えにくいかもしれないが、コペルニクスは生前、天文学者としてよりも、医者としてより高く考えられていた。十六世紀には、人体の構造と働きについては、最も誤った考え方がなお支持されていた。そんな時期に名医と言われるということは、コペルニクスは当時の医学知識を盲目的に鵜呑みにしていた、ということじゃろうな。例えば、血液の循環のように重要な事実でさえ、さらに一世紀ほど後になるまで発見されなかった。それまでは、心臓から血液を運ぶ動脈は、単に空気か、さもなければ、人体について想像されていた「生気(*)」を運ぶためのものと考えられた。
(*)vital spirits(pneuma)プネウマ。生気または霊気などと訳す。生気論は遠くヒポクラテス学派にさかのぼる。
p122
ついでに薬の話もしておこう。薬の成分は、山羊の血、煮つけたコウモリ、いろいろな動物の角の粉末、マムシの心臓、クモの巣、草の根、木の皮、砕いて粉にした宝石、さらにもっと口にしたくないようなもの。これらの薬は、黄道十二宮の星座と人体の部分や人生の時期を結びつけて考えていたため、占星術のルールに基づいて与えられた。たとえば「太陽がおうし座にあるときは、患者を刺胳(*)することは賢明ではない」なんてな。コペルニクスはこの手の医学書をたくさん持っていた。それは今も保存されている。それには彼が愛用した処方に印がつけられ、あるいは欄外には彼の手で書き込みがされている。
(*)しらく。漢方で、瀉血(しゃけつ)法の一。皮下の小静脈を刺して悪い血を流し去ること。
コペルニクスが次々とエルムランド管区に任命された高齢の司教を治療した記録は残されている。まずマウリティウス・フェルベル。よく疝痛にかかった。命取りになったのは一五二九年から三七年にかけての痛風だった。コペルニクスはたびたびハイルスベルクに呼ばれた。彼は重要な患者だから、他の医者に相談するのが賢明だと考え、プロシャ大公の侍医を招いたり、手紙でポーランドの宮廷医に助言を求めたりした。手紙は、当時としては普通ではなかったが、コペルニクスは何度かこういうやり方をしている。
p123
彼は、ポーランド皇太子の婚礼の時に病気になった次の司教ダンティスクスも看護している。
■一五三九年
強く回復を願ったであろう患者は、プロシャのクルム司教である旧友のティーデマン・ギーゼだった。この年のはじめにコペルニクスは彼を訪ねて治療をした。年の末にもギーゼに対して二回目の往診を行なった。それからは夏の休みに決まって訪問旅行をするようになった。若い弟子のレティクスを連れて、コペルニクスは五月にはクルムに行き、九月にはフラウエンブルクに帰ってきた。
■一五四一年
コペルニクスの死の二年前であるこの年の春、彼は、なんと、プロシャのアルブレヒト大公(*)から急ぎの招きを受けた。彼にケーニヒスベルクへ行ってゲオルゲ・フォン・クンハイムを看よというのじゃ。大公が信頼する補佐役クンハイムは重い病気にかかっていたが、プロシャの医者たちは何もできなかった。コペルニクスは通貨改革のときにクンハイムと面識もあったので、喜んで行った。彼は、アルブレヒト大公もそれほど悪い人間ではないと考えるようになっていた。二人には多くの共通した知的興味があったからさ。大公はルター派だったが、参事会も出発の許可を与えた。クンハイムの病気は長引き、出張期間は復活祭の季節をこえて延長された。それでも、とうとう回復に向かったクンハイムを残して、コペルニクスは帰ることができた。しばらくは患者の容態について報告を受け、手紙で治療上の助言を患者に送ることを続けたけどな。
コペルニクスが地方の貧しいものたちのために治療をしたので、彼らはコペルニクスを「第二のアスクレピオス(ギリシャの治療の半神)」として崇めた。こんな伝説があるそうな。
そうそう、アルブレヒト大公について少し話しておこう。彼はケーニヒス大学の創設者であり、プロシャ星表(プロイセン表)の刊行をも援助した。
プロシャ星表は一五五一年に出版された天体運行表じゃ。それまで三〇〇年間にわたって使われたアルフォンソ天文表にかわって使われることになった。これはエラスムス・ラインホルトが、一五四三年にコペルニクスが出版した『回転について』をもとに計算して作成したものさ。プロシャ大公アルブレヒト一世が出版の費用を払ったので、プロシャ星表と名づけられた。 この表はコペルニクスの計算方法をプロシャで広めるのに役立った。ラインホルトのプロシャ表とコペルニクスの研究が、のちに教皇グレゴリウス一三世の認可を受けたクリストファー・クラヴィウスのグレゴリオ暦作成に使われることになる。
またプロシャ星表は、一四世紀から一五世紀に使われてきたレギオモンタヌスの天文表に代わって航海に使われることになった。
そしてティコ・ブラーエとヨハネス・ケプラーによってプラハで編纂される。
最後に、一六二七年、アルブレヒト大公のプロシャ星表は、ケプラーによって出版されたルドルフ表に変わられた。
(*)アルブレヒト大公。一四九〇~一五六八年。ブランデンブルク公。以前のチュートン騎士団長老。一五一〇年以後チュートン(ドイツ)騎士団最後の長老。一五二五年の協定によってプロシャ大公となる。

27 レティクスの来訪p125
p125
■一五三九年
春、一人の若いドイツの哲学者がフラウエンブルクに着いて、コペルニクスに面会を求めた。彼は、最近つくられたウィッテンベルク大学の数学教授、ゲオルゲ・ヨアヒム(*)であった。彼はコペルニクスの新しい天文学体系について、もっと知りたいと思って何の予約もせずに突然やってきた。ヨアヒムはそのとき二五歳。一五一四年、彼はオーストリアのチロルのフェルトキルヒで生まれた。そこはかつてローマ人にラエティアと呼ばれていた。彼はそれでローマ風にレティクス、「ラエティア出身者」と名乗り、一般にはこの名前で知られている。プロテスタントの学者フィリップ・メランヒトンは、聡明な彼を二十二歳の若さでそこの教授にした。もう一人の数学教授はさっき少し話したエラスムス・ラインホルトじゃ。
レティクスは、コペルニクスへの贈り物として、たくさんの科学書をもってきた。ギリシャ原典からラテン語訳されたユークリッドや、プトレマイオスの『アルマゲスト』のギリシャ語の初版などじゃ。これらはコペルニクスの死後、三十年戦争(*)のためにスウェーデンに運ばれた。現在もスウェーデンのウプサラ大学にそれはある。
レティクスはコペルニクスの驚異的な原稿をまっ先に読む機会を得た。三カ月たたないうちに、彼はその内容について短い本を書き上げた。
■一五四〇年
レティクスは、コペルニクスの許可を得て、この『ナラティオ・プリマ(ラテン語。「最初の解説」という意味)』を印刷した。それはコペルニクス説の一部分、地球のさまざまな運動の部分をあつかっていた。彼はコペルニクス説の残りの部分の解説も書くつもりだったが、不要になった。コペルニクスがついに彼の『回転について』を印刷へまわしたからじゃ。レティクスがいなければ、その本はこの世に存在しなかったかも知れない。
(*)ゲオルゲ・ヨアヒム。別名レティクス。一五一四~一五七六年。レティクスがコペルニクスのもとにいた間にコペルニクスの伝記を書いたことがわかっているが現在は失われてしまった。彼は後に膨大な三角関数表の計算を行い、それは死後二〇年たって出版された。
(*)スウェーデンの指導者はグスターヴス・アドルフス。プロテスタント。

28 不滅への門出
p128
コペルニクスはついに出版を決心した。自分の本の序文で、コペルニクスは、その本を出版するようにと彼を説得した友人たちのことを書いている。とくに枢機卿フォン・シェーンベルクと司教ティーデマン・ギーゼの名前を挙げている。コペルニクスは原稿をギーゼに託している。ギーゼは安全に保管するため、さらにレティクスに送った。
p129
■一五四三年
レティクスは出版者として、友人であるニュルンベルクのヨハネス・ペトレユスを選んだ。ペトレユスはかねて『ナラティオ・プリマ』を読んでいて、偉大な本を出版することを熱く望んでいた。レティクスは印刷が終わるまでそばにいたかったが、彼はライプチッヒ大学の新しい地位に任命されていた。そこで彼はルター派の聖職者アンドレアス・オジアンダーに頼んだ。これはちょっと予期せぬ結果を生むが、後で話そう。とにかく、この年の春、本は出版された。
■一五四一年 ※さかのぼる
この年の秋、レティクスがウィッテンベルクに去った後、さらに十八か月あまり生きていた。友人の司教ギーゼの二通の手紙でしかこの間のことはわからない。
■一五四二年
十二月八日の日付が第一の手紙じゃ。フラウエンブルク参事会員ゲオルゲ・ドンネルに宛てられている。晩年のコペルニクスの最も親しい友人の一人じゃ。老司教ギーゼは何よりもコペルニクスの孤独を心配した。コペルニクスは常に孤独を愛していた。彼の同僚たちは、彼の不思議な思想(太陽中心説)と、彼のプロテスタントとの親交のために、彼と付き合うことを敬遠した。ギーゼは遥かクルムにいながら、敏感にすべてをわかっていた。彼はこう書いている。
「私は、彼が常に貴方を真の友人の一人にあげていたのを知っています。どうか必要ならば、貴方がそばにいてあげて下さい。そして苦悩の時に友人の助けがなかったなどということがないよう、われわれの愛と感謝を充分に受ける資格のある友人コペルニクスに、われわれが恩知らずだなどと思われることのないよう、私と共に貴方がずっと愛してきた男の面倒を見てあげて下さい」
p130
■一五四三年
七月二十六日の日付が第二の手紙じゃ。レティクス宛てに送られている。しかしこの時にはすべては終わっていた。一五四二年の後半から、コペルニクスは脳溢血と卒中に繰り返しやられて、なかば麻痺状態に陥った。新年の初めまでには、彼は死ぬだろうと信じられた。だが彼は生きていた。五月二十四日、彼の本の初版が届けられた日まで。ギーゼはレティクスに宛てて、この最後の光景を書き送っている。
「彼はもう何日間も記憶も気力も失っていました。そして彼が死ぬ日に、最後の息の下で、やっと彼の出来上がった仕事を見ました。」

p131
コペルニクスの遺体はフラウエンブルク寺院に葬られた。詳しい墓の位置はわからない。一五八一年には一枚の記念の額が壁にかけられた。彼の生地トルンにあるコペルニクスの記念日は一八五三年に建てられたものじゃ。ちなみに日本にペリーがやってきたのもこの年さ。

29 「回転論」
p132
コペルニクスの『回転について』は、人類の思想史に残る記念碑じゃ。それはプトレマイオスの『アルマゲスト』、ニュートンの『プリンキピア』、およびダーウィンの『種の起源』に肩を並べる。
p133
だいたいの内容をまとめてみよう。本は六巻に分かれる。
最初の巻でコペルニクスは太陽中心説を証明するための彼の考えを述べる。この巻の終わりに、現代の高校の教科書で見るような三角関数の表がある。コペルニクスはその表を使って彼の惑星系を作りあげた。三角関数は天文学と関係ないあらゆる分野、たとえば測量などにも役立つ。しかも三角関数はごく最近アラビア人からヨーロッパに導入されたばかりだった。そのため、レティクスはこの部分をウィッテンベルクで一冊の小教科書として出版している。
第二巻で、コペルニクスは三角関数を使って諸天体のあらゆる問題を解きまくっている。たとえば太陽高度など。まあプトレマイオスも同種の問題を扱ったし、この部分についてこれ以上言うことはない。二巻の終わりに星表がある。現代の言葉なら、天体マップと言おうか。観測器械で実際に恒星の観測をして作るべきなのだが、コペルニクスはそうしなかった。彼はプトレマイオスの星表をそのまま引き継いで、時間の経過と共に狂ったであろう一定の誤差を正そうとしたのじゃ。
p134
第三巻は地球。
第四巻は月。
第五、六巻は諸惑星。
コペルニクスは、それぞれの天体の運動の詳しい解説をしている。
p135
ここでコペルニクスの本の正式なタイトルを紹介しておこうか。実はコペルニクスが自分の本にどんな名前をつけるつもりだったかわからない。ティーデマン・ギーゼが原稿を受け取ったとき、タイトルも著者名も書かれていなかったのじゃ。出版者たちがこの本に与えたタイトルは次の通り。
『天球(天体)の回転に関する六巻の書』。

30 序文 ※出版の経緯なので前に移動せよ。
p136
コペルニクスが約三十年も原稿をしまいこんでいた大きな理由は何か? それはそこに述べてある太陽中心説に対して、あらゆる方面からわきおこる批判の嵐を敬遠したからじゃ。
批判は二組の人々からされただろう。ひとつには、アリストテレスを信じる哲学者たち。もうひとつは、聖書には地球が動かないと書かれていると信じる聖職者たち。この点では、プロテスタントはカトリックよりも厳しかった。一世紀のちにガリレオ・ガリレイは現実に聖職者たちからひどく苦しめられることになる。
p137
しかしコペルニクスは決意した。そして堂々と事に当たり、大胆にも本を教皇パウルス三世(*)に捧げている。
コペルニクスが新たな説を唱える理由は、昔から惑星運動論は定まっておらず、二つあるということじゃ。一つはアリストテレス説、もう一つはプトレマイオス説さ。ならば三つ目の説を唱えてもよかろうということさ。とくに、他の二つが満足できないものならばなおさらじゃ。アリストテレス説はあいまいで惑星の位置を予測できるようなものではないし、プトレマイオスにしても物理学の法則をいろいろな点で破るものだった。
コペルニクス言う。自分はこの状態を嘆かわしいと思ったので、誰かがもっと良い説を唱えていないか、古代ギリシャの本などを調べてみた。そして地球が自転している、あるいは地球が太陽の周りを公転している、などの説を見つけた。前に話したフィロラオス(*)、ヘラクレイデス(*)、アリスタルコス(*)じゃ。コペルニクスが生きていた頃はギリシャの知識にはとても敬意が払われていたからのう。だからコペルニクスはそのことを言った方が良いと考えたのだろうよ。
その結果、どうなったか? コペルニクスは言う。
「地球が自転していると仮定すれば、惑星の運動が導き出されるだけではなく、諸惑星の序列や軌道の大きさおよび宇宙そのものがしっかりと理解できる」
p138
コペルニクスは教皇の保護を得るためにもう一つ、理由を挙げている。彼は言う。
「一五一四年に、私は改暦の問題を解くための意見を求められたが、この本こそが役に立つだろう。この本は一年の長さの正確な値を与え、復活祭の日付を決定できるようになる」
実際その世紀の終わりに、教皇グレゴリウス十三世(*)が改暦の基礎にしたのはコペルニクスの本の中の改良された表だった。これはさっきも話した通りじゃ。
p139
さてコペルニクスの以上のような序文のほかに、実はもう一つ序文がある。出版の責任はコペルニクスからレティクスへ、そしてレティクスから最終的にはルター派の聖職者アンドレアス・オジアンダーに委ねられたことを少し前に話したな。もう一つの序文は彼が無記名でこう書いた。
「この本の理論は、惑星の未来の位置を計算するのに役に立つ人工的な道具である」
こう言えば、地球が実際にどう運動していようと構わないことになって、批判の問題はなくなる。オジアンダーは以前にコペルニクスと手紙のやりとりをしたことがあったのさ!
コペルニクスにはそんなことを言うつもりはなかったが、奇妙な巡り合わせによって本の印刷はオジアンダーただ一人が鍵を握ることになった。コペルニクスは病床、レティクスは新任の地、そして印刷所にはオジアンダーだけがいた。
p140
ティーデマン・ギーゼはこの第二の序文の件でとても腹を立てた。しかしオジアンダーはこの本を無害に見せようとする好意から生まれたものじゃ。そしてそれは、ほとんど一世紀の間その目的を果たしたのさ。
(*)パウルス三世。一四六八~一五四九年。在位一五三四~四九年。
(*)フィロラオス
(*)ヘラクレイデス
(*)アリスタルコス
(*)グレゴリウス十三世。一五〇二~一五八五年。在位一五七二~八五年。

31 地球の運動
p143
コペルニクスと言えば新しい理論で科学革命を起こした男。こんな印象が強い。だが、彼はアリストテレスの次の思想を信じていた。
「天体は中心の周りを一定の速さで回っている。」
またピタゴラス派の勉強をした彼の直観は次のことを真理だと悟った。
「地球と他の惑星たちは、太陽を共通の中心とした同心円のグループだ。」
p144
これでコペルニクスはプトレマイオスの周天円という複雑さを一気になくしたのじゃ。コペルニクスは周天円の惑星運動は幻であることを示した。地球の公転を惑星に転嫁したから生まれた幻だ、とな。
第14A,14B図
p145
惑星はそれでよし。では星たちは? 星たちは天球の表面に固定されたものなのか。それとも無限の空間に散らばっているのか。コペルニクスはこれを公開質問として残しておいたみたいじゃのう。
p146 削除
p148
コペルニクスは一年(*)の長さを非常に正確に計算した。彼の計算値は、三六五年六時間九分四〇秒は、現在わかっている真の値よりも三十秒ほど大きいだけじゃ。そう、彼は教皇との約束を果たしたのさ。さっきも話したとおり、その世紀の終わりに彼の計算したいろいろな値が改暦のために使われたのじゃ。
(*)ここでは恒星年。一年には、恒星年と季節年がある。詳細は割愛する。
32 宇宙の大きさ
p149
余談になるが、コペルニクスが解くと期待されていた問題の一つは次の通り。
「いろいろな天体が地球からどれだけ離れていて、それらの大きさはどれほどなのか?」
地球の大きさは、紀元前二五〇年頃にエジプトで、二地点の太陽の高度差を測ってきわめて正確に求められた。そして彼らは月の距離と太陽の距離を求めた。月の距離はよい値を得たが、太陽の距離は全然違う値を得ていた。(*)
p150
コペルニクスが求めた求めた値を紹介しよう。カッコは現代の値じゃ。
一、月までの距離…地球半径の六〇・三〇倍(六〇・二七)
二、火星の軌道半径…地球の軌道半径の一・五二〇倍(一・五二四)
三、木星の軌道半径…地球の軌道半径の五・二一九倍(五・二〇三)
p151 削除
p152
最後に地球の公転について。もし公転していれば、そのせいで恒星の位置に見かけの変化があるはずじゃ。これを年周視差(*)と言う。コペルニクスの時代には誰もこれを発見できなかった。
この後の流れを簡単に話しておこうか。ティコ・ブラーエは年周視差が観測できなかったことで地動説を否定した。
しかし弟子のケプラーが惑星の楕円運動を仮定して、従来の天動説よりも遥かにシンプルに天体の運行を説明できた。そのため、年周視差が未だ発見されないという弱点をかかえつつも、地動説が定着していくのじゃ。
一八三八年、ドイツのフリードリッヒ・ヴィルヘルム・ベッセルが「はくちょう座61番星」の年周視差が〇・三一四秒であることを確認した。地球は公転している。コペルニクスの勝利じゃ。
p153
(*)月の距離は地球の半径の約六〇倍。太陽は約千二百倍とした。太陽までの実際の値は約二万三千倍。
(*)ねんしゅうしさ。
33 人間コペルニクス
p155 削除
p156 削除
p158 削除
第三部 コペルニクス説の勝利 ※以降次作
34 最初の反作用
p160
p161
p163
35 イギリスにおけるコペルニクス説
p164
p165
p166
p167
36 境界のない宇宙
p169
p170
p171
37 新星と大観測家
p172
p173
p175
p177
38 遊星はどんな運動をするか
p178
p180
p181
39 新しい力学
p183
p185
40 証人台に立った望遠鏡
p188
41 挑戦
p190

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