20170822 太陽よ、汝は動かず 第二部 アーミティジ

20170822 太陽よ、汝は動かず 第二部 アーミティジ

第二部 人と業績
13 家系と出生
14 少年時代
p56
コペルニクスの先祖についてはほとんど何も知られていない。それどころかコペルニクス自身の物語さえ、たまたま残っていた断片的な情報を継ぎ合わせなければならない。
わかっていることを語ろう。
p57
まずはドイツ東部にある上部シレジアの一地名としてコペルニクスの名に出会う。その地方の住民のほとんどが携わっていた銅鉱業と関係があるのだろう。
p58
土地が人の名になることはよくある。十四世紀までにコペルニクスは一家族の名前になっていた。その時代には、とても多くのシレジア人が、お隣りのポーランドに流れこみつつあった。シレジアはかつてポーランドに含まれていた。
p59
コペルニクスと呼ばれる人々は、ポーランドのクラカウ、トルン、その他の地に住んだ。これらの人々の誰かが偉大な天文学者コペルニクスの先祖なのだろうが、確かなことは何もわからない。
わかっているのは彼の父のことじゃ。彼の父はコペルニクスと同じ名前で、ニコラス・コペルニクスという。一時クラカウに住み、一四五八年以前にトルンへ移り、その地で死んだ一人の商人だった。トルンの治安官にまでなったのだから有能な人物だったろう。
※地図が欲しい。
トルンで彼は、ワッツェンローデあるいはワッツェルローデという裕福な一族の娘と結婚した。彼らもシレジア出身だったが、すでに幾世代にもわたってトルンに住み、時には顧問官や治安官の職につくものをだしていた家系じゃ。一四六四年ころ、ニコラス・コペルニクスは、この一族の娘バルバラ・ワッツェンローデと結婚した。
二人の間には四人の子供(二男二女)があった。長男はアンドレフという。長女のバルバラは、修道女になって、クルムで女子修道院長にまでなった。下の女子カテリーナはクラカウの一商人に嫁いだ。
p60
未来の天文学者は末っ子だった。
一四七三年二月十九日、以前セント・アンネ小路といったトルンの街角にあった家で、コペルニクスは生まれた。父の名をとってニコラスと名づけられた。
p61
トルンの町は、ドイツ人の武装修道士団であったチュートン騎士団によって十三世紀にヴィストラ河のほとりに建設された。前に話した十字軍は終わりかけていた。それで彼らはイスラム教徒ではない異教徒であったプロシャ人を征服し改宗させて、ドイツの東側に新しい国をつくろうとした。ドイツの南と東にはポーランド国があった。ドイツとポーランドの境界にトルンはつくられた。ポーランドはプロシャに悩まされていたから当初はチュートン騎士団のトルンを歓迎した。しかしすぐにポーランドは事態がより悪くなったことを知る。プロシャ人より騎士団の方がたちが悪かったのさ。
p62
コペルニクスが生まれた頃、騎士団は反逆したプロシャ人と戦争していた。ポーランド国がプロシャ人を援助したのじゃ。
チュートン騎士団は負けた。その小さな国土の西半分を失った。わずかにポーランドの属国として東半分を維持した。このようにして、コペルニクスが生まれる十年足らず前に、トルンの町はポーランド王の保護地域となっていた。
トルンはかつて西ヨーロッパと東ヨーロッパ(ポーランドやハンガリー)の間の貿易の中心地として栄えた。しかしコペルニクスが生まれた頃、貿易はヴィストラ河口にあるダンチッヒの大きな港に移っていた。それでも少年コペルニクスは、中部ヨーロッパの山々から出る鉱石の積荷と交換するための、ドイツやフランダースからの手工業製品を運んで大河を遡行していく船をたびたび目にしただろう。少年が父の倉庫のまわりに漂っている実務の雰囲気の中で実社会の知識を得たことは、彼がのちに祖国ポーランドの貨幣制度を再編成する依頼を受けたときに役立つことになっただろう。
夏の夕方には河沿いの郊外にある自家の葡萄園に出かけることもあっただろう。治安官でもあったコペルニクスの父とその家族は、最高の社会的地位にある人々と自由に付き合うことができた。彼らの多くは、絵画、音楽、文学のパトロンだった。コペルニクスはこのような芸術的な事柄にも接触する機会があっただろう。
学問は母の兄であり、カトリックの司祭で有名な学者であったルーカス・ワッツェンローデがいた。
諸行無常。少年コペルニクスが十歳のとき、彼の父は死んだ。母はそれ以前に死んでいた。現代の日本ならば、不幸な生い立ちと言えるだろう。四人の子供たちは母方の伯父ルーカス・ワッツェンローデによって養われることになった。彼は四人の第二の父だった。彼を簡単に紹介しておこう。ルーカス・ワッツェンローデは、一四四七年十一月二十九日、トルンで生まれた。十六歳でクラカウ大学に行き、イタリアに遊学し、一四七三年に教会法の博士としてボローニャ大学を卒業し、高い栄誉を得た。故郷トルンで校長を務めたのち、ルーカスは教会の仕事に就き、たちまち昇進した。一四七九年までには彼はフラウエンブルク司教座聖堂の参事会員であった。その後彼はローマに派遣された。四人の子供を引き取った六年後にあたる一四八九年には、ルーカスは聖別されて、プロシャの四つの教会管区のうちの一つであるエルムランド(*)の司教となった。エルムランドはポーランドの属国だが小さな国と言える。ルーカスは司教であると同時に国王になったのさ。司教の邸宅はハイルスベルクにあり、司教座聖堂は海岸のフラウエンブルクにあった。
この時代の少年コペルニクスに一つの話がある。彼はトルンよりいくらかヴィストラ河の上流にあるウロクラウェック聖堂学校の校長(*)と協同でウロクラウェック寺院の南アフリカ壁に日時計をこしらえたそうじゃ。
※地図が欲しい。p87参照。
(*)ポーランドでいうところのヴァルミア。
(*)ウォッカ(ブランデーの意)という名前のくせにラテン語名をアブステミウス(禁酒者の意)と称した。日時計製作の権威だった。

15 クラカウ
p64
コペルニクスは十八歳になったとき、彼はポーランドの首都クラカウへ、そこの大学で勉強するために旅立った。伯父の司教ルーカスはすでに彼を教会に就職させることに決めていただろう。トルン出身の将来有望な青年は当時三つの選択肢があったそうじゃ。
クラカウ(ポーランドの首都)、ライプチヒ(*)、プラーグ(*)の大学へ行った。プラーグは、前に話したヤン・フスの問題のため、カトリックからは避けられていた。クラカウの方がライプチヒより、ニコラスは孤独を感じなくてよいだろう。というわけでクラカウに決まった。そこは彼の父が昔住んでいた町であり、伯父ワッツェンローデ司教はクラカウ大学の先輩であり、甥にいろいろ教えることができた。クラカウ大学では最高の社会的地位にある人々が、エルムランドの支配者でありポーランドの宮廷と深く接触している伯父をもつ学生コペルニクスを迎え入れただろう。
p66
■一四九一年
この年から九二年にかけた冬のある時期に、トルンのニコラスの息子のニコラスの名が現在でも保存されている名簿に書き込まれた。他に新入生は七十人ほど。入学金を全額払ったという覚え書きも存在する。トルンから他に四人の若者が入学しているが、その中のアンドレフというのは、コペルニクスの兄かもしれない。
(*)ドイツ東部。十六世紀にはルターが当地で信仰をめぐる論争を繰り広げた。(ライプツィヒ討論)
(*)現在チェコスロバキアのプラハ。

p68
クラカウ大学では、天体の運動は依然としてアリストテレスの体系だった。天文学は教会の暦を維持するために研究された。それはまた、天体の位置から未来の出来事を予言しようとした古代バビロニアの占星術とも混合していた。もう一つ、重要になりつつあったのが、大洋航海への応用じゃ。彼らは簡単な器具と特別に計算された表を使って大洋航海を試み、自分たちが世界のどこにいるのかを日々知ろうとした。今ならGPSで簡単にわかるがのう。ちなみにコロンブスがアメリカを発見したのは、コペルニクスがクラカウ大学にいた間のことじゃ。
p71
また後にルターがローマ教会から破門されたとき(一五二一年)、コペルニクスは四八歳じゃ。学校の教科書に出てくる大物たちとコペルニクスは同時代に生きていたのさ。

16 ボロニアおよびローマ
p72
伯父ワッツェンローデ司教はコペルニクスをフラウエンブルク聖堂参事会の参事会員にしてやれると見込んでいた。司教座聖堂参事会とは、聖堂や管区(この場合はエルムランド国)を経営するために司教を助ける聖職者の議会じゃ。まあ国会みたいなもんさ。甥をそこの議員にしようと伯父さんは考えたって話さ。さて空席を待つ間、ワッツェンローデ司教はイタリアで甥に教会法を学ばせることに決めた。
■一四九六年
イタリアでは十二世紀初めに創立されたボローニャ大学が最も有名な法律の学校だった。
当時イタリアはルネサンスの源泉じゃ。学生たちは教師からギリシャ語あるいはラテン語を学んだ。しかしそこでコペルニクスは、この国がフランスの侵入者たちに荒らされ、ぞっとするほど邪悪な状態に沈んでいるのを見た。(*)毒薬使いロドリゴ・ボルジアが教皇アレクサンデル六世の時代で、彼とサボナローラのことは前に話したから省くよ。
(*)一四九五~九六、フランス王シャルル八世のイタリア侵入。

p73
当時、よその町からきた大学の学生たちは正規の市民たちに与えられている権利を何一つ持たなかった。そこで学生たちは互いに保護し合うために組合をつくった。都市は学生たちがよそに移住して売り上げがなくなることを心配したので、彼らに特権を与えた。学生組合は、独自の指導者と法律をもってまるで小さな国のようだった。日本の六〇年代の学生運動なども大学自治という言葉を使っていたことを思い出すわい。
教師たちも互いに助け合うために別の組合をつくった。ふさわしくない者が彼らの身分に入りこまないようにしよう、と考えたのじゃ。こうして学生階級(身分)から、教師階級に入るための公認の仕組みとして〔試験〕と〔学位〕というものが始まったのさ。職人の世界において、見習階級が〔資格〕を得て一人前の職人階級に移るようなもんじゃな。職人の場合、「ギルド(*)」と言った。
(*)ギルドは保守的・排他的で利益を独占。自由経済への移行と共に禁止。組合は利益ではなくて権利の保護。

p74
ボローニャ大学の学生は自由で気楽だった。不自由なのは教師さ。まず学長への服従を誓わされる。でなければ、教える権利を与えられない。また、授業の進み具合が遅れると罰金。何か言い忘れたり、授業を始めるのが遅かったり、余分に長くしゃべったりしても罰金。授業の出席者が一定数を満たさなくても罰金。学長と学生から特別許可を得なければ、一日の休暇を取れなかった。そして町からでるような場合は保証金を払わなければならず、帰ってこなかったらそれは没収。結婚した場合、新婚旅行は一日だけ。…どう思う?
p75
さて、コペルニクスの専攻は教会法だった。しかし彼の数学と天文学に対する関心は強かった。彼に影響を与えたのは天文学教授ドメニコ・マリア・ダ・ノヴァラ(一四五四~一五〇四)だった。ドメニコとコペルニクスは協同で天空を観測し、古代プトレマイオスの体系を改良することを自由に討論した。ドメニコ・ダ・ノヴァラはルネサンスを代表する人物の一人だった。この運動の背景は遥かプラトンあるいはピタゴラスにまでもさかのぼるものだった。
恐らくコペルニクスはドメニコ・ダ・ノヴァラとの交際に駆り立てられて、この方向(プトレマイオスの改良)に沿って天文学を再建しようとした。
p76
■一四九七年
三月九日、コペルニクスが実際にボローニャで天体観測をしたことがわかっている。それは月が明るい星アルデバラン(*)の前面を通過して、おおいかくす。星食という。その現象の精密な時刻の観測じゃ。
(*)おうし座α星。
p77
■一四九八年
この年の末、コペルニクスは兄のアンドレフと一緒になった。彼も教会法の勉強をしにイタリアにきたのじゃ。この兄弟の出費は相当なものだった。コペルニクス先生、思いっきり遊びまくったのかもしれん。もちろん支払いは伯父ルーカスじゃ。
■一四九九年
この年が暮れる前に彼らは金を使い果たしてしまった。幸い、司教である伯父の秘書がローマに派遣されてボローニャに滞在していた。秘書は教皇庁のエルムランド代表者ベルンハルト・スクルテティと連絡をとってくれた。一件落着じゃ。
■一五〇〇年
ボローニャで三年半過ごしたのち、コペルニクスは他の土地に移ろうとしていた。ローマ教会は西暦一五〇〇年を聖年(*)と見なしていた。コペルニクスは兄と共に、復活祭に間に合うようにローマに出かけた。彼らは、復活祭の日曜の午後の大祭典に出席していたに違いない。その時は教皇アレクサンデル六世の祝福を受けるために二十万の群衆が野外に膝まずいたのじゃ。コペルニクスがローマに出かけていた間に、教皇の長男チェーザレ・ボルジアが妹ルクレチアの夫を毒殺しようと謀ったが、チェーザレがそのために罪に問われることはまったくなかった。
ちなみに、十年後(一五一〇年)、マルティン・ルターもウィッテンベルクからローマへやってきて、教会改革の情熱を抱いて、また帰って行くことになるのじゃ。
十一月六日、コペルニクスは月食を観測している。
(*)ヨベルの年。ユダヤ教とカトリック教会の聖日。 旧約聖書レビ記第二十五章に基づき、ユダヤ教では五〇年に一度の大恩赦の年(ヨベルの年)を迎えるようになっており、カトリック教会では、二十五年に一度「聖年」として記念してきた。
p78
■一五〇一年
この年の初めには、コペルニクス兄弟は短期間故郷を訪れ、その年の七月二十七日に司教座聖堂の参事会員に正式に就任した。彼らは就任するとただちにイタリアでめいめいの研究に戻るため更に休暇をもらいたいと願った。これは少し議論されたが聞き届けられた。医学を研究するというニコラス・コペルニクスからの提案が参事会の好意を得たからじゃ。兄弟は、夏が終わらぬうちに再び旅に出た。共にアルプスを越え、兄アンドレフはローマへ、ニコラスはパドヴァへ。

17 パドヴァとフェラーラ
p79
パドヴァにも有名な法律学校があった。ボローニャから移ってきた教授や学生たちによって十三世紀に創立された。『ヴェニスの商人(シェークスピア)』のポーシャはパドヴァの「法学士」という設定じゃな。
p80
コペルニクスにとってドメニコ・ダ・ノヴァラの役割は、哲学者兼物理学者兼天文学者であったパドヴァの教授ジローラモ・フラカストーロによってある程度満たされただろう。フラカストーロはこれらすべての分野で改革者だったから、コペルニクスをプトレマイオス的伝統から脱出させる力があったと思われるのさ。
p81
■一五〇三年
コペルニクスはパドヴァで法律研究を完成したが、学位はフェララで取り、教会法の博士の免状を与えられた。
学位をとった後、彼は何か月かこの都市に滞在した。ちなみに、フェララでは大公エルコーレ・ド・エステ(*)によって壮麗な諸建築の工事が進められていた。大公夫人は教皇アレクサンデル六世の娘ルクレチア・ボルジアじゃ。彼女は波乱の後に、二十二歳の若さで善行を尽くすという生涯に落ち着いた。
ルクレチア、コペルニクスとのニアミスってやつじゃなあ。
p82
フェララで法律課程を終えてパドヴァに戻るとコペルニクスは医学の研究に本気で取りかかった。学位を取ろうとはしなかったが、当時は聖職者が医療の知識を持つことはまったくふさわしいことと考えられていた。だからこそフラウエンブルクの聖堂参事会はコペルニクスに長期休暇を与えた。彼が外科に進むことは期待されていなかった。当時は麻酔が発見されていなかったので、恐ろしく強靭な神経が必要とされる仕事だったのじゃ。
現代の医学部と違って、医学はたいてい本から教えられた。紀元前五世紀のギリシャの医学者ヒポクラテス(*)によって書かれた本さ。また紀元二世紀のローマの学者ガレノス(*)と、十一世紀のアラビアの化学者兼医者であったアヴィケンナ(*)の本があった。解剖学は不信の目で見られていた。人体解剖は長いこと禁止されていた。当時はただ本の内容を説明するために行われた。パドヴァではよそと同様に処刑された囚人の死体を用いた。あるイタリアの大学では、解剖を行う教授と学生に食べ物や葡萄酒や香料などが特別支給された。
p84
天文学と医学は今日ほど違うものと思われていなかった。宇宙の各部分と人体の器官の間には神秘的な対応があると信じられていた。人体は広大な宇宙の縮尺モデルだとさえ考えられた。ある古い本には、身体の各部分が、頭は白羊宮(おひつじ座)に、足は双魚宮(うお座)に、というように対応する黄道十二宮に結びつけられている図が載っている。コペルニクスの死後に出版されたある本にも、脳は恒星天(一番外側の天球)に、眼は太陽と月に、耳と鼻と口は他の五惑星に対応すると書かれている。天文学と医学のもうひとつのつながりは薬草の採集時期じゃ。夜間または一か月のうちでいつ薬草を採るべきなのかについて、細かいたくさんのルールがあった。現代でいえば、風水みたいなもんかのう。
p85
この時期、コペルニクスはギリシャ語を学んだ。まだラテン語に翻訳されていないギリシャ語の原典を読めるようになったのじゃ。勉強熱心じゃのう。
■一五〇六年
しかしいまや彼の休暇は終わり、戦争はパドヴァにも近づいてきた。この年の初め頃、コペルニクスはエルムランドに帰った。
18 ハイルスベルク城
p86
長年の休暇の後にコペルニクスはいよいよフラウエンブルクの一参事会員として働くようになっただろうか。いいや、そうはならなかった。伯父ワッツェンローデ司教の考えによって、コペルニクスは伯父のプライベートな医師になった。エルムランド司教である伯父の公邸はハイルスベルク城。コペルニクスの新しい住まいじゃ。この城はフラウエンブルクの四十マイルほど南東さ。美しく水豊かな農業地域に、アルレ川の小さな流れのそばに立っていた。当時は動乱期ゆえにたびたび火災や侵入にあったが、ルーカス・ワッツェンローデはそれを再建し、王のようにそこに住んでいた。
*再掲
一四八九年には、ルーカスは聖別されて、プロシャの四つの教会管区のうちの一つであるエルムランド(*)の司教となった。エルムランドはポーランドの属国だが小さな国と言える。ルーカスは司教であると同時に国王になったのさ。司教の邸宅はハイルスベルクにあり、司教座聖堂は海岸のフラウエンブルクにあった。

p87
四つあったプロシャの司教管区のうちルーカス・ワッツェンローデ司教の管区以外はすべてチュートン騎士団にのみこまれた。ルーカスは抜け目のない男でだいたいにおいて自分の小国家エルムランドの独立を保つことができた。
p88
コペルニクスはそれから六年間、伯父のお抱え医師と共に政治の仕事をした。外務大臣のように、エルムランドと、その近隣諸国との非常に気を使う外交の仕事じゃ。エルムランドは周囲をチュートン騎士団に囲まれている。チュートン騎士団は隙あらばエルムランドをのみこもうとしている。チュートン騎士団の南にはポーランドじゃ。ポーランドはチュートン騎士団をのみこもうとしている。小さなエルムランドが生きのびるのは、まったく難しかったじゃろう。
p88
かつてチュートン騎士団に征服された後ポーランドによって再び独立した西部プロシャも問題があった。プロシャ王国となったこの地域の住民はポーランドからの完全独立を望んだ。よくある話さ。ポーランド王は彼らを王国として合併しようとする。ルーカス司教は微妙な仲介役を果たした。コペルニクスは、その伯父に随行したり、自ら伯父の代行使節となったりした。ポーランド王に対する記録や書類をつくったり、参事会の議事録をつくったりすることも彼の仕事の一部だった。
p89
しかしハイルスベルクではまったく別のことをする時間があった。彼が天文学の再構築を始めたのは、この地ハイルスベルクだった。
彼はクラカウ大学時代に次のことをすでに知っていた。
「地球ではなくて太陽が中心で、惑星はその周りを回転していると考えれば、惑星の複雑な運動は、簡単にすることができる。」
その後、彼はイタリアで次のような思想の持ち主から強い影響を受けた。
「自然界は簡単なもので、複雑に見えるとしたら、正しく理解していないからだ」
そこでコペルニクスは、ハイルスベルクにおいて、自分の理論を書き始めた。

■一五一二年
この頃か、あるいはもう少し早く彼は新体系の短い概論『コンメンタリオルス(*)』を書いた。少数の信頼できる友人に手渡したが出版はしなかった。
(*)コンメンタリオルスはラテン語で「短い解説」の意。

p90
そこに事件が起こった。ルーカスとコペルニクスはポーランド王ジグムントの婚礼のためにポーランドの首都クラカウに行ったが、ハイルスベルクへの帰り道でルーカス司教は急病にかかった。
一五一二年三月二十九日、ルーカス・ワッツェンローデ死す。六十代の半ばであった。
彼の死はコペルニクスのハイルスベルクでの生活に終止符を打った。彼は司教座聖堂のあるフラウエンブルクに移った。
一五一二年六月五日、コペルニクスはフラウエンブルクで火星の衝(*)を観測している。
(*)しょう。月や惑星が、地球に対して太陽の反対の位置にくること。地球を中にはさんで、三者はほぼ一直線にならぶ。

19 人文主義者コペルニクスp91
p92
■一五〇九年
コペルニクスは孤児となった少年時代の保護者であった伯父ルーカス・ワッツェンローデに感謝の気持ちとして一冊の本を捧げている。彼が自費で出版した唯一の本じゃ。天文学とは何の関係もない本さ。七世紀に東ローマ帝国に住んでいたテオフィラクトス・シモカッタという詩人の詩をコペルニクスがラテン語に翻訳したのじゃ。八十五の短い詩を集めたもので、
一、道歌…人はどのように生きるべきかという助言
二、牧歌…羊飼いの生活を描いた。(または田園詩)
三、恋愛詩
これらから成り立っていた。
伯父とコペルニクスが政治の仕事で共にポーランドの首都クラカウにいたとき、コペルニクスはこの本をクラカウの印刷所で出版した。それはヨーロッパの片隅にはじめてギリシャ文学を紹介しようとした試みでもあった。すなわちコペルニクスは人文主義者の味方であり、スコラ主義者の敵であることを宣言した。しかしこの本はすぐに忘れられた。大天文学者コペルニクスの仕事としてコレクターに珍重されるのは十八世紀になってからじゃ。

20 フラウエンブルクとアレンスタインp94
p95
コペルニクスの時代、フラウエンブルクの参事会員は約六十名じゃ。彼らは少なくとも各自が二人の召使いと三頭の馬を所有して生活することを許されまた要求されていた。彼らの収入は土地から得られた。司教はエルムランドの三分の一を所有し、三分の一は参事会員たちのためにあてられた。参事会員たちは消極的な者が多かった。司教になろうとする者を除けば、司祭としてのルールを守りたくはなかった。
p96
■一五〇八年 ※前後うまく配置せよ。
事件が起きる。兄アンドレフが重病を患ったのじゃ。彼はイタリア滞在中に感染したらしい。弟の治療は効果がなかった。
アンドレフは治療法を探しに一年間の旅に出ることを許されたが無駄だった。
■一五一二年
弟ニコラス(コペルニクス)が聖堂内に住むことになった年に、アンドレフは感染させることをおそれて参事会の日常生活から引退させられた。
■一五一九年
この頃までに兄アンドレフは、エルムランドの国外で死んだ。
p97
ワッツェンローデ司教の後継者として、参事会はファビアン・フォン・ロッセーネンを選んだ。ポーランド王はエルムランドの司教を選ぶ権利があると宣言し、ローマ教皇の後ろ盾も得ていたが、結局は新しい後継者を承認した。
■一五一六年
この年の末、コペルニクスは参事会に属する二つの辺鄙な土地(アレンスタインとメールザック)を監督するように命じられた。彼は巡回のためにいつも彼の従者と馬で出かけた。彼が自分の小領地で起こった処理事件のすべてを記録した帳簿が現在残っている。まあ村長コペルニクスの記念品みたいなものかな。
21 観測家としてのコペルニクスp98
p98
■一五一二年 ※六月までには引越
コペルニクスはフラウエンブルクに落ち着いたとき、司教座聖堂を囲む防壁塔の一つを自分の住居に選んだ。「コペルニクスの塔」は昔からの言い伝えによって、北西の塔がそれだとされる。そこは東方以外のすべての方向に視界が開けた位置なので、観測所として選んだのじゃろう。十七世紀からずっと、「コペルニクスの塔」は大切な場所として保存されてきた。そこには、天文学者の肖像がおさめられており、近頃は聖堂図書館として使われるようになった。(一九四七年当時)
p99
天文観測はコペルニクスの研究の本質的な部分であった。なぜならば、彼の理論は、一定時刻における天体位置の精密な測定との比較に一致しなければならなかったから。実はこれまでの古い観測値はきわめていい加減なものも多かった。それに写本から写本に書き写すうちに、書き誤りが起こる危険が常にあった。コペルニクスはそうとう苦労したはずじゃ。彼は古い観測値にばかり頼らずに、自分の理論のために、新しい測定をするために観測所が欲しかった。
p100
しかし今わかっているのだが、彼の器械や方法は千年以上昔のギリシャ天文学者のものと比べてもずっと不正確だった。コペルニクスもわかっていたらしい。友人にそのようなことを語っているのさ。
p102
コペルニクスのいわゆる三角尺は、一五四三年の彼の死後約四十年の間、フラウエンブルクに残っていた。やがて、一五八四年にデンマークの大天文学者ティコ・ブラーエが、フラウエンブルクの緯度を測定するために、その助手の一人を派遣してきた。参事会員の一人がティコへの贈り物としてこの三角尺を与えた。ティコはそれをとても大切にして、彼がデンマークからプラーグ(現チェコスロバキアの首都)へ移ったときも持っていった。ティコの死後は、皇帝ルドルフ二世(*)が所有した。しかしその後、プラーグは当時の宗教戦争で荒廃し、コペルニクスの三角尺は永久に失われた。
(*)ルドルフ二世。一五五二~一六一二年。在位一五七六~一六一二年。
p103
ちなみに一五四三年出版の自著『回転について』で、コペルニクスは自分の二十七の観測を利用している。

22 改暦
p104
天文学は正確なカレンダーをつくることにより人間の役に立つ。もちろんそれだけではないがのう。正確なカレンダーすなわち暦をつくるという問題は、コペルニクスの時代にはまだ解決されていなかった。彼の時代に使われていたのはユリウス暦。これは紀元前一世紀にユリウス・カエサルが導入した。ちなみに教皇アレクサンデル六世の息子チェーザレの名はカエサルとも読む。彼は太陽暦と、四年に一度の閏年を採用した。かなり正確だが完全ではない。一年の長さはこれより約十一分短いのじゃ。その差は年々つもって一二八年ではちょうど丸一日の誤差をもたらす。
p105
コペルニクスの時代にはこれらの誤差が積もった結果は、教会が復活祭の日を決める時に問題になるほどだった。教会はあわてていた。
■一五一二年
コペルニクスは、暦問題でローマに招かれた人々の一人だった。そうとうに有名だったことがわかる。しかし彼は、太陽や月の運動法則が完全に明らかにならないと、暦の問題は解けないと言って、その招きを断った。暦問題を解決するために現在仕事を進めておりますと彼は説明した。三十年後に『回転について』の出版という形で彼は暦の改正に貢献することになる。本は教皇パウルス三世に献じられたが、教会は暦の問題解決を見過ごしてしまった。コペルニクスの本の中の測定値は、一五八二年に教皇グレゴリウス十三世によってなされた新しい暦のための基礎になった。ちなみにグレゴリウス暦(*)とは現在も使われている。閏年を四百年に三回だけ消す暦じや。
(*)四で割り切れても、百で割った商が四の倍数でなければ平年。

23 戦争
p106
■一五一九年
この年の末に、コペルニクスがアレンスタインで満三年を迎えた直後、ポーランド王ジグムント一世とチュートン騎士団の長老(後のアルブレヒト大公)は戦争を始めた。結局、長老はエルムランドに仲介を依頼した。エルムランド司教ファビアン・フォン・ロッセーネンは死病を患っていたので、コペルニクスがその役目を果たすことになるが、平和会談は失敗に終わった。
p107
■一五一九年
この年の十一月から翌一五二〇年の十一月までの一年をコペルニクスはフラウエンブルクで過ごした。彼は小さな町が煙になっていく間も、聖堂の壁に守られて観測を続けた。他の参事会員たちは戦争にうろたえて役立たずだったのでコペルニクスはその分まで勤めた。彼の他には、たった二人の参事会員がエルムランドに残るだけだった。
p108
■一五二一年
コペルニクスが守るアレンスタイン城はもちこたえた。両軍とも戦いに飽きて、この年に休戦した。
■一五二五年
この年に結ばれたクラカウ条約によって、チュートン騎士団の長老は公国の君主となることを了承した。つまりチュートン騎士団は世襲の公国となった。これにより平和が訪れた。長老はルターの助言されてこの行動をとったので、まもなくプロテスタントに改宗した。彼はポーランド王に忠誠を尽くす代償に東プロシャの小国を所有することを許されたのじゃ。現代の日本の近くにも危ない世襲の小国があるのう。
p109
その間、コペルニクスはエルムランドの事実上の長官として、戦争による損害を回復しようとしていた。アレンスタイン地方から逃げ出した住民たちを呼び戻して住ませるか、新しい住民たちを探さねばならなかった。騎士団がエルムランドに加えた全損害の詳しい見積もりを書き上げて、それを平和会議に提出する仕事も頼まれた。コペルニクスは、彼の最良の友人の一人である同僚の参事会員、ティーデマン・ギーゼにいろいろ助けてもらった。
さらにコペルニクスはこの戦後の平和を利用して自分の研究を進めた。仕事はほとんど完成に近づいており、それは重要なものだという噂がひろまり始めていた。学会は二十年間、期待しつづけることになる。

24 通貨の病気 ※一五一九に戻った
p110
■一五一九年
コペルニクスは科学者というだけではなく、政治家でもあったことはわかってもらったと思う。それもかなりやり手じゃ。彼は国が動かされる複雑な仕組みの内部も、また外交関係と、二つともよく理解していた。
国を動かす仕組みで最も重要なものは何だと思うかね? お金じゃ。もちろんコペルニクスは正しく理解していた。お金は独自の、神秘な法則と性質を持つ。そこにはお金の科学がある。それを見つけたのがコペルニクスじゃ。多才な男よ、科学、政治だけではなく、経済までもこなす。
お金は商品でもある。その価値は上がったり下がったりする。お金の価値が下がると「インフレ」が起こる。ポーランドとチュートン騎士団の長い戦争のために、十六世紀のプロシャに「インフレ」が起こった。それがコペルニクスを考えさせ、彼は一冊の本を書き上げた。コペルニクスはこう言った。
「鋳貨の品質を落として(*)利益を得ようとする支配者や政府は、良い種子よりも安いからといって悪い種子を播いてもうけようとする農夫のようなものだ」
このセリフ、誰かのものと似てないかい? そうグレシャム(*)の法則「悪貨は良貨を駆逐する」じゃ。
彼は、すべての国が同じお金を持つという「通貨連合」に全面的に賛成している。今でいうならEUじゃ。最もイギリスは離脱したがのう。
■一五二二年
コペルニクスは書き上げたものを報告書にして、グラウデンツで開かれたプロシャ議会に提出した。彼はその後、今度はラテン語で、この小論文を改訂した本を書き上げた。それには貨幣の一般論が提案してあって一五二八年の議会に提出するためだった。政治家たちは天文学者の助言に耳を傾けた。しかし既得権益を持つものたちの反対があまりにも強く、コペルニクスの提案が実行されることはなかった。
(*)発行する鋳貨(コイン)に混ぜる金や銀を少なくすること。一時的な利益は得られる。
(*)トーマス・グレシャム。一五一九~七九。ヘンリー八世に仕えたイギリスの財政家、貿易商。

25 晩年
p115
■一五二一年
ポーランドとチュートン騎士団の休戦が調印されたこの年こそ、ルターがウォルムの国会において、その抗議の立場を明らかにした年じゃ。ドイツでは、宗教改革が進んでいたのさ。プロテスタントの教義は急速にプロシャに広がった。彼らはダンチヒのような商業都市を基地にした。少し前に話したようにプロシャ大公はプロテスタントに改宗した。

p116
■一五二三年
穏やかな司教ファビアン・フォン・ロッセーネンが死んだ。後継者が決まるまでの半年間、コペルニクスはエルムランドの責任者を務めた。新しい司教は、プロテスタントの敵として有名なマウリティウス・フェルベルだった。ほとんどの参事会員たちは新しい司教と同じ態度をとった。しかしコペルニクスはもっと寛容だった。彼は晩年孤独だったが、原因の一つがこれじゃ。もう一つの理由は、もちろん、太陽中心説のせいさ。
カトリックがコペルニクスの説を嫌っていたのなら、プロテスタントはどうだったか。カトリックよりも、もっと徹底的にコペルニクスを否定した。コペルニクスは孤立無援だった。救いとしては、カトリックが公式にコペルニクス説を拒否したとき、彼はとうの昔に墓に入っていたことじゃ。
※いつ?後日調査。
しかしプロテスタントからは、コペルニクスの本が出版される一五四三年以前から攻撃されていた。誰からか、わかるかい? ルターじゃ。ルターは次のように批判した。
「天や太陽や月ではなしに、地球が回転するのだということを証明しようとする天文学者がいる。彼は、ちょうどこう考える男のようなものだ。動いている馬車や船に乗っていながら、自分は停まっていて大地や樹木の方が自分を通り過ぎている。
これは現実の話だ。誰でも賢く見せるためには、何か自分だけの独自で最良のものを生み出さなければならない!
この馬鹿者は全天文学をひっくり返そうとしている。しかし聖書が証明している! ヨシュアが止まれと命じたのは、地球ではなくて、太陽だったのである」
ルターの同僚フィリップ・メランヒトンもコペルニクスの死後六年(一五四九年)ほどに出版した本のなかで、コペルニクス説に反対している。彼はルターと同じように聖書の言葉を重要に考えた。

p115
■一五二五年
宗教改革の波はポーランドにも押し寄せた。コペルニクス自身は宗教改革について自分の意見を述べた記録は何も残さなかった。しかしこの年、彼の友人ティーデマン・ギーゼによって書かれ、ギーゼの意見を表明したと思われる本に、コペルニクスは大いに心を動かされた。
ギーゼは一四八〇年にダンチヒの名家に生まれ、ドイツとイタリアの大学で研究した。最初はクルムの司教、後にエルムランドの司教として、ローマ教会の高位聖職者になった。
p116
ギーゼは強いカトリック教徒だったが、心が広く、プロテスタントの指導者メランヒトン(*) とも親しかった。さっき話した本とはルター派の司教が書いたものに対する回答書じゃ。その中でギーゼは、彼の意見をコペルニクスが賛成しており、この回答書を本にして出版することをすすめたと言っている。ギーゼとコペルニクスは二人ともキリスト教徒がカトリックとプロテスタントの二つに分かれてしまうことを防ぎたいと考えていたじゃ。残念ながら、その願いは現代でもかなえられていない。

p118
■一五三一年
コペルニクスの説は広く大衆の耳にも届いていた。彼の説にたいする反対は、フラウエンブルクから遠くないプロシャのエルビンクで道化芝居として上演された。この芝居については、地方の一校長の手でカーニバルのために演出された。その芝居は、グロテスクな姿の行列の中に、星を見つめている僧侶のやせた姿の作り物を引っ張りこんで、コペルニクスを笑い物にしたようじゃ。

p114
■一五三三年
コペルニクスは大彗星を観測した。彼はこの天体がなぜ惑星と反対方向に天空を運行するのかという問題について、他の天文学者たちの論争にまきこまれた。彼はこの彗星について小冊子を一冊書いている。
p119
■一五三三年
コペルニクスの晩年に周囲からの激励がないわけではなかった。『コンメンタリオルス(p89)』は、教皇クレメンス七世(*)と彼の枢機卿たち幾人かのまえで行われた新理論の講演で話されたらしい。講演者は教皇秘書のヨハン・ウィドマンスタット。
(*)クレメンス七世。一四七八~一五三四年。在位一五二三~三四年。
※メディチ家のジョバンニか?
p120
■一五三六年
枢機卿ニコラス・フォン・シェーンベルク(前述の秘書が枢機卿となってこのように名乗った)は、ローマからコペルニクスに手紙を出し、次のように頼んでいる。
「あなたの研究の詳しい成果を出版してほしい。さもなければ、自分だけにはそれを伝えてほしい」
コペルニクスが返事をしたかどうかはわからない。いずれにしても枢機卿は翌年死んでしまった。しかし、コペルニクスは枢機卿の手紙をとても大切にしており、一五四三年の『回転について』の巻頭に印刷された。

p118
■一五三八年
司教フェルベルも死んで、この年、ダンティスクス(一四八五~一五四八)と自称したクルムの司教が後継者となった。彼は一四八五年にダンチヒで生まれたので、その地名から自称の名前をつくった。彼の代わりにティーデマン・ギーゼがクルムの司教になった。
ダンティスクスはコペルニクスにとってやっかいな相手だった。若い頃にヨーロッパと中東で兵士や学生として野蛮な生活を送ってきた。いまや高位聖職者として他人を厳しく罰することで若い頃の行いを償おうとしていた。
ダンティスクスは、ルター派に対して無慈悲な政策をとり続けた。彼はコペルニクスを嫌った。一つには、コペルニクスがルター派の学者レティクス(*)と友達付き合いしているという理由で。もう一つはもっと個人的な理由じゃ。
ダンティスクスは、参事会員でありコペルニクスの友人であるアレクサンデル・スクルテティを陥れようとしていた。というのは、ダンティスクスが友人のために希望していた参事会の高位聖職者の地位にスクルテティが選ばれたからじゃ。争いは何年にもわたり、ダンティスクスはスクルテティを異端者としてプロシャ国外に追放した。ダンティスクス…いやな男じゃな。

p120
※レティクスとの出会い
コペルニクスはその人生の最後の何年かに、弟子レティクスの訪問を受けて、大いに励まされた。レティクスはまったく予想もしなかったところからやってきた。あのルター派のウィッテンベルク大学から彼のもとにやってきたのじゃ。これはある意味でコペルニクスの全生涯で最後の、そして決定的な出来事だった。

p115
■一五四九年
ギーゼは、すでにフラウエンブルク聖堂に葬られていた友人コペルニクスの後を追った。

26 医者としてのコペルニクス
p121
p122
p123
p124
p125
p126
p127
28 不滅への門出
p128
p129
p130
p131
29 「回転論」
p132
p133
p134
p135
30 序文
p136
p137
p138
p139
p140
p141
31 地球の運動
p143
p144
p145
p146
p148
32 宇宙の大きさ
p149
p150
p151
p152
p153
33 人間コペルニクス
p155
p156
p158
第三部 コペルニクス説の勝利
34 最初の反作用
p160
p161
p163
35 イギリスにおけるコペルニクス説
p164
p165
p166
p167
36 境界のない宇宙
p169
p170
p171
37 新星と大観測家
p172
p173
p175
p177
38 遊星はどんな運動をするか
p178
p180
p181
39 新しい力学
p183
p185
40 証人台に立った望遠鏡
p188
41 挑戦
p190

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投稿日: カテゴリー: 未分類

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