20170725 誰も読まなかったコペルニクス オーウェン・ギンガリッチ

第二章 追跡開始p33
p33
ゲオルク・ヨアヒム・レティクスとエラスムス・ラインホルトという名は、誰にもおなじみとは言えない。レティクスはコペルニクスの唯一の弟子で、ラインホルトはコペルニクスの天体運行表の制作者じゃ。こんなことを知っているのは、ごく少数の専門家だけだろう。
二人ともドイツのウィッテンベルク大学の教授さ。ラインホルトは天文学の、レティクスは数学の、な。
■一五〇二年
シェークスピアの作品ではハムレットが通ったウィッテンベルク大学は、この年に創設された。当時はのどかな田舎の学校で入学者は毎年四〇人ほど。しかし三〇年もしないうちに、マルティン・ルターによる宗教改革の中心地になる。
■一五〇八年
ルターはウィッテンベルク大学で教え始めた。
■一五一七年
ルターは、「九五カ条の論題」をウィッテンベルク城教会の扉に貼り、プロテスタントによる宗教改革の口火を切った。ルターはウィッテンベルク大学を本拠地として、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝に公然と反抗し、学生や教員は彼を熱烈に応援した。
■一五二七年
この年までには、異端だったルター派がドイツの正統派になっていた。

ウィッテンベルク大学は、教育面でルターの腹心だったフィリップ・メランヒトンが仕切っていた。ルターはこう書いている。
「私は闘うために生まれた。しかしフィリップ先生は黙って静かに歩き、神が授けた豊かな才能にしたがって耕し、種をまく」
メランヒトンは天文学に熱心だった。メランヒトンは、二人の若い卒業生を教授にした。それがラインホルトとレティクスじゃ。
p38
地図 1543年頃のヨーロッパ

p40
■一五四〇年
コペルニクスは自分の原稿を印刷することを渋った。(略)コペルニクスは、自分の大作がただ嘲笑されたり、誰にも読まれない本になったりすることを恐れた。
コペルニクスを説得するため、レティクスは工夫した。彼は頼みこんで許しを得ると、コペルニクス天文学を紹介する本を出版した。この年の春、七〇ページの小冊子『ナラティオ・プリマ』は印刷された。この本で、レティクスはいきなり太陽中心説で読者を驚かせたりしなかった。「太陽の運動」の複雑さを最初に詳しく紹介した。それを読ませておいてから、突然大きな衝撃を見舞う展開にした。
「これらの現象は、わが師コペルニクスが示している通り、地球の運動によって説明できる。つまり、太陽を宇宙の中心に据え、地球に太陽の周りを回らせれば、すべてが解決する。」
p42
『ナラティオ・プリマ』は強い関心を集めたので、翌年には再版されている。それでもコペルニクスはためらっていたが、レティクスはあきらめなかった。ついに、ポーランド滞在二年四カ月め、レティクスはコペルニクスの原稿の写しを託された。
■一五四一年
ニュルンベルクにあるペトレウスの印刷所に届けるべき原稿を抱えてウィッテンベルク大学に戻ったレティクスは、ようやく正教授に任命された。
彼は地元の印刷所に『回転について』の三角関数の項を印刷させ、タイトルは『三角形の辺と角について』とした。これには正弦(サイン)表も含まれていた。正弦表が本になったのは、まだ二度めだった。最先端の本といえる。扉にはコペルニクスが著者としてはっきり示してあった。
p43
一方、上級数学の教授になり、天文学の授業を任されていたラインホルトも動いた。彼は、『惑星の新理論』という高等天文学の教科書を編集し終わって、その序文にこう書いている。
「非常にすぐれた当代の天文学者コペルニクスがいる。彼に対して万人の期待が集まっている。彼に天文学を刷新してもらいたいものだ。」
ラインホルトのほのめかしと、一五四〇年の『ナラティオ・プリマ(レティクス著)』によって、天文学界も占星術界も、ただならぬことが起きそうだと気づいた。
p44
■一五四三年
この年の春、ついに本はニュルンベルクのペトレウスの印刷所で刷り上がった。
最初の五パーセントは、太陽中心説という新しい宇宙論なので、著者の言葉どおり「知的に楽しめる」。だが、残りの九五パーセントは恐ろしいほど専門的だった。
本の扉の真ん中には、次のような発行者の宣伝文句があった。
「(略)新たなる仮説に裏づけられた、恒星・惑星両方の運動を記し、また、いかなる時点の惑星の位置も簡単に計算できる、まことに便利な表も掲載(略)」

第三章 コペルニクスの足跡を追ってp54

p60
■一四八九年
コペルニクスの伯父ルーカス・ワッツェンローデは、ポーランド最北のカトリック教区ヴァルミアの司教になると、二人の甥(ニコラスと兄のアンジェイ(アンドレアス))をフラウエンブルク司教座聖堂の参事会員に指名し、経済的に困らないようにしている。

p64
■一五七四年
コペルニクスの死後、手書きの原稿はレティクスのもとに送られたが、この年にレティクスが亡くなると、弟子のヴァレンティン・オットーに引き継がれた。
一世紀後、この原稿は有名なグダニスクの天文観測者ヨハネス・ヘヴェリウスの手元に届けられた。その後、姿を消すが、一八四〇年にコペルニクス学者たちがプラハ(現チェコスロバキアの首都)の個人蔵書に収められているのを発見した。
第二次世界大戦後、この至宝はチェコスロバキアによってポーランドに貸し出されたが、ポーランドはこれをあっさり横領し、コペルニクスの母校のヤギェウォ図書館に収めた。以後、この貴重な文書はポーランドにある。

第四章 「四旬節のプレッツェル」と周天円神話p74

p83
エラスムス・ラインホルトが、『回転について』の扉に、プトレマイオスの批判であり、コペルニクスへの賛辞を記した。
コペルニクスの宇宙論は現在の太陽系モデルの原型を提供しただけではない。恒星、衛星、惑星などさまざまに異なる天体運動をしっかりと統合した。偉大な科学者はみな統合者だった。以前は誰も気づいていなかったつながりを発見した人物じゃ。
アイザック・ニュートンは天空運動と地上の運動はまったく別物だとする意見をひっくりかえし、地球にも天空にも同じようにあてはまる法則をまとめた。
ジェイムズ・クラーク・マクスウェルは、電気と磁気を結びつけ、光は電磁的な放射であることを示した。
チャールズ・ダーウィンは、すべての生命体は共通の先祖を通してつながっているという考えを示した。
アルバート・アインシュタインは、質量とエネルギーは別物だとする考えをばっさり切り捨て、両者をかの有名なE=mc2という公式で結びつけた。

p90
■一五〇四年 ※本には載せる必要ないか?
博士号を取ったばかりのコペルニクスがイタリアからポーランドに戻ってまもなく、肉眼で見える惑星のうちでも動きが遅い二つがすばらしいショーを見せた。木星が、さらに動きの遅い土星を追い越したのじゃ。二〇年に一度しか見られないこの合(*)が、コペルニクスが所有していた『アルフォンソ表』の精度を測るよい試験となった。どの晩に実際に木星が土星を追い抜くかに、精密な道具はいらなかったからじゃ。
(*)二つ以上の天体が同一の黄経上に並ぶこと。黄経とは、天球上で地球の経度にあたる座標系。

第五章 さる著名な人物の書き込みのあるp92

p97
一九七三年四月、著者ギンガリッチはローマに行った。そこにはまだたどっていないコペルニクスの本がほかのどんな場所よりも多く残っていたからじゃ。まずはカサナテンセ図書館。ここは、カサナテンセ枢機卿にちなんで名づけられた。
一六〇〇年、カサナテンセ枢機卿は、哲学者ジョルダノ・ブルーノに火刑の宣告を下した宗教裁判所の所長になった。意外にも、その図書館にはかつてブルーノが所有していた『回転について』(の第二版)があった。ブルーノは世界が複数あるという考えをはじめ、多くの異端思想をもっていたために、異端者として処刑された。コペルニクスの理論についてはひいき目に見ても、わかっていなかったようじゃ。彼の『回転について』には力強いサインが見られるが、実際に彼が読んだという証拠はない。
※10巻(1550-1600)または11巻(1600-1650)で使用を検討。
【10巻 1550-1600安土桃山 信長五右衛門】
信長~フロイス~ヨーロッパ
ティコブラーエ、1546-1601
ジョルダノ・ブルーノ1548-1600クザーヌス(1401-64)の影響。山本義隆2
【11巻 1600-1650江戸1島原の乱】
ガリレオ、1564-1642
ケプラー、1571-1630

p98
一九七三年四月、著者ギンガリッチはローマに行った。 そこにはまだたどっていないコペルニクスの本がほかのどんな場所よりも多く残っていたからじゃ。次のバチカン図書館では途方もない発見が著者ギンガリッチを待っていた。バチカン図書館には普通は入れない。ローマ教皇が支配するこの国の懐深くにいちしているからじゃ。ここではハーバード大学の堂々たる書状が役に立った。扱いにくいお役人を譲歩させるには、でかでかと金の紋章の入ったもったいぶった書類を大学の事務局に用意してもらって、それで相手の目をくらませるとよい。出発前にギンガリッチは先輩教授から教わっていた。結果は合格だった。図書館に入ることができた彼は質問された。
「通常の本と写本のどちらが見たいですか」
「本です。これが書架記号です」
答えて、イェジー・ドブジツキ(*)から渡されていた請求記号のリストを渡した。
「でもこれは写本ですよ」
図書館員がリストの書架記号の一つを指差して答えた。ギンガリッチは戸惑って答えた。
「本と写本の両方を見せてほしい」
スウェーデンのグスタフ・アドルフ国王(*)は、プロテスタントのためにヨーロッパ北部を救おうと三〇年戦争(*)に参加し、その折、将校たちは道々、本や美術品のコレクションを略奪した。
一六三二年、王が亡くなると、その戦利品は国王の娘クリスティーナ(*)に受け継がれた。二二歳のとき、クリスティーナ女王は個人教授として、フランスの高名な哲学者ルネ・デカルトを雇った。五三歳のデカルトは、毎朝一一時までベッドの中で瞑想する習慣だったが、哲学の授業のために午前五時に起きることを強制され、愕然となった。この身を凍らす日課が彼の命を縮める結果となった。
一六五〇年、哀れなデカルトは着任から一年とたたぬうちにストックホルムで亡くなった。
その後まもなく、クリスティーナ女王は決心して退位した。財宝をまとめてローマへと旅立ち、カトリック信者となった。
一六八九年、彼女が亡くなると、その蔵書はローマ教皇アレクサンデル八世、すなわち前枢機卿オットボーニの手に渡って、バチカン図書館に収められることになった。
イェジー・ドブジツキは、これを知るとバチカン図書館のオットボーニ・コレクションを調べ、一冊の『回転について』を見つけ出した。本の後ろには詳細な書き込みが綴じ込まれていた。そのために「写本」として分類されたのだ。しかしコペルニクスが完成本を受け取ったのは死の床だった。それを知っているドブジツキは、コペルニクス自身が書き込みを入れられないことをよくわかっていた。彼はギンガリッチのために書架記号を写し取ることを忘れなかった。
p101
ギンガリッチが最も興奮したのは、オットボーニ・コレクション一九〇二番だった。扉には「天文学の公理。天体運動は円状で一様である。あるいは円状で一様な部分からなる」という、おなじみの言葉が記されていた。これはエラスムス・ラインホルトの本、ギンガリッチの調査のきっかけとなったエディンバラの本と関連があるのは明らかだった。ラインホルトの本の扉にも同じ言葉がペンで記されていたのだから。本自体に残る詳細な書き込みのいくつかは、ラインホルト本の書き込みとそっくりだった。しかしラインホルト本にはなかった、惑星運動の専門的な図の書き込みがあった。
巻末には二種類の書き込みがあった。
一、太陽中心説で配列した惑星の円軌道の図(コペルニクス説)
二、地球を中心にした配列した惑星の円軌道の図
これは誰の本だったのか。巻末の図はデンマークの偉大な天文学者ティコ・ブラーエが唱えた太陽中心の図によく似ている。
一五八八年、ティコ・ブラーエは、地球が静止して、その周りを月と太陽が回っているいるが、ほかのすべての惑星が太陽の周りを回っているという説を唱えた。
※10巻(1550-1600)または11巻(1600-1650)で使用を検討。
【10巻 1550-1600安土桃山 信長五右衛門】
信長~フロイス~ヨーロッパ
ティコブラーエ、1546-1601
ジョルダノ・ブルーノ1548-1600クザーヌス(1401-64)の影響。山本義隆2
【11巻 1600-1650江戸1島原の乱】
ガリレオ、1564-1642
ケプラー、1571-1630

p102
著書『天空の上天の領域におけるごく新しい現象について』の中でブラーエが唱えた説は
オットボーニ・コレクション一九〇二番の巻末に描かれた図と、気味が悪いほど似ている。 ※後日
p102
有力候補者の一人はグレゴリオ暦を準備したクリストファー・クラヴィウスじゃ。イエズス会の神父で天文学者でもあった。彼は、自分の本(一五八一年の改訂版)の中では「コペルニクスはプトレマイオスの天体運行軌道の配列が唯一の可能性ではないことを示したにすぎない」と認めるにとどまっている。
一五七八年、もしクラヴィウスがオットボーニ・コレクション一九〇二番に書き込みをしたのだとしたら?
それは、一五八一年に改訂された自分の本に、天体運行軌道の配列の可能性に関する見解を加えた事実と、時期的にぴたりと一致する。

p104
ガリレオ裁判の書類
一六三三年の悪名高い異端裁判
※後日 10巻(1550-1600)または11巻(1600-1650)で使用を検討。
【10巻 1550-1600安土桃山 信長五右衛門】
信長~フロイス~ヨーロッパ
ティコブラーエ、1546-1601
ジョルダノ・ブルーノ1548-1600クザーヌス(1401-64)の影響。山本義隆2
【11巻 1600-1650江戸1島原の乱】
ガリレオ、1564-1642
ケプラー、1571-1630

p107
バチカン文書館の上にある〈風の塔〉は、人が同時に上り下りするには階段がせますぎる。だから観光客はあまり訪れないところじゃ。デカルトを結果的に殺したクリスティーナ女王がバチカンにやって来たとき、非常に内気な教皇アレクサンデル七世(*)は、自分の部屋からできるだけ離れたところに女王の部屋をつくった。彼は〈風の塔〉を女王の部屋にした。古い観測所の下じゃ。とても珍しい観測所で、日が差し込む小さな穴と、床の上に子午線を示す真鍮の線があるだけじゃ。 グレゴリオ暦をつくったクリストファー・クラヴィウスはその穴と子午線を使った。教皇グレゴリウス十三世に「ユリウス暦が季節と一〇日分ずれがある」ことを示せたのじゃ。
ちなみに、壁に風を表したフレスコ画が描かれているので、〈風の塔〉と呼ばれている。
(*)八?七?
※一〇または一一巻

p107
■一五八八年
ティコ・ブラーエは、十分練りあげた「ティコの太陽系」を発表した。静止した地球が中心にあって、太陽がそれを周回し、残りの惑星は太陽の周りを回る、というものじゃ。その論文の中で、彼は一五八三年にこれを考えたと主張している。
p110 ティコ・ブラーエの宇宙(イラスト)
※一〇または一一巻

第六章 試練の時p120
第七章 ヴィッティッヒ・コレクションp139
p139
■一五八〇年
中央ヨーロッパ出身の数理天文学者パウル・ヴィッティッヒ
ブラーエが所有するベーン島に滞在
※一〇または一一巻

p145
■一六一四年
エディンバラの数学者ジョン・ネイピアは対数を考案したといわれる。
※後日 一〇または一一巻

p150からp153
ティコ・ブラーエとパウル・ヴィッティッヒ
※後日 一〇または一一巻

第八章 大きい本ほど長く生き延びるp154
p157からp160
一九八六年春、ギンガリッチはとんでもない幸運に出くわした。
※ケプラーの逸話。後日 一〇または一一巻

p161
ガリレオとケプラーの逸話。
※後日 一〇または一一巻

p165
ギンガリッチは、『回転について』はそもそも何部くらい印刷されたのかとよく訊かれるそうじゃ。
■一五四二年
春、『回転について』の印刷は始まった。
■一五四三年
四月中旬、『回転について』の印刷は終わった。

p170
■一六一〇年
三月、ガリレオは、コジモ・デ・メディチの個人秘書に宛てて書いた手紙の中で、『星界の報告』は五五〇部印刷されたと描いている。
※後日 一〇または一一巻

p177 ※削除検討
■一五六六年
秋の目録を見ると、コペルニクスの『回転について』が最後のカテゴリーに載っている。

p178
■一六一六年
本が消える理由はほかにもある。『禁書目録』に名前が挙がった場合は故意に破棄される。『回転について』は、この年にカトリックの『禁書目録』に入れられた。

第九章 禁じられたゲームp179
p180
ウィッテンベルク大学では、『回転について』が出版される前にもう、マルティン・ルターがある晩餐会の会話で聖書の「ヨシュア記」のこのくだりを引き合いに出していた。どうやらルターは大学でレティクスあるいはラインホルトから、コペルニクスの新しい宇宙論について聞いたようだ。食事の席というくつろいだ場であったにもかかわらず、アントン・ラウターバッハという熱心な学生が、ルターの言葉を書き取っていた。
「※後日。他の本にもあり。参照せよ。」
ヨハネス・アウリファバーという学生は、のちに少し違うことを伝えている。
「あの愚か者は天文学全体をひっくり返そうとしている」
とりわけ広く引用されるルターの言葉じゃ。しかし専門家は疑っている。アウリファバーは実際にはその席にいなかったのだから。
■一五六六年
ルターの発言は『卓上語録』シリーズとしてウィッテンベルクで初版が出た。そのまま忘れられてもおかしくはなかったが、そうはならなかった。
■一八九六年
コーネル大学初代総長アンドリュー・ディクソン・ホワイトが、著書『キリスト教世界における科学と神学の戦いの歴史』に、ルターのコペルニクスに対する言及を含めて出版したのじゃ。それでルターの意見は広く世に知られることになったのさ。
p182
この本の主役となったのはガリレオ事件じゃ。次のようなまったく架空のエピソードが前置きとして紹介されている。
ここに感動的な予言が果たされた。昔、コペルニクスの敵たちは彼に「もしおまえの学説が正しいのなら、金星は月のように満ち欠けするはずだ」と言った。コペルニクスは「その通りです。言うべき言葉もありません。しかし、神は正しいのですから、いつかこの異議に対する答えを見つけられるでしょう」と答えた。神からの答えは、一六一一年にもたらされた。この年、ガリレオの粗末な望遠鏡が金星の満ち欠けを明らかにしたのだ。

p183
序文には次のようなことが書かれている。
「天体の動きを観測するのは天文学者の務めである。そして、観測された動きの原因、いや、仮説を提示する。なぜ仮説かというと、真の理由に到達できる見込みはないからだ。(略)本書の著者はこれを実に見事にやりとげた。というのも、本書に述べられた仮説は真実である必要はないし、あるいはその見込みすらなくてもかまわないから。要するに、計算が観測と一致すれば良いのだ」
この一文は、ニュルンベルクの聖ローレンツ教会の神学者・聖職者で、本の大部分を校正したアンドレアス・オジアンダーによって加えられた。コペルニクスの友人、ティーデマン・ギーゼ司教は、独断で加えられたこの「序文」を読んだとき、非常に心配して、ニュルンベルク市参事会に手紙を書き、「序文」を改訂して印刷しなおすように要請した。
p184
地球が動くことは聖書に反するものではない。
p185
レティクスはこう書いている。
「物事の真実を追求する者として、われわれは頭の中で、見かけと現実を区別している」
彼の主張と同じ理屈を二人のコペルニクス支持者、ガリレオとケプラーが、それぞれ独自に発見し、主張している。二人がもっていた『回転について』はどちらも現存し、ヨーロッパの図書館にある。そして、どちらの本にも書き込みがされている。

p187
ギンガリッチはケプラーの『回転について』を写したフィルムを手に入れた。この本には、ケプラーが手に入れたときにすでに書き込みがあった。この本は、もともとニュルンベルクの印刷業者ペトレイウスから、ヒエロニムス・シュライバーという地元の学者に贈られたものじゃ。シュライバーは明らかに内輪の人間だったようで、コペルニクスの本の扉の裏に印刷された無記名の「序文」、つまり読者向けの助言を誰が書いたのか知らされていた。
ギンガリッチがライプチヒで撮ったスライドの一枚に、「序文」の上にシュライバーの手で書かれたオジアンダーの名前が映っている。この書き込みのおかげでケプラーは匿名の書き手の正体を悟ったのじゃ。
ケプラーはこの無記名の「序文」にとても腹を立てた。
~p187 こうして、ケプラー著『新天文学』の扉の裏の短い注意書きは、その後まもなく出される禁止令のお膳立てをしてしまったのじゃ。
※以下後日 一〇または一一巻

p187
ギンガリッチがガリレオ所有の『回転について』を 
※以下後日 一〇または一一巻

p190
■一五四五年
教皇パウルス三世はトリエント宗教会議を開き、
※ガリレオの逸話。よって以下後日。一〇または一一巻

p191
■一六一六年
こうして『回転について』はローマ教会の『禁書目録』に「修正されるまで」載せられることになったのじゃ。
※コペルニクス『回転について』が発禁になった経緯。ガリレオの逸話に含める。よって以下後日。一〇または一一巻

p202
■一五五〇年
『回転について』出版の七年後のこの年、ヨハネス・ケプラーの師メストリンはチューピンゲンの約五〇キロメートル東にある、当時はまだ 
※ケプラーの師。ケプラーの逸話に含める。よって以下後日。一〇または一一巻
※付箋紙はあと32カ所。これは一〇巻のときの原稿起こし作業とする。20170906

######
p202
ミハエル・メストリンは、『回転について』出版の七年後の一五五〇年に、チュービンゲンの約五〇キロメートル東にある、当時はまだ小さな村だったゲッピンゲンで生まれた。そして天文学者としての生涯のほとんどをチュービンゲンで過ごした。最も有名な弟子がケプラーじゃ。

p235
レティクスが(イタリアで)訪問した人のうちには、イタリアの数学者ジローラモ・カルダーノがいた。 ※以下後日
(『磁力重力』p382)

p236
永遠の反逆児だったレティクスは、テオフラストゥス・フォン・パラケルススが提唱した新しい医学(従来の薬草ではなく化学薬品を用いる)に取り組んだ。それは太陽中心説に匹敵するほど、急進的な医学だった。
※パラケルスス1493-1541『磁力重力』p481

p238
コペルニクスが「太陽は宇宙の中心か、それとも地球の公転軌道の中心か」という問題を提起した箇所(ケプラーと師メストリンが論じあったに違いない箇所)のかたわらに書き込まれた書き込み。
※なぜこれが問題になるか? 太陽は地球の公転軌道の中心ではない。地球は太陽を焦点の一つとする楕円軌道を描くから。当時は「楕円軌道などありえない。円軌道が神の御心にかなう軌道だから」と考えられていたから? ならば、実は「楕円軌道」とわかったときに、「神の存在が揺らぐ」から問題なのか?

p306
ゲラルドゥス・メルカトル(1512-1594)ネーデルラントの地理学者。

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