20170630 天魔ゆく空 真保裕一 p308以降

p308
明応二年 四月
p311
こうして日々細川の妻が外に出たがれば、赤松のみでなく、この堺に水軍を率いてきた九州一の守護、大内政弘方の動きも見ようとしているのでは、と裏を考えてしまう。

Wikipedia 足利義材
政元は軍を河内国に派遣して義材と畠山政長を打ち破り、政長は自害した。義材は尊氏以来足利将軍家に伝わる家宝の甲冑「御小袖」と「御剣」だけを携えて政元の家臣・上原元秀の陣に投降し、京都に連れ戻されて龍安寺に幽閉された。この時、義材が毒を盛られる事件が起き、富子の指示によるものだと噂された。

p313
将軍廃立の知らせとともに、足利義材の本陣に加わっていた細川成之(阿波)と義春の父子が、兵を率いて堺の浦に引き上げてきた。
若狭守護の武田元信、尾張守護の斯波義寛(よしひろ)までがいっしょだった。
堺は、一万五千の大軍の砦となった。
廃された将軍にしたがう理屈はなかった。しかも足利義材と畠山政長らが籠もる河内正覚寺(現平野区旭神社境内)のすぐ後ろには、安富元家ひきいる細川の軍勢が迫っていた。
同じ細川家ではあるが、阿波の成之親子は、本家たる細川京兆家惣領の政元に逆らっての参陣だった。本来ならば、畠山義就(よしひろ)に対する征伐軍として引き続き足利義材を支える道もあるのに、堺に兵を引き上げさせた。足利義材を見限り、政元の側につくでもなく、様子をうかがう卑怯な手と言える。そしておそらく、政元の姉である安喜と赤松政則の婚儀を経て細川の同族となった赤松の動きを探る意もある。
p314
空々しくも細川義春が、安喜を訪ねてきた。
「父成之に成り代わりまして、お喜びを申し上げに参りました」
「わざわざ祝いのために、公方様(足利義材)から離れ、この堺に参ったのですか」
「もちろんです。しかしながら、正覚寺より我らが引き上げたあと、この堺より兵糧を積んだ赤松家の荷車が出立したとか。いったいいずこへ?」
将軍の首のすげ替えという細川政元のクーデターを、武士にあるまじき振る舞いと決め込み、密かに現将軍義材を助けるために兵糧を正覚寺に送った赤松家の家臣がいたに違いなかった。夫赤松政則は、犯人捜しと始末で大変なのだろう。
「お父上さまにも篤とお話しください。我が赤松家は、たとえお退きになられようと武家の統領であられたお方を見下すような下種の集まりではございません」※後日

p323
明応二年()閏四月 日野富子
p325
細川政元という男、まったく粗相がない。(略)あくまで富子を重んじる扱いをしてみせる。清晃が元服した時も、富子に名替え親になってほしいと、政元は富子に申し出た。
富子は五山の学僧を呼び、清晃の名を上げさせ、その中から、義遐(よしとお)、という名を富子は選んだ。
遐には、遠く遥か、という意味がある。遙かな先を見通す将軍になってもらいたい。

p326
亡き妹の息子(富子の妹は義視の妻?)
p327
五月二日、粗末な板輿に乗せられて、将軍の座から引きずり下ろされた義材が、京へ送られてきた。

p332
龍安寺に囲いし義材殿に、何かあっては義遐様の名に傷がつくと思い、それがし密かに毒味役を置かせておりました。(略)
それというのも、日野良子様に先の大御所義視様、さらに関東では義遐様の父君政知様と、このところ足利家では、急死されるお方がつづいておりました。政知様の死に際しては、関東管領上杉が毒を盛ったのではないか、との噂がありました。先の大御所義視様もお倒れになってからひと月あまり、それも兄義政様の命日に亡くなられるとは。

p335
「いずれ義材様は小豆島への流刑と(略)」
p336
六月十九日、元服の際に名乗りを変えたばかりの義遐が、またも義高と名を変えた。富子の選んだ義遐という名を嫌い、政元が改名させた。富子を遠ざけるために。
p337
六月末日、小豆島へ流されるため、龍安寺を出た義材が、細川の手から逃れた。西幕府に与した者らが、このままでは細川に殺されると恐れて、義材を奪い返したのだ。細川内衆の上原邸が三十余名の志士に襲われ、義材は消えた。

p338 破ノ三段 大癋見(おおべしみ)
p338
明応五年()四月 洞松院(とうしょういん。安喜)
p339
赤松政則。たった三年。四十二歳。早すぎる死だった。鷹狩りに出て倒れ、そのまま帰らぬ人となった。

p342
赤松の嫡男は、道祖松丸(さいまつまる)。(略)浦上則宗は、赤松政則の代わりに在京し、侍所の所司代を長く務め、赤松の家臣をまとめてきた。
p343
浦上則宗という宿老に仕切られたのでは赤松の行く末が怪しくなる。すでに一度、赤松政則を廃して、赤松庶家の血筋である有馬則秀の息子を家督につけようと図った過去がある。

p348
三年前、将軍であった義材が廃された時(略)
あの時、政元は東国まで行って清晃擁立の道をつけたうえで、公家衆からも信頼されている日野富子の力を借りたうえで、奉行衆を束ねる伊勢貞宗と結び、さらには洞松を還俗させて赤松家へ嫁がせるという緻密さをもって事にあたった。清晃が将軍になった時も、すぐさま管領にはならず、一年たってから管領職を謹んで受けるという慎重さを見せた。
それに引き替え(略)

p351
明応八年()安富元家
p352
北には、元将軍の足利義材が越前朝倉と結び、兵を起こしにかかっていた。昨年九月、逃げ落ちた先の越中を出た義材は、一乗谷の朝倉館に迎えられて、義尹(よしただ)と名乗りを変えた。
頼りとすべき若狭の武田元信は、隣国丹後の一色義直と、水運の利をめぐって争いをくり返しており、東の越前まで兵を回すゆとりはなかった。
南の河内では今年の一月、ついに紀伊から攻めてきた畠山尚順(ひさよし)の軍勢をおさえきれず、守護の畠山基家が自刃した。
東の近江では、六角高頼が相も変わらず国人をおさえきれず、またも寺社領の押領(おうりょう。強奪)が起こり、武家御所への訴えが出される始末。
西の播磨では、赤松家の内乱がいまだ収まらず、備前と美作までを巻き込んだ争いがつづく。

p353
なぜ畠山尚順がこうも早く軍勢を調えられたか。懲りずに紀伊の根来衆が手を貸したから。
義材を廃したり時も、紀伊の根来衆は義材派の畠山政長を応援して、堺に陣を置く赤松らを攻めた。将軍の首がすげ替えられることで、自らの代官職を奪われるとおそれたから。現に守護であった政長は自死へと追いつめられ、新しい守護によって領内は着々と治められていた。このままでは代官職を奪われてゆくばかりで、根来寺に入る銭は減る一方。そこで、畠山尚順の陣に加わることを決めた。
p354
根来のみではない。大和の僧兵もいる。大和は畿内で唯一、守護がいない。興福寺が守護の代わり。南都七大寺(東大寺、薬師寺など)は多くの僧兵。中でも興福寺は官符衆徒(かんぷしゅと)と呼ばれる僧兵が国人となり在地の衆徒を束ねてきた。
※国人…地元の武装住民
(略) 後日。
政元は、官符衆徒の棟梁となっていた古市澄胤(ふるいちちょういん)に目をつけた。大和の領地のほかに、山城でも新たな代官職を与えることで、山城一揆を討たせた。
澄胤は、大和の僧兵をひきいて、山城一揆をつぶしにかかった。もとより細川の被管(*)であった国人も、その軍勢へと寝返った。逆らう一揆勢は、稲屋妻城に籠もったが、多勢に無勢で城はあっけなく落ちた。
(*)ひかん【被官・被管】上の者に直属する者。大名直属の武士。

p357
「平安の昔より聖地と謳われし叡山に兵を送ると?」
「大乱のあとも、京に一揆がつづくのは何ゆえか。亡者のごとき叡山の坊主どもが、酒屋と土倉を束ねて、京の民から銭をむしりとっておるからよ。懲りもせずに強訴をくり返して脅せば、武家はなびくと思い上がっておる。あやつらは煩悩を捨てるどころか、骨まで酒池に染まり、山上に女まで囲うほどの腐りようよ」
根来寺も延暦寺も高野山も興福寺も、今や大寺院は僧兵を集めておごり、将軍と武家を軽んじていた。政元のみならず、日野富子や伊勢貞親が、蓮如のひきいる本願寺に手を貸してきたのも、すべては大寺院の力を今以上にしてはならぬ、と思うからだった。
(略)
すでによき先例がある。
永享七年()六代将軍足利義教は、くじ引きによって将軍に選ばれる前、青蓮院にて天台の座主を務めていた。つまり、延暦寺をも束ねる天台宗一の僧侶だった。その将軍義教が、自分に逆らって関東を治めようと謀る鎌倉公方足利持氏と結んだとして、比叡山を二度にわたって攻めていた。強訴をくり返し、将軍に背く者として、成敗するために。

p365 文亀二年()八月 足利義高
p369
番衆の頭 海老名高定
「公方様と右京大夫殿の不和が噂にすぎぬことを伝えるため、改名をなされては」
「無駄じゃ。右京大夫は、わしの烏帽子親などせぬわ…」
政元はまたも烏帽子親を断ってきた。
※またも、は? 一度目は富子が名替え親になったときか?
やむなく関白を烏帽子親として参内し、義高は義澄と名を変えた。お飾りの将軍にふさわしい、何の意味もない改名だった。

p377
義忠(*)の叫びは短く途切れた。(略)目の前で人の首が飛ぶのを、十一代将軍義澄(義遐、義高)は初めて見た。

Wikipedia
(*)足利義忠(ぎちゅう)1479-1502
政家(*1)の日記『後法興院記』文亀2年8月6日条によれば、義澄が金龍寺に籠った直後に翻意を促すために同寺を訪れた政元に対して、義澄が示した将軍職復帰のための5条件の中に義忠の処刑があったとされている。
(*1) 近衛政家(このえまさいえ)。文安元年(1444年)~永正2年6月19日(1505年7月20日)。室町時代中期から戦国時代前期にかけての公家。関白、太政大臣。藤原北家摂家 (*2) 近衛家13代当主。
(*2) 摂家(せっけ)。鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)とも。この5家の中から藤氏長者も選出された。

p378 文亀二年()十一月 洞松院(安喜)
義澄が将軍になって九年。
洞松は、三年前、赤松家の内乱を収めるため、洞松は細川家を通じて義澄を頼った。その礼を告げるため上洛。義澄の眼が暗い。この三年が義澄の身と心を削いでいた。
本来守護在京(※この時期だいぶいないはず。前作参照)。が、道祖松丸(さいまつまる)は家督を継いだとはいえ十三歳。京都侍所の所司代を赤松家から出し、その者が在京。長らく所司代の浦上則宗がこの夏死んだ。洞松は、家督を継いだ祐宗(京兆家重臣安富新兵衛元家の実子)と侍所に行くとともに、この武家御所にも道祖松丸を連れて挨拶に来たのである。(略)
p379
内実を聞いて、洞松は胸を痛めた。将軍を支えるべき管領である政元が、将軍義澄の許しも得ずに領国への下向をくり返していた。(略)
p380
細川家をひたすら支える実の父と再会させて、その忠義心を祐宗にも学んでほしい。それもあって上洛に祐宗を同行させた。が、将軍を支えるべき政元の振る舞いを知らされるにつれて、洞松の言葉から重みが薄れてゆく。
細川の当主は、浦上家よりさらに勝手をして、将軍家を思うがままに操っている。今では政元を「半将軍」と呼ぶ者がいる。
※家督を継いだ祐宗は京都侍所所司代として在京しなくてよいのか?

p381
政元は東国への巡礼に出るとき、関白九条家から猶子を迎えた。その母が、鎌倉府の長たる足利政知の正室であったからだ。猶子となったその子は聡明丸の名を受け継いだ。そして正式な養子として迎えられた。
p382
洞松は頭を下げつつ、厨子の前から身を引いた。三十七の政元が立っていた。
p383
「そなたは、細川をふたつに割るつもりですか」
p384
政元は謀を秘めつつ、猶子を迎えた。清晃を将軍とするための備えのひとつであった。
※自分で政治をするため。民を幸せにするため?
赤松家も、官位ほしさに、同じ関白九条家から養子を迎えた。が、その法師丸は出家している。
p380
赤松政則は望んでいた官位を得るとすぐに死んだ。家督は道祖松丸が継いだ。養子となったばかりの法師丸は、出家の道を選ぶしかなかった。今は相国寺で喝食である。法師丸は十一歳。相国寺の塔頭のひとつ松泉軒の門弟。真龍と名乗っていた。
「このたび、兄聡明丸が晴れて京兆家の一人となれましたこと、この真龍からも深く御礼申し上げます。これもひとえに母上様(洞松、安喜)のご加護があったからです」
(*)喝食(かっしき、かつじき、かしき)。禅宗用語。喝とは「称える」の意。食事時 (朝昼)に修行僧へ食事などを知らせること。またそれにたずさわった少年の別称。

p385
(聡明丸を養子にすることについて)細川家中には、根深い異論。武家の名門たる細川が、公家(九条家)に奪われる。
そう心配する内衆がもう一人養子を。それも京兆家に背を向けつづけてきた阿波細川家から。
いまだ紀伊には根来と手を結ぶ畠山尚順がひそみ、上洛を狙っている。細川が身内で争っているときではない。阿波は、海を挟んで紀伊の隣国。阿波細川家さえ一族として力を合わせてくれたら、畿内の治めに見通しがつく。
しかしその子が当主になれば、京兆家に逆らってきた阿波家の力が細川家中で増す。そうなればこれまで京兆家を支えてきた者が黙っていない。
※京兆家が、公家に乗っ取られるか、阿波家に乗っ取られるか。はてしないな。笑
※要するに内衆に任せた結果、養子が二人になり、細川家がふたつに割れようとしていた。
p386
「内衆に支えられてこそ、当主は采配の腕が振るえるのです。(略)阿波の六郎は、一族の血を受け継ぐ者と言えます。しかし、その血のみで情けをかけて家督(当主)にするわけにはいきません。いずれ二人の働きぶりを見ていけば、父親である私(政元)が多くを語らずとも、家臣は必ずまとまってくれます。この私の時と同じように。今はそう信じるほか、私にできることがあるでしょうか」
かつて家臣に背かれかけた政元ならではの痛々しい覚悟だった。
※こういう解釈もある。
なるほど家臣の意を聞きもせず、当主の一存で継嗣を決めていったことが、方々の家で家督争いを生んだと言える。
※そういう意味では、政元の言うこともわかる。最初の養子は当主政元の考えだが、二人目の養子は家臣が言い出したことである。当主の一存でこれを認めないのは家督争いの元になる。だから二人目の養子を認める。こういう理屈である。
p386
しかし、二人の養子の才にさしたる優劣がなかった場合、まさしく細川はふたつに割れる。
離れかけた阿波細川家を再び内衆に引き入れるための養子縁組でありながら、今よりもっと大きな亀裂を生む危険があるように思えた。
割れるのなら、それも定めか。

p388
永正元年()九月 香西元長
薬師寺元一が兵をひきいて淀城を出た。
政元は無事だった。槙島へ行くことをやめて、安富(新兵衛)元家に守られて京都に戻った。
それを知った嵐山城の香西元長を怒りと後悔が襲った。
「あの阿呆が。何を考えている」
p389
当主政元に弓を引くとは、度を越えていた。
薬師寺元一(与一)は、阿波家の養子である六郎を支えていたからだ。にしても、狂気の沙汰。
この三月に南山城の守護代をやめさせられた赤沢朝経(あかざわともつね)までが加わっているという。
※赤沢のWikipediaは役に立つ可能性大。

p389後半~p390前半 薬師寺謀反の理由。後日。

p391
嵐山城から香西元長は末の弟の彦六元能(ひころくもとよし)とともに馬で摂津に走った。桂川沿いに進めば、薬師寺元一の淀城に着く。
薬師寺は下鳥羽までいったん引いた。兵の数、一千五百。

p392
謀反した薬師寺元一の弟、薬師寺(与次)長忠。
「兄と赤沢朝経は ※後日」
(略)
澄之と澄元、ともにまだ十六歳。元服を終えたばかりの若者。その働きぶりを見てから家督を決める。政元はそう語っていた。ここで兵を挙げてまで、澄元を家督に据える意味がどこにある。
何を早まっている。正直に言えば、元長も、公家の出の惣領でよいのか、との思いはあった。ここにひざまずく長忠も、同じ気持ちを兄元一に言っていたと聞く。が、力尽くで主君に隠退を迫るのは、あまりに筋の通らぬ話だった。
p397
形勢は決まった。あとは薬師寺元一の本城である淀に籠もるしかない。これ以上、同党で血を流しあっても得るものはない。

古い淀城の本丸だった妙教寺

p398
細川は八カ国を領する権門で、赤松家とも結んでいる。兵の数は畿内随一。二人の養子のため二つに割れかけている。そこに畠山尚順と根来衆が攻め寄せる。半将軍と言われた政元も、安泰ではいられなくなる。
p399
薬師寺元一と畠山尚順を結びつけられるのは、将軍義澄(清晃義遐義高。政知の子)しかない。将軍が細川を二つに割ろうとしている。

p400
薬師寺元一と並ぶ大将のひとり赤沢朝経が逃げた。

p401
薬師寺元一は弟長忠によって捕らわれた。

p402
元一はかつて政元の信頼篤い男。それが守護代職まで奪おうとした。この先、出世することはない。ならば、家督を澄元に替えて、その信を得るに限る。

p403
「さもしき男になったのう。おまえの勝手で何百人もの男が死んだ。阿呆の下についた家部下ほど虚しいものはない。
おぬしならば、堂々とわしと向き合えたはずだ。兵を挙げるとは、わが細川をふたつに割るのが狙いだな。
おぬしに唆された赤沢朝経は許す。あの男は戦うことでしか己を保てないからな。おぬしほどの知恵者でもない」

p404
薬師寺元一は、腹を斬って果てた。
(略)
典厩家を継いだ細川将賢が香西元長に囁く。
「将軍義澄公に薬師寺元一の守護代職を守ってもらえるように密かに頼んだ者がいることを知っているか」
「阿波の者、と言われるのですな」
「三好之長が将軍に頼んだらしい」
三好之長は阿波の重臣。かつては細川成之の近習として京屋敷にもいた。そのときには、自ら酒屋に借金をつくり、徳政一揆をあおって騒動にも参加した。強者(つわもの)で、奸知に長けた男。
「では、阿波者が薬師寺元一を唆した、と」
p405
阿波の隣国といえる紀伊には畠山尚順という紛れもない敵がひそみ、京を攻める機会をうかがっていた。細川澄元が家督と決まれば、阿波細川家は京兆家(細川本家)と並ぶ家柄になる。もうひとりの養子澄之は公家の出。薬師寺元一が兵を起こせば、公家に本家である京兆家を奪われてはならないと思う者がや、阿波細川家も必ず動く。
将軍の名を騙って、そのようなことを言い、薬師寺元一を唆した男がいた。典厩家の細川政賢はそう疑っているのだ。
いやしかし、と香西元長は思う。
この政賢は、もうひとりの養子、公家の九条家から養子に入った澄之を守る立場の者だ。彼ら典厩家からすれば、阿波細川家が薬師寺元一の謀反に味方しているという噂を流した方が、澄之の家督継承に都合がよい。
もはや誰を信じていいのか?
###
細川本家(京兆家)の家督争い
公家養子の澄之 典厩家
阿波養子の澄元 阿波細川家 三好之長

置物将軍義澄(清晃義遐義高)

紀伊の畠山尚順
リストラ将軍義材(義尹義稙)
###
政元は自ら家督を決めようとはしない。働きぶりを見れば当主にふさわしい者が自ずと決まる、と公言している。
身内に謀反という大事件が起きても、一族への執着が感じられない。細川がふたつに割れるならそれも定め、と覚悟するかのようだった。
細川のために働いてはいる。が、担がれた務めを果たしているにすぎず、京兆家の当主という舞を、ただ舞台の上で演じているつもりか。

p407 急 天神

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