20170628 将軍の星

p47
妄執の人
斎藤妙椿、美濃守護代
織田敏定(*)、尾張下四郡守護代、大和守、隻眼
足利義材
(*)信長の曽祖父との説あり。
織田良信または織田敏定→織田信定→織田信秀→織田信長
■応仁元年(1467年)
織田敏定応仁の乱が起きると、先代の尾張守護・斯波義敏と共に東軍に属した。
そのことにより、斯波義廉を擁立して西軍に属した岩倉城を拠点とする織田氏の総領「織田伊勢守家」出身の守護代である織田敏広と対立した。
■文明8年(1476年)
11月、主君・斯波義敏の命で、尾張中島郡にある尾張守護所の下津城を攻め、織田敏広とその岳父である美濃国の斎藤妙椿ら岩倉方と戦い、勝利を収めた。この際に下津城は炎上したため、織田敏広は山田郡の国府宮(稲沢市)に敗走したという。しかし、その後の尾張は西軍優勢となったようで、敏定の動向は定かではないが、尾張を離れて京都に滞在していたとされる。
■文明九年(一四七七)
※この年、義材父子美濃落ちか?
■文明10年(1478年)
9月9日、応仁の乱が東軍の勝利に終わると、敏定は室町幕府から尾張守護代に任じられ、「凶徒退治」(凶徒とは西軍に属す斯波義廉と織田敏広を指す)を下命されて京都から尾張に下国した。これによって敵方であった美濃守護の土岐成頼・斎藤妙椿らの援助を受け、新たに守護所が置かれた清洲城に無事入城した。
10月12日、再び勢力を盛り返した織田敏広と戦い勝利するが、
12月4日、織田敏広は清洲城を攻撃し、斎藤妙椿が敏広救援に乗り出してきたため形勢は逆転した。この時、敏定は美濃牽制のため、信濃国の小笠原家長に援助を求めたという。この戦いで清洲城は一時的に炎上し、敏定は山田郡の山田庄に敗走している。また實成寺所蔵(現在名古屋市博物館に寄託)の敏定の寿像上部に記された横川景三の賛文によるよると、この戦いで右目に矢を受けたといい、実際に寿像下部の肖像画には隻眼で描かれている。
※『妄執の人(宮本輝)』では義材が射手。義材は1466年生まれなので1478年は数え13歳。話は合う。
■文明11年(1479年)
1月19日には、不利な状況のため、斎藤妙椿の仲介で両軍は尾張を分割統治することで和睦した。
大和守家は尾張の南東部(中島郡と海東郡山田郡の一部)を安堵されて伊勢守家と尾張を共同統治することになった。
後に大和守家は愛知郡、知多郡、海東郡、海西郡の下四郡を支配する守護代となっている。その後、斯波義敏の嫡男で尾張守護・斯波義寛と共に在京していたという。
■文明12年(1480年)
元侍所所司代の多賀高忠から弓道書の『犬追物記』を借り、筆写したことが実成寺に伝わっている。
■文明13年(1481年)
3月に伊勢守家と再び争うが、勝利している。その後に織田敏広は死去している。
7月、敏広の後を継いだ養子(甥)の織田寛広、敏広の弟・広近らが斯波義寛に帰順した。
8月、さらに織田寛広、織田広近らと共に敏定も上洛し、8代将軍・足利義政に尾張平穏の報告も兼ねて礼物の献上をしたという。
■長享元年(1487年)
9代将軍・足利義尚による六角高頼征伐(長享の乱)に参陣した斯波義寛に伊勢守家と共に従軍している。同年、主君・義寛の名代として敏定は越前国の主権を幕府に願い出ているが、要求は退けられた。
■延徳3年(1491年)
10代将軍・足利義稙による六角高頼征伐でも義寛に従軍し、軍功があったという(延徳の乱)。
その後も伊勢守家と対立を続けるが、翌年の(?)
■明応4年(1495年)
7月、布陣中に死去したという。享年は44とされる。『船田戦記』によると病死とあり、『武功夜話』では戦死したとも。戒名は「蓮光院殿常英大居士」。(Wikipedia)

p56
■文明十二年(一四八〇年)
足利義視、義材父子の事実上の保護者だった斎藤妙椿は、斎藤家の内訌なども影響して、結局織田を討つことができず、
※後日。『戦国編・参』は一五〇〇~五〇。省略も可。

p61
■長享3年3月26日(1489年)
足利義煕(義尚)没。六角氏征伐のため近江国の鈎へ出陣中。義煕に男子なし。
「美濃へ落ちてより足掛け十三年、耐え忍んだ甲斐があった」
と義視は五十一歳のしなびた肉体に久々に精気を蘇らせ、二十四歳の義材を伴い、京へ。
p26
父子は近江大津で足止め。細川政元が反対。
応仁の乱で東軍総大将だった勝元の子である政元は、義視が当初、東軍に擁立されながら、最後には山名宗全の西軍へ走ったことを、いまだに恨んでいた。義視の寝返りは、義政の心が義尚を将軍にすることへ完全に傾いたのを察した勝元によって厄介払いされた。これが真相だが、(略)
p63
十余年ぶりに都の土を踏んだ父子は、義尚の供養から半年後、重病の義政を東山第(てい)に訪ねた。(略)宿所の三条通の通玄寺へ戻る(略)義政から義材を次期将軍にという話があったのは明らか(略)
■延徳2年1月7日(1490年)
二カ月余り後のこの日、足利義政没。
p69
五月、出家した富子は小川第を、天竜寺香厳院清晃に与えた。(略)義視暴走。小川第破却。
p71
■延徳三年(一四九一)
正月、義視没。
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Wikipedia細川政元
義視が死去した後は政長が幕府の権力を独占するようになる。
延徳3年2月13日に九条政基の末子(聡明丸と名乗る、のちの細川澄之)を猶子に迎えた。澄之を養子に迎えた意図として、妻帯していない(するつもりのない)政元には実子はもちろん弟もいないため後継者を得ておく必要性と、澄之は清晃の母方の従兄弟に当たるため足利政知との連携を深める狙いがあったとされる。
3月、政元は東国旅行へ出かけ、越後国を訪問、守護・上杉房定と会見した。奥州へ向かう予定だったが、将軍義材から六角高頼討伐の出陣命令が届いたため断念、
4月に帰京した。この旅の背景は堀越公方足利政知と連携する意向で房定を取り込む意図があり、政知との会見も計画していたが、政知が亡くなったため帰京した。政元はこの時の出兵には反対であり、義材を諌めようとしたものの無視されている。この時から政変を計画していたとされる。
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Wikipedia足利義材
8月、義尚の遺志を継ぎ、政元の反対を押し切って六角高頼征伐を再開、みずから近江国に出陣して高頼の追放に成功している。
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p72
八月、義材、大軍で六角高頼征伐。政元同行。(略)親征成功。
p73
一年数カ月ぶりに義材凱旋。
義材、畠山政長・尚順(ひさよし、ひさのぶ)父子、斯波義寛、赤松政則らを従え、河内へ畠山基家征伐のため出陣。
近江陣から二カ月後のこと。
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Wikipedia足利義材
■明応2年(1493年)
2月には、応仁の乱終結後も分裂状態が続いていた畠山氏で、畠山政長の対抗者・畠山義就が死去したのに乗じて、義就の後継者・義豊(基家)を討伐するため、またもや政元の反対を押し切って畠山政長らを率いて河内国に赴いた。
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p74
政元謀反
義遐
畠山政長自刃
義材は、上原元秀の監視の下、細川勝元創建の龍安寺に幽閉。逃亡。
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Wikipedia細川政元
4月、京都に残留していた政元は日野富子や前政所執事・伊勢貞宗と組んで周到な根回しのもとクーデターを決行、以前将軍候補に推げた清晃を第11代将軍として擁立する(明応の政変)。
興福寺の尋尊は義材は政元に政務を任せると約束しながら、その反対を無視して近江出兵と河内出兵と2度も大規模な軍事作戦を行ったこと、そして義材が自分の政策に反対する政元を討とうとしたことが原因であると記している。
この政変により、当初は畠山政長方であった赤松政則も政元に寝返り、孤立無援となった政長は自害し、大きな力を持っていた三管領畠山家の勢力は削ぎ落とされ、捕らえられた義材は京都龍安寺に幽閉されたうえ、将軍職を解任された。
■明応3年(1494年)、清晃は還俗して足利義高(後に義澄に改名)と名乗り将軍に就任、政元は管領に就任して将軍を事実上の傀儡にして幕政を掌握し、京兆専制を確立するに至った。
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p79
■明応5年5月20日(1496年)
三年後の夏、富子没。五十七歳。
p80
義材は、越中の守護代神保長誠(ながのぶ)のもとに。長誠は、河内正覚寺の露と消えた畠山政長の武将。
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Wikipedia足利義材
■明応7年(1498年)9月に政元側との和睦交渉が進展したという認識から、義尹と改名した義材は越前国の朝倉貞景のもとへ移った。ところが政元との和睦は不調となり、朝倉貞景や畠山政長の子・尚順と同調して軍事攻撃による上洛へ方針転換した。
■明応8年(1499年)
延暦寺・根来寺・高野山の僧兵も義尹に呼応して一時は近江国まで迫った。
※次項の7月11日と混ぜろ。
しかし、坂本で六角高頼に敗れ、河内国に逃れたがここでも政元に敗れて、かつて大内家が応仁の乱で父・義視を奉じて西軍に属した縁を頼って周防国に逃れ、大内義興のもとに身を寄せた。畠山尚順も河内国を失って紀伊国に逃れた。
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Wikipedia細川政元
■明応8年(1499年)
政変後、越中国へ亡命し、亡命政権(越中公方)を樹立していた足利義稙(義材義尹)は、北陸の兵を率いて近江にまで侵攻し、比叡山延暦寺を味方に付ける。こうした延暦寺の行動を素早く察知した政元は早速行動に移った。
7月11日、 赤沢朝経と波々伯部宗量に命じて 早朝に延暦寺を攻撃、大規模な焼き討ちを行わせたのである。この攻撃で根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などの山上の主要伽藍は全焼した。
9月、勢いに乗った朝経は続いて河内で挙兵した政長の子・畠山尚順を撃ち破り、尚順が大和国に逃げ込んだ
12月にはそのままの勢いで大和国に攻め込んだ。そして筒井順賢・十市遠治ら尚順に与した国人衆を追討し、喜光寺・法華寺・西大寺・額安寺などを焼き討ちして大和北部を占領した。この朝経の一連の働きによって細川の版図は大幅に拡大することになった。また政元は周辺国の国人の細川被官化も推し進め、実質的な細川領国化による支配勢力強化を図った。
一方で政元は修験道・山伏信仰に凝って、女性を近づけず生涯独身を通し、普段から当時の武家の慣わしであった烏帽子を嫌って被らなかったり、空を飛び天狗の術を得ようと怪しげな修行に熱中したり、突然諸国放浪の旅に出てしまうなどの奇行があり、『足利季世記』では「京管領細川右京大夫政元ハ 四十歳ノ比マデ女人禁制ニテ 魔法 飯綱ノ法 アタコ(愛宕)ノ法ヲ行ヒ サナカラ出家ノ如ク山伏ノ如シ 或時ハ経ヲヨミ陀羅尼ヲヘンシケレハ 見ル人身ノ毛モヨタチケル」とある(ただ政元は修験道を単に趣味としてだけでなく、山伏たちを諜報員のように使い各地の情報や動向を探るなどの手段ともしていた)。
また、朝廷や幕府の儀式についても、実際の威信が伴わなければどんな立派な儀式でも意味がないと考えていたとみられ、後柏原天皇の即位式の開催を無益であるとして開催を認めなかった。政元は政務を家臣任せにしたり、出奔により幕政を混乱させることもあり、将軍義澄が自ら説得に出向くこともあった。
やがて実際の政務は、「内衆」と呼ばれた京兆家の重臣達(守護代など)による合議に重きが置かれるようになった
■文亀元年(1501年)
政元は内衆合議の規定と内衆を統制する式条を制定する。
何かと政元と将軍義澄は政治面で対立することも多々あったが、そんななか
■文亀2年(1502年)
8月4日、突如として義澄が金龍寺に引き籠るという事件が発生した。そして、義澄を説得しに行ったところ、御所に戻る交換条件として出された五つの条件のうちに前将軍義材の弟である実相院義忠を処刑せよ、というものがあり、
翌5日に政元は義澄を見舞いに来た義忠をとらえて殺害した。これにより、義澄は政元によって自身が将軍を解任されて追放され、代わりに義忠が新たな将軍になるという可能性がなくなった為に大いに安堵する一方、政元は義忠の殺害によって次期将軍候補を失い、かつ前将軍義材派からは完全に敵視される状況となった。義澄を廃して新たな将軍を立てることも義材派と和解することも出来なくなった政元は、その政治的選択肢を大幅に狭めることとなった。政元の気分屋的な傾向、そして実子が無かったことは京兆家の家督相続問題を直撃した。
同年9月、摂関家の九条家から家督相続を条件に養子として迎えていた聡明丸(のちの澄之)を正式に嫡子と定め丹波守護職を与えるも、
■文亀3年(1503年)
5月、細川一門の阿波守護家(讃州家)から六郎(改め澄元)を養子として迎えて家督相続を約束したため、政元は聡明丸を廃嫡する(これより間もなく聡明丸も元服して澄之と名乗る)。結果、澄之・澄元両派の対立が先鋭化するに至る。また、野州家からも高国を養子として迎えていたが、後にこれがさらなる混乱へとつながることになる。なお高国については養子となった時期が不明であり、実は養子でなく政元死後に澄元との対立のなか自分も養子になったと言い出したという説もある。
■永正元年(1504年)
9月、内衆の摂津守護代・薬師寺元一が謀反を起こすが、これを鎮圧。
■永正3年(1506年)
7月に河内の畠山義英(義豊(基家)の子)と畠山尚順を討伐し、赤沢朝経を大和国へ再び派遣、侵攻させる。
■永正4年(1507年)
紀伊国、さらに若狭の武田元信を助けるために丹後の一色義有の城に養子細川澄之・細川澄元を侵攻させるなど、細川氏の勢力の拡大を図った。こうして、政元は細川京兆家の全盛期を築き上げる。
ところが、政元はこのような戦乱を嫌悪したのか、修験者として奥州で廻国修行をしたいと言い出す。この際には家臣の三好之長らの諫言によって断念する。
■永正4年(1507年)
武田元信救援のために一色義有を攻めている最中、帰京を命じる勅旨がありそれを受けて5月29日に帰京する。
6月23日、澄之派の内衆の香西元長、薬師寺長忠、警護役の竹田孫七によって、湯殿で行水をしていたところを襲われ暗殺された(永正の錯乱)。享年42。
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p84
■永正五年(一五〇八)
七月一日、義尹(よしただ。義材から改名)は、従三位権大納言、征夷大将軍に任命された。このとき四三歳。上原邸を脱出したあの夜から十五年たっている。
この前例のない十代将軍の再任は、父子二代にわたる妄執がもぎとったもの。
将軍義尹は、細川高国を管領に、大内義興を管領代に任命して、前将軍足利義澄(義遐義高)、細川澄元(阿波細川家)、三好之長(阿波国衆)の討伐を命じた。
p84
■永正六年(一五〇九)
十月末の夜更け、前将軍義澄が現将軍義尹暗殺の刺客を放った。
(略)
身に九カ所の刀創は負いながら、刺客四人を斬り仆した義尹の剛勇は、さすがは武門の棟梁よと世人の称賛を浴びる。この時点で義尹と義澄の争いは、結着したといってよい。
■永正八年(一五一一)
船岡山合戦に大勝した義尹は、細川澄元と三好之長を阿波へ逐った。その直前、義澄は近江岡山(*)で失意のうちに死んだ。
(*)南北朝時代、近江南部をおさめる佐々木氏が琵琶湖の水上警備のために築城した。頭山、岡山(大山)と呼ばれる山に連なるように遺構が確認されているが築城当時の規模ははっきりとしない。本格的な築城は1508年(永正5年)、室町幕府十一代征夷大将軍足利義澄が城主九里信隆(六角氏被官)を頼って都落ちをし水茎岡山城に入った頃に行われた。
1510年(永正7年)、幕府軍3000に城を包囲されるも信隆はこれを退けている。1511年(永正8年)には当城で後の十二代将軍足利義晴が誕生した。また同年、足利義澄は帰洛を果たせぬまま当城で病没した。(Wikipedia)

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