20170625 室町幕府解体過程の研究 今谷明

p262
守護大名細川氏の領国の内、室町期を通じて重要な地域であった摂津は、南北朝中頃から一国が郡を単位として数個に分割され、いわゆる分郡守護が置かれた典型的な国。貞治二年(一三六三)には川辺郡北部が本郡から分けられて京極氏に。同五年には西成郡が畠山義深に。応安四年(一三七一)までに有馬郡が赤松則祐に分け与えられている。また永和四年(一三七八)末、山名氏清の和泉入国にともなって住吉郡が和泉国に編入されたと推測される。右分郡は南北朝内乱の推移と共に軍事的重要拠点となった場所で、戦略上からも幕府は摂津に複数の守護を置かざるを得なかったようだ。このうち江口・神崎両関や中島・天王寺等を含み戦略上最も重要な西成郡は、一時本郡に合併されたが、康暦の政変(*)後、播磨守守護赤松義則に与えられ、久しく京極氏が知行していた北川辺郡も赤松義則が有馬郡と共に兼帯する所となった。

(*)康暦の政変(こうりゃくのせいへん)は、南北朝時代の天授5年/康暦元年(1379年)に室町幕府管領・細川頼之が失脚した政変である。

明徳の乱(山名)

応永の乱(大内)

嘉吉の変(赤松)…細川は摂津欠郡全体を編入

p264
有馬郡のみは赤松庶流家の分郡として戦国末にいたり、細川氏はついに編入できなかった。
室町幕府は当初から郡を基礎単位として守護職の宛行(あてがい)をおこない、分郡設置を守護統制の有力手段とした。ゆえに室町中後期を通じて守護領国制を進めようとする有力大名と、それを止めようとする幕府の間で分郡を奪い合う激しい抗争がよく起こった。細川氏のような管領家大名すら、その解消には五十年以上かかった。しかし分郡抗争は細川氏にとってそれで終わったわけではない。応仁の乱後は逆に隣国山城に自派の分郡を設置することに成功、山城支配に乗り出す。
郡単位の守護設置は、織田政権にも引き継がれ、幕藩制下の「国割りの制」で終わるまで尾を引いた。

p266
二 京兆家専制化の過程
〔一〕内衆の台頭
細川氏が専制的権力を確立
■明応二年(一四九三)の政変
細川政元が将軍を決めた。
八代義政までは、三管四職など有力守護による重臣会議で将軍決定。
政変以後、細川京兆家の家督が将軍決定。戦国末にいたる。
畠山氏の凋落。政元が後見になって畠山基家を河内守護にした。同年七月、河内に基家が入ったあとも子の義英は人質として在京を強制。
従来の重臣会議に代わって、細川内衆の寄り合いで幕府の政治運営。
p267
■文亀元年(一五〇一)
この年から二年にかけて、政元が五カ条の式条を定め、家督を養子澄之(公家の九条家)に譲ってから、細川内衆による幕政運営はいっそう顕著となる。税務は次の三者の談合に。
一、安富元家
二、薬師寺元一
三、斎藤元右
やがて内衆間の派閥抗争に。澄之派と澄元派(阿波細川家)の闘争、政元政権の崩壊に。

p268
じゅんこう【遵行】とは。意味や解説、類語。[名]( スル)命令・きまりなどに従って行うこと。

p359
二 天文期の京都支配──晴元政権論
〔一〕晴元政権の成立過程
イ 京都における政権推移の概略
■明応二年(一四九三)
細川政元が将軍義材をやめさせ、長年の政敵であった畠山政長を敗死させた。また八年間つづいた山城国一揆が鎮圧。
幕府内では、将軍の権威が終わり、代わって細川京兆家の権限が強くなった。この年を戦国時代の幕開けとする見解が多い。

(一)政元時代 明応二年(一四九三)~永正四年(一五〇七)
政元が暗殺されるまで。
(二)細川・大内連合時代 永正五年(一五〇八)~永正十五年(一五一八)
細川高国と大内義興の武力により京都の治安が守られていた。
(三)高国時代 ~大永七年(一五二七)
桂川の戦いまで。細川高国がほぼ実権。
(四)空位時代 ~天文五年(一五三六)
大永七年二月に将軍と細川高国が近江へ逃亡してから、天文五年に細川晴元が幕府に出仕するまで。晴元政権の初期段階。
(五)晴元時代 ~天文十八年(一五四九)
三好政長が江口の戦で敗死するまで。
※堺公方(足利義維)との関連を要調査。
※『戦国編・参』の射程範囲はこの時代まで。
(六)三好・松永時代 ~永禄十一年(一五六八)
永禄十一年の信長入京まで。
天文十八年以降京兆家家督は一応細川氏綱であるが実権は全くなく、実質上、三好長慶の統治。

(一)~(六)を仮に「細川・三好体制」と呼ぶ。

p360
※筆者は、(四)空位時代~(五)晴元時代を「晴元時代」ととらえ、この時期に焦点をすえ、対象を上部構造に限り、地域も京都中心の畿内。
p361
ロ 京都代官茨木長隆
■大永七年(一五二七)
二月十三日、三好勝長・政長兄弟を主力とする細川晴元方の軍勢は桂川を越え、川勝寺において細川高国方の武田元光の軍を破った。
二月十四日、多数の死者を出した高国方は十二代将軍義晴を伴って近江に逃亡。
※朽木谷?
これ以後、高国はついに京都において細川氏家督(京兆家)としての権力を回復できなかった。
しかし勝利した細川晴元方も、擁する足利義維・細川聡明丸(のちの晴元)はともに若年(聡明丸は十三歳)であった。将軍ならびに管領就任はおろか入京することもできず、和泉堺に留まった。この時の京都は、そこそこの軍事力はあるが幕府官制上の権限をほとんど持たない柳本賢治らの代官が横行するのみだった。全くの無政府状態。これより天文五年(一五三六)に晴元が入京するまでの約一〇年間は「空位時代」である。
p362
茨木長隆は細川晴元の内衆である。
この茨木伊賀守長隆は、幼年の細川晴元を補佐し、細川氏家督(京兆家)の代官として、京畿支配の実権を持ち、晴元の没落寸前まで二十数年間におよび活躍する。
p363
この空位時代に山科本願寺焼き打ちや天文法華一揆など宗教戦争が多発。よって従来この時期の畿内支配を次の二者とする傾向。(筆者は疑問)
一、京都町衆 ※商人自治
二、大阪一向一揆 ※宗教自治
筆者の結論は次の通り。
一、享禄四年()の大物崩れまでは晴元と高国の対決時期。
二、天文元年(一五三二)より五年までは晴元政権が巧妙な策略を用いながら、次の三勢力を弾圧しつつ、入京の準備をしていた時期。
一、三好元長
二、一向一揆
三、法華一揆
そこで堺に本拠を置く晴元政権が旧勢力の高国方残党を駆逐しつつ畿内支配を行うには「京都代官」が想定される。将軍・京兆家が不在の京都を外部勢力が支配するという状況は空前のこと。ここで初めて近世の京都所司代へとつながる代官支配の原型ができた。そして京都代官は茨木長隆だった。
p363
■大永七年(一五二七)
二月五日、柳本賢治が山崎城を陥れて城将薬師寺国長を摂津高槻城に走らせた。
二月五日(~十三日)、茨木長隆が細川晴元の被官となった時期と考えられる。
『細川両家記』によれば、山崎陥落後すぐに茨木城を初めとする摂津上郡の諸城が晴元方に降伏。更に摂津上下国衆の堺帰参の記事がある。従って茨木氏が伊丹氏ら他の国衆と同様に晴元にしたがったことは確実。
p365
晴元方諸勢中最強の軍隊を率いていたのは阿波の三好元長。
(略)
茨木長隆の地位は山城郡代を統括する三好元長よりも一段上にあったことが知られる。
p367
応仁の乱後管領は常置の職ではなくなり、将軍就任時の臨時職と化した。その職に就くのは必ず細川氏家督で、管領の地位を継承している。天文十四年(一五四五)十一月十九日の時点で「右京兆」といえば「管領の資格ある細川家」を指し、「管領代」としても間違いではない。
『言継卿記』に「細川奉行茨木伊賀守」とあるのは長隆が管領代であると考えられる。
従来この時期の京都における実力者の一人とされる河内守護代木沢長政と茨木長隆の関係は?(略)
p368
■天文三年(一五三四)の書類より、少なくとも山城においては木沢長政は管領代茨木長隆に頤使(*)される細川晴元の被官とわかる。
(*)頤使。いし。人をあごで使うこと。 「 -に甘んずる」
要するに茨木長隆の地位は守護代をも超えた、文字通り晴元政権下最大の実力者。彼が京都で大永末年より寺社に対する仕置きを行っている。当然、町衆に対しても検断権を行使していただろう。従来のごとき町衆の自治に対しては再評価が必要。治外法権地帯ではなかった。
p370
■天文九年(一五四〇)茨木長隆は摂津国衆に命令する立場にあった。(*)
(*)池田久宗に対し被官押領の停止を命じている。
この武将(茨木長隆)を享禄天文期の畿内に登場させると、次のような一見脈絡のない事件が初めて系統的に理解できる。
一、堺顕本寺における三好元長の敗死(天文元年)
二、山科本願寺焼き打ち(天文元年)
三、天文法華一揆(天文五年)など
即ちこれらの戦いで最大の利益を得たのは山城近郊に給地を有する晴元被官=摂津国衆。晴元政権は茨木長隆によって摂津国衆の利害が貫徹していた。
p371
つまり若年の細川晴元の背後で西岡衆(?)を被官化し、法華宗徒や木沢長政の軍を操ったのは茨木長隆であったと推測される。

p398
大永六年(一五二六)※一四年遡行
十二月を最後として高国の奉行人(*)の命令書(奉書)は消えた。つまり高国政権も消えた。
(*)奉行人=管領代。飯尾秀兼、斎藤貞船、飯尾元兼。
享禄二年(一五二九)※一〇年遡行
柳本賢治は単なる晴元の又代官。柳本は高国政権打倒の導火線だったが重んじられなかった。享禄二年(一五二九)春には洛中米屋中に対する粮米徴収につき晴元奉行人飯尾元運下知の遵行を行っている。
p399
桂川合戦の三カ月後、和泉堺にあって三好元長に擁立される足利義維は朝廷に従五位下左馬頭叙任を要求。
翌月、申請通り、元服叙爵が許可された。
(略)
筆者は、足利義維が単なる三好元長らの擁する虚器ではなく一歩進んで当時和泉堺に幕府が存在していたと結論する。

p408
大永七年()から享禄五年()まで、形式的にも実質的にも室町幕府は中絶し、堺において足利義維の幕府が成立した。

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