戦国大名と天皇 第二章 官位

p50
官・位と職

職は幕府(首長である室町殿)が与える。
官・位は朝廷(天皇)が与える。
p51

■天文二一年(一五五二)
尼子晴久
職…四月。幕府から出雲、隠岐、備前、伯耆、因幡、美作、備中、備後の守護職に任命された。
官位…十二月。朝廷から官として修理大夫(しゅりだいぶ)、位として従五位下を与えられた。
p56
戦国大名のすべてが幕府から守護という職を与えられたわけではないが、代表的な大大名は、ほとんど例外なく守護または守護代という職を与えられている。そして中央の政所執事、侍所開闔(かいこう)、奉行人などの武家の職(役職)の任免はすべて幕府で処理され、天皇や公家が関与することはいっさいなかった。
ところが武家の官位の任免手続きはかなり複雑だった。

p60
官途奉行・摂津氏
p61
関東の岩城なる者が、中務大輔の官途を所望しているとの申請が幕府からあった。

p118
■享禄元年(一五二八)
七月、大内義興(義隆の父)は、少弐資元と大友義鑑(豊後守護)が同盟して大宰府を回復使用としたので、幕府に討伐を願い出たが許されず、同年末病死。
■享禄三年(一五三〇)
四月、大内義隆と少弐資元が戦争。資元、大勝。
義隆は、十二代将軍義晴に少弐追討を頼んだが、幕府は少弐資元を肥前守護に補任していたし、義晴は細川晴元と対立していて近江に亡命中で入京できなかった。(略)
この頃から義隆は天皇の権威を背負うことを考えていたようだ。
■天文元年(一五三二)
九月、少弐資元と大友義鑑は筑前西郷(現、福岡県宗像町)に侵入。
十月、義隆は、大動員令を発した。
陶興房(晴賢の父)
p120
十一月五日、義隆は周防介を許された。周防国衙領にも軍夫を動員するため。
■天文二年(一五三三)
二月、義興、攻勢に。
三月十九日(略)
四月三日(略)

天皇と将軍の代理戦争

p120
四月二十七日、(略)
七月一日、(略)
八月十日、大内義隆、筑前守を許される。
はっきりしていることは、十二代将軍義晴は近江桑実寺(くわのみでら)にいて、筑前守の官途はまったくの直奏(じきそう)。天皇の意志のみで決定。
義隆にすれば、幕府から補任された「筑前守護」職がほとんど権威を失っていて、それに比べれば天皇の任命する「筑前守」の方が対少弐、対大友の軍事作戦上、効果が期待できる。言い換えれば、律令的な国司制度の復活で、幕府の守護補任の代替機能。
※天皇が力を持ちはじめた。
p122
■天文三年(一五三三)
年末、大友義鑑は、対抗策として、近江逃亡中の将軍義晴に手を回し、義鎮(義鑑の子。のちの宗麟)を豊前守護に補任させる。
つまり、大内氏と大友氏の戦いは、天皇と幕府の権威はいずれが上回るか、天皇と将軍の代理戦争になってきた。

p126 織田・今川・徳川 三河守
尾張守護代織田達勝(みちかつ)の三奉行の一人にすぎなかった織田信秀(信長の父)が台頭。公家山科言継が旅行で信秀の勝幡(しょうばた)城(現、愛知県佐織町)に立ち寄った時の記録。
■天文二年()一五三三
七月、前年織田信秀が主君の達勝と戦って和睦した。
p127
■天文三年()一五三四
那古屋城(現、名古屋市中区)を今川氏から奪った。今川氏と角逐する最初の戦争。
■天文五年()一五三六
兄氏輝の早世により還俗して家督を継いだ今川義元。
■天文六年()一五三七
義元は、甲斐の武田信虎と結んだため、後北条氏(小田原?)との関係悪化。北条氏綱は駿河駿東・富士二軍に侵入。以後、義元は今川軍の主力を東の小田原に向けざるをえず、手薄になった三河に、自立間もない信秀の勢力浸透(p128図7)。三河はもともと一色氏の守護領国。永享十二年(一四四〇)一色義貫が六代将軍義教に暗殺されて以降、阿波守護細川持常(もちつね。庶家)の兼帯。応仁の乱後、細川氏は支配権を手放した。東海地方では守護が最も早く形骸化した。台頭した国人松平氏の力も弱く、大名化にはほど遠かった。信秀が尾張で自立化した頃は、三河松平氏は今川義元の保護下(間接支配)に。天文六年(一五三七)六月、元服前の松平広忠(家康の父)は、ようやく駿府での人質生活から解放され、岡崎城に入った。

■天文六年()一五四〇
六月、織田信秀は尾張から三河安祥(あんしょう)城(現、愛知県安城市)を攻めた。城主松平長家は戦死、織田氏は待望の三河拠点を手に入れる。
p128
■天文十年()一五四一
九月、信秀は三河守に任命された。伊勢の外宮の社司の記録である『外宮引付』によれば、この頃信秀は外宮仮殿造替費に七百貫文を寄進していた。これが朝廷に評価された。幕府に守護職を求めず、いきなり三河守を受領したことは信秀の優れたところ。新参の成り上がりとして、伝統と実績のある今川義元に対抗するために天皇の権威を利用するとはなかなかよい手である。

八月、義元は、三河から織田の勢力を追い払うため、自身は田原(現、愛知県田原町)まで親征し、今川軍の先鋒は岡崎城外にせまった。しかし信秀はこれを小豆坂(現、岡崎市)で迎撃して破り、今川義元の策は失敗。ただ岡崎城主の松平広忠は、信秀の三河守任官にもかかわらず、義元に忠誠を誓っていた。
天文十二年()一五四三
九月、もっとも尾張寄りの苅谷城主水野信元が義元に背き、信秀に内通した。広忠は妻の水野氏(家康の母)を離別して水野氏と断絶した。
天文十四年()一五四五
九月、広忠は矢作川を越えて信秀方の安祥城を攻めたが、信秀自らが救援に駆けつけ、失敗に終わった。矢作川以北の西三河はほとんど織田信秀の支配。勢力圏は東三河にもおよんだ。信秀の三河守任官作戦は成功。朝廷に修理料四千貫を献じた。
p130
天文十四年()一五四五
今川義元は、関東の上杉憲政(のりまさ)と組んで北条氏康を挟撃、成功。この年、富士川を越境して北条軍を攻撃、駿東・富士二郡を回復。北条領を伊豆国境まで押しもどした。

天文十五年()一五四六
十月、今川義元は松平広忠と組んで、戸田康光の守る三河吉田城(現、豊橋市)を陥れた。
天文十六年()一五四七
九月、家臣天野景貫を派遣して松平広忠を助けさせ、戸田康光の籠もる田原城を攻め落とした。
同年十月、吉田・田原の二つの城を失った織田信秀は、広忠の同族松平忠倫(ただとも)を手なずけ、岡崎城を攻略させようとしたので、松平広忠は先手を打って忠倫を殺した。
こうなったら織田が大軍で攻めてきそうなので、広忠は駿府の今川義元に援軍を求めた。このとき、五歳に満たぬ幼児の竹千代丸(のちの家康)を人質として義元に差し出す。竹千代は、駿府へ護送中に、義元への復讐を誓う戸田康光に襲われ、竹千代は尾張那古屋城の織田信秀の下に送られた。

※太原 雪斎/太原 崇孚(たいげん せっさい/たいげん そうふ(すうふ))は、『安土編』

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