20170622 戦国大名と天皇 今谷明 第一章 治罰綸旨

戦国大名と天皇
室町幕府の解体と王権(天皇)の逆襲

p17
最後の綸旨発給例(六十年止まる。義満~義持)
永和四年(一三七八)
和泉・紀伊で南朝の橋本正督(まさたか。楠木氏の一族)が蜂起し、北朝の和泉守護が楠木正儀から山名氏清へ更迭された。そこで征伐の綸旨が出されたと推定される。

p20
※六十年ぶりの綸旨発給例 その一
永享一〇年(一四三八)八月
かねてより六代義教と不仲であった鎌倉公方足利持氏が幕府に叛旗をひるがえし、以後翌年二月にいたる半年間、戦争。
永享の乱。
鎮圧に苦慮した義教が、後花園天皇にすがり、六十年ぶりに綸旨を出させた。

p15
※六十年ぶりの綸旨発給例 その二
嘉吉元年(一四四一)六月、嘉吉の変
播磨守護赤松満祐が第六代将軍足利義教を自邸に招いて暗殺する。本来朝敵にはあたらない赤松氏をむりやり朝敵にしたて、綸旨を出す。管領細川持之が綸旨発給の事務手続きを権大納言万里小路時房(までのこうじときふさ)に相談した。三代将軍義満の治世の中頃、すなわち義満が将軍であった一三六八~九四年の期間、治罰の綸旨(*1)が出されなくなったことを、時房は日記(『建内期(けんだいき)』)に書いている。
※天の邪鬼のように父義満の政策を覆し続けた四代義持も綸旨発給しなかった。
(*1)ちばつのりんじ。「征伐の綸旨」とも呼ばれる。いわゆる朝敵に対してその追討を天皇が命じ、天皇の秘書官である職事(しきじ)あるいは弁官(べんかん)と呼ばれる公卿が天皇の命を奉じて下す文書。

p28
このように治罰綸旨が復活。時の権力者にとめどもなく利用される危険。政敵を「朝敵」に指定できれば、大軍を動員する名分が得られる。うまい話。
嘉吉の乱を境に頻発。赤松追討の嘉吉綸旨の表向きの理由は、
一、将軍跡目が幼少
二、管領の指導力が弱体
もはや赤松満祐の行為が朝敵に相当するか否かは問題にされなかった。嘉吉の変(一四四一)から八代将軍義政が成年に達した長禄二年(一四五八)までの一七年間は、幕府の力が弱く、綸旨が最もよく出された。
治罰という軍事面だけでなく、所領安堵や相続など、民事裁判に関するような案件にまで綸旨が出された。たとえば、関東管領の辞職を望んでいた上杉憲実を慰留するため、二度にわたって綸旨が出された。

p44
以上、第六代将軍義教によって復活した征伐綸旨は、約六十年の歴史を閉じた。
義満の皇位簒奪路線によって死にかけた天皇制度が、国家最高の軍事指揮権を担うという形で不死鳥のようによみがえった。

p45
分国内治罰綸旨
上杉輝虎(謙信)

p49
天文年間(一五三二~一五五五)に入って、将軍や細川氏の流浪、京外脱出が相次ぎ、ついに戦国大名と朝廷が直接取引。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

w

%s と連携中