20170620 戦国期の室町幕府 今谷明

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第一章「東班衆(とうばんしゅう)の世界」は、室町幕府の財政構造の見直し。主要財源は土倉・酒屋役(※税の一種?)や勘合抽分銭ではない。五山禅院の官寺機構の中からさまざまな形で金を吸い上げていた。幕府の直轄領は御料所(?)などよりむしろ全国に散在する膨大な五山禅院領そのもの。東班衆と呼ばれる会計専門の禅僧たちが幕府の徴税請負人として活動していた。
よって鎌倉幕府が御家人制を基盤とする権力なら、室町幕府は東班衆を基盤とした権力。
p6
第二章「五山と北嶺(※禅宗寺院対延暦寺)」では、五山がどうやってその地位を確立したか。延暦寺との抗争を通じて明らかにする。
第三章「門前検断(※裁判)と釘貫(?)」は、室町期京都の町屋支配。幕府や権門の警察権。分析素材として、寺院による門前の商業統制や、市民の住屋に対する検封(けんぷう)、破却といった制裁手段。さらに地方奉行の特殊な役割。釘貫に対する管理。筆者は、従来以上に荘園領主=権門寺社の権力が強く、侍所の警察権が一元的ではない。
第四章「落日の室町幕府」は、応仁の乱=幕府崩壊ではないという筆者の主張。応仁以降、奉行人奉書が多く出されるという奇妙な現象。「管領代」奉書の存在、軍事的に弱くなった室町幕府を背後で支えた権力があった!
大永七年(一五二七)、天文二二年(一五五三)、永禄八年(一五六五)の三回、幕府中絶、その都度別の権力が支配。しかし幕府には強い回復力。つまり、幕府を必要とする勢力が京都に存在し、茨木長隆や三好長慶はそれらと妥協せねばならなかった。こうして幕府の完全否定は信長まで(永禄末年入京)待たねばならぬ。

p138
都市における市民の居住区域である町屋に対する領主の支配。
都市といえども荘園体制であって、平安時代以来、どの町屋もいずれかの権門=荘園領主の支配下に属し、領主に対しては農村での「年貢」に相当する「地子銭」を納入。
領主支配が中世後期(室町戦国時代)にどう変化したか。
京都・奈良
幕府・五山・東寺・興福寺(代表的権門)

p140
京都の治安維持の統括者であり、検断権(刑事裁判)の頂点である室町幕府侍所(さむらいどころ)の武力と、
幕府に保護されその存在を許されている寺社領主権力との衝突。
p140
結局軍閥としての守護・幕府と、朝廷・大寺社等の旧権門、および新興の五山禅院の三者が民衆支配のための相互に補完的な(助け合う)関係。
※鎌倉~徳川の武家社会は、軍事政権。現在も警察の力が存在するから軍事政権とは言えない。投票で選ばれた政治家や、文民としての官僚が警察機構のトップだから。
p140
中世では荘園領主に対して罪を犯した場合、最も厳しい刑罰としてその犯人の家屋を破却した。

p161
管領細川政元のクーデターで将軍が廃立される明応二年(一四九三)以後は、普通戦国時代とされる。

第四章 落日の室町幕府
p213
しかしさしあたって、京都という地域を幕府が手放さなかったことにより、なお百年間の延命が可能になった。同じような事情は奈良という門前町を保持した大和興福寺もそのままあてはまる。
※つまり群雄割拠だから「応仁の乱以降は戦国時代」でよい。室町幕府は地方政権に成り下がった。今谷明氏の説はいささか無理がある。

p214
三代将軍義満は、管領が発行する「将軍家御教書」。
斯波義将(しばよしゆき)。1350-1410。斯波氏5代当主。室町幕府創業の元勲である斯波高経の4男。室町幕府初代、3代、5代、7代管領。越前・越中・信濃守護。
六代将軍義教は、管領(斯波、畠山、細川)を抑え、奉行人(官僚)を登用して「奉行人連署奉書」。
(略)
嘉吉の変(一四四一)で義教暗殺後(略)跡継ぎの将軍は義勝・義政とも幼少。義政が元服する康正二年(一四五六)に至る約十五年間、細川持之・畠山持国・細川勝元の三者が将軍代行として管領に。
八代将軍義政は、義教の実子であるが、父と全く違って政治に積極的な熱意を持たず、管領に任せることが多かった。これに反発した伊勢貞親(*)や蔭涼軒真蘂など将軍側近のために政治は乱れた。そして応仁の乱が起こる。
(*)伊勢貞親(いせさだちか)。1417-1473。政所執事。蓮如、北条早雲と関連。桓武平氏の流れを汲む伊勢氏。父は伊勢貞国、子に貞宗・貞祐。

p215
応仁の乱の最中の文明三年(一四七一)、ずっと続いてきた管領の「将軍家御教書」が、突然、出されなくなった。この時の管領は東軍大将細川勝元。彼は文明五年に病死するまで管領。
p218
しばらく(将軍義政によって)管領が任命されず、文明九年(一四七七)より畠山政長が九年間管領。政長もほとんど将軍家御教書を出していない。この段階で、三管領家のうちで、細川家の優位は決定的。斯波家も畠山家も家督争いを繰り返していた。よって畠山政長の管領在任は、細川家当主の政元が成人するまでのロボット的存在。政長以降、斯波・畠山両家から管領は出ない。細川家の覇権が確立。
しかし、その後管領になった細川政元と細川高国は将軍家御教書を出していない。
※将軍の言葉を伝える者として命令しなくなった。管領代奉書の登場。

※トップの変遷 Dropboxに詳細あり。
細川政元

細川高国
細川晴元

p239
■大永元年(一五二一)
細川高国の専横を憤って淡路に出奔し、晩年を阿波で送った堺公方足利義維(よしつな。義材(義尹、義稙)の子)。
■享禄四年(一五三一)
足利義維は堺の顕本寺に在住。本来ならば享禄四年の前後も将軍であるはずの十二代将軍足利義晴が、「当御代(とうみよ)」と呼ばれて「堺公方(義維)」と区別。天文二年(一五三三)に作成された「堺公方御下知」「細川六郎(晴元)御下知」の目録がある。その書類は、大徳寺東班衆(官僚)に、いな京都の権門から、当時は足利義維が将軍とみなされていたことを示唆する。
p240
斎藤基速(もとはや)と斎藤誠基(のぶもと)
大永七年(一五二七)
四十三通の奉書で基速あるいは誠基が署名する文書の初出の年。
二月十三日、京都の西南郊桂川畔の川勝寺において、
管領細川高国と、
丹波の国人柳本および阿波の国衆三好元長との連合軍の間に
激戦が行われ、
敗北した十二代将軍義晴・管領細川高国以下室町幕府の武将は京都を撤退して近江坂本へ逃亡。(『言継卿記』ほか)
戦国時代、将軍や管領の京都一時脱出は珍しくないがこの時は違う。大永七年二月には室町幕府の機能は実質的に崩壊と考えられる。奉行人(幕府の事務官僚)も将軍についていき、政治機構その他すべてが近江坂本へ移され、それまでの室町幕府という中央政権から、一挙に「亡命政権」へと転落。

p241
細川高国政権=室町幕府は、大永七年二月を最後として崩壊した。
(略)
※細川晴元政権の誕生
■大永七年(一五二七)から
天文元年(一五三二)まで
細川高国…管領代奉書が全く姿を消した
柳本賢治…晴元の又代官
細川晴元
三勢力鼎立する混乱期…間違い
p243
この時期に畿内を支配したのは晴元。
晴元政権が担いだのが流れ公方足利義稙(義尹義材)の子である足利義維(よしつな)。次期将軍として幕府を堺に組織し、奉行人を駆使して実質的に京都を支配していた。これは今まで知られていなかった。
p245
■大永八年(一五二八)
年初より十二代将軍義晴と堺公方足利義維(次期将軍)和睦の動きがあった。しかし実現せず、京都は細川晴元のふところ刀である茨木長隆や阿波の三好元長(長慶の父)が支配した。この年の夏、三好元長は山城守護代に任命された。(※堺公方義維から?)
p246
(4)堺公方府(堺幕府)の成立と崩壊
足利義維(よしつな)は、将軍位である征夷大将軍源氏長者には現任されなかったが、京都の公家や権門からは「堺大樹」「堺公方」と称され、奉行人・管領代・山城守護代・山城郡代を使役する官制上の頂点。事実上の次期将軍として君臨。すなわち大永七年(一五二七)二月の桂川合戦以後、享禄五年(一五三二)六月における堺顕本寺の戦いに至るまで、室町幕府は完全に中絶し、和泉堺において足利義維の幕府が成立していた。
p247
将軍がいるかいないかは、幕府があるかないかの決定条件ではない。
室町幕府の将軍空位時代の例
応永三十二年~永享元年(一四二五~二九)
嘉吉三年~宝徳元年(一四四三~四九)
また将軍が京都から逃亡した例
明応二年(一四九三)義材
大永元年(一五二一)義稙(義材)
いずれも逃亡の日が将軍廃位と考えるべき。
かりに、近江坂本や朽木谷に亡命中の十二代将軍足利義晴(『戦国編・参』は彼までが執筆対象。~一五五〇)はずっと将軍で室町幕府もつづいていたとすることは無理がある。明応九年(一四九三)の細川政元による将軍廃立(*)のように、どんな理由であれ(逃亡や強制排除)将軍廃位されたと考えるべき。
p248 ※最重要。後日。
足利義維の堺政権を「堺幕府」と呼ぶのは筆者(今谷明)の仮説。しかし戦国時代の室町幕府が、管領=細川京兆家と密接な関係で、命令書(①幕府奉行人奉書、②管領代奉書)で治めていた。これを考えれば、細川高国が畿外諸国を転々と流浪し、足利義晴ひとり朽木谷に避難し、命令書(管領代奉書)が一通も出されていない亡命政権を「幕府」ということは無理である。
堺幕府の成立、すなわち室町幕府の中絶は大事件。阿波の国人衆を軍事力とする政権がはじめて畿内にあらわれた。
開始時期は…
■大永元年(一五二七)七月十三日、法的にはこの日。足利義維が左馬守になったから。さかのぼれば…
四月十日、命令書(奉行人奉書)がはじめて登場。事実上の政権開始は、さかのぼれば…
三月二十二日、三好元長(阿波国人)が堺に上陸。もっとさかのぼれば…
二月十六日、桂川合戦直後の柳本賢治入京。
p249
堺幕府も、阿波国人単独では京都支配できず、茨木長隆のような摂津の有力国衆の協調を必要とした。
摂津国人の茨木長隆。三好政長ら阿波軍の参謀に見込まれて一躍管領代に抜擢される。
p250
■大永七年~八年(一五二七~二八)
まず、柳本賢治と
三好元長が
山城守護代職をめぐって争う。
負けた柳本賢治は髻(もとどり)を切って野に下り、河内・大和に転戦。
ついで、摂津国衆代表の茨木長隆と
阿波国衆代表の三好元長の対立表面化。
(略)※対立理由。後日。
京都近郊の三好軍の略奪は食料確保に苦しむ阿波軍の弱点。京都町衆の抵抗(『言継卿記』)。荘園体制の維持(既得権益)を前提に京都支配を目ざしていた茨木長隆ら摂津国衆の離反を深めた。
茨木長隆個人にとっては、三好元長がいるかぎり山城郡代を自分の配下にできず、また荘園領主に対する奉書発給の報酬、つまり礼銭(ワイロ)を中間搾取されることを意味する。

■享禄四年(一五三一)
大物崩れの戦い
細川高国という共通の残敵を滅ぼす。
以後、この両者(三好元長と茨木長隆)は、はっきり対立。
摂津国衆は、堺という兵站基地を持つ阿波軍を排除するため一向一揆の大軍を引き込む。
二万あるいは二十万騎と称された一向宗門徒の軍事力。
摂津国衆や木沢長政が一時的にもせよ引き出せた理由。
本願寺坊官下間(しもつま)氏と姻戚関係にあった
一、茨木長隆
二、長塩氏(摂津守護代家)
のおかげ。
■享禄五年(一五三二)
六月、河内飯盛城に畠山義堯(よしたか)を攻め滅ぼした。
六月二十日、その余勢を駆って一向宗門徒十万の大軍は堺の顕本寺に三好元長を包囲、自刃させた。
五年余にわたる堺幕府も滅亡。
こうして、
一、第一次石山戦争
二、天文法華一揆
の幕が切って落とされた。

※このとき細川晴元1519-63、十三歳。

3 茨木長隆とその時代

p257
自検断
じけんだん【自検断】
公権力でない私的集団が,その内部のメンバーに刑事裁判権,警察権を行使すること。日本における中世国家権力は,社会の基層部にまでその権力が浸透せず,社会を構成する血縁・地縁・職能集団など数多くの集団は,強烈な自力救済観念のもと,みずからの力で集団内部の秩序を維持していた。武士団などの族的集団においてもこうしたことが行われたが,通常自検断という場合は,中世後期に成立した自律的集団たる国人一揆,惣村などの検断をさす。(kotobank)

p264
■天文八年(一五三九)、三好長慶の反乱
■天文十一年(一五四二)、木沢長政の反乱

p265
摂津国衆は、荘園制を否定し、戦国大名化(一円支配)をめざして、残存する権門(寺社や貴族)と血みどろの闘争。
茨木長隆は徹底した権門保護。
国衆の目には、「細川・茨木体制の限界」と映じただろう。
(略)
■天文十八年(一五四九)
六月、摂津江口の戦い。
三好長慶、十二代将軍晴元方の三好政長を敗死させる。中世の終わりを告げるほどの大事件。

p266
茨木長隆の名は、歴史の裏面にうめられた。

4 信長上洛前夜の京都 ※『安土編』対象。

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