20170509 舞台をまわす、舞台がまわる 第一回 山崎正和

p32
強く印象に残っているのは、満州国政府および日本の支配がなくなった途端に、文字通りの無政府状態が生まれたということです。私はどの政治学者よりも、無政府状態がいかに怖ろしいかを知っています。そしてどんなに悪い政府でも、無政府状態よりはましだという信念の持ち主です。政府が政府でなくなると、あの「各人が各人を敵とする」(ホッブズ『リヴァイアサン』)状態が現出するのですから。

一九四〇年(昭和十五年)六歳
一九四三年(昭和十八年)九歳
病弱のため一時帰国。京都市立北白川国民学校に転校。のち祖父のもとに移り、熊本市立白川国民学校に転校。
一九四四年(昭和十九年)十歳
病気が回復し、満州に帰る。奉天の千代田国民学校に入る。
一九四六年(昭和二十一年)十二歳
四月、奉天第一中学校に入学。
一九四八年(昭和二十三年)十四歳
一月七日、父正武が死去。享年四十二。四、五月頃、満州を引き揚げ、京都市左京区に住む。九月、京都府立洛北高等学校(旧・京都府立第一中学校、十月より鴨沂高等学校)の併設中学三年に編入。

p24
(略)母親と私たちは日本に帰ってきました。(略)もっと悲惨なことになります。というのは、京都人の根性の狭さと、戦争中の相互監視的な風潮とが重なって、怖ろしくいやな雰囲気なんです。
私は北白川国民学校に編入されました。編入された日に、まず生徒に囲まれて殴られた。なぜか。満州は寒いので、小学校ではスキーズボンをはいていました。足首のところにゴムが入っていて、冷たい空気を遮断するように締めてある。京都の子供たちはそんなものを見たことがないから、女のはく「もんぺ」だという。(略)それだけで「けしからん」という。異質は一切排除するわけですから、ちょっとでも違った格好をしていれば殴られる。(略)
だんだん事態が昂じて、とうとう私は「非国民」として「死刑」にされることになった。どういうふうに「死刑」にするかというと、学校の四階の窓から下に放り出すという。確実に死にます。執行の日時も決められました。教師に訴えるのはナンセンス。弱いやつがやられるのは当たり前。自力で解決しなければならない。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中