20170506 慶応三年の水練侍 木村忠啓

p7
 伊勢神宮の警護の任を帯びた藤堂家は、海防論の広まりを受け、
弘化四年(一八四七)四月には志摩沿岸の測量、
嘉永二年(一八四九)には西洋砲術の採用、火薬製造場と砲工廠の建設、と矢継ぎ早の強兵策を行っている。
 このうち火薬製造場ら、乙部のほか愛宕山、長岡山の二箇所にも設けられていたが、その中でも乙部は研究所としての意義が大きかった。津の精鋭が集められており、善之丞の主君である藤堂数馬光訓が監督を務めていた。少数精鋭の中に清之助が混じることができたのは、善之丞の口利きの賜物であった。

p8
「精が出るな。今晩は鰻でも馳走して進ぜる」
 そこに監督役の藤堂数馬光訓が姿を見せた。数馬は襲名である。七代目の数馬に当たる光訓は、当時、漢詩人として名高かった梁川星巌から「津で一番の知恵者である」と称されるほどの文人であった。一方では剣を取っては新蔭流の免許皆伝、津の西洋砲術である靖海(せいかい)流においても免許皆伝を受けていた。

p12
 清之助が出口に近づいた瞬間。誰かに激しく背中を突き飛ばされたと思った。
 ほんの短い間、気を失っていたように思う。いつの間にかつぶっていた目を開けると、目の前には地獄絵が展開されていた。
 濛々たる黒煙に包まれた作業場には、何箇所も火の手が上がっている。

p12
 光訓は自力で逃げ出していたが、容態は芳しくなかった。周囲の必死の手当も功を奏さず、爆発の四日後にあたる二月二十日に息を引き取った。享年四十二歳。(略)
 たまたま外に出ようとしていた清之助と、もうひとり黒井政行のみが、軽い火傷だけで命に別状はなかった。
 これが、藤堂家の歴史の中で後世に悪名を残した『嘉永の大爆発』であった。

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