20170315 うき世櫛 中島要

p141
今年の閏一月に西の丸の大御所様がお亡くなりになり、その側近が職を追われた(略)。

(Wikipedia)
家斉の死後、その側近政治は幕政の実権を握った水野忠邦に否定されて、旗本・若年寄ら数人が罷免・左遷される。そうして間部詮勝や堀田正睦などの側近は忠邦と対立し、老中や幕府の役職を辞任する事態となった。

p205
お夕がかばった座敷の客こそ北町奉行の遠山金四郎だったのか。

(Wikipedia)
遠山金四郎(1793-1855)
父・景晋は永井家から遠山家に養子入りしたが、後に養父の実子景善が生まれた。景晋の義弟になるが、景晋は景善を養子にしていた。
景元(金さん)出生時には、未だ景善の養子手続きをしていなかったため、景元(金さん)の出生届はその手続が終わった、誕生の翌年9月に提出された。
文化6年(1809年)、父の通称であった金四郎に改める。青年期はこうした複雑な家庭環境から、家を出て町屋で放蕩生活を送るが、後に帰宅する。

p234 下り酒
http://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/04/kaisetsu3.html

p236
新しく南町奉行になられた鳥居甲斐守様は御老中水野様のお気に入りで、たいそう学のある方だそうだ。

(Wikipedia)
鳥居 耀蔵(とりいようぞう 1796-1873)
実父は大学頭を務めた江戸幕府儒者の林述斎。父方の祖父の松平乗薀は美濃岩村藩の第3代藩主である。旗本鳥居成純の長女・登与の婿として養嗣子となり、鳥居家を継ぐ。弟に日米和親条約の交渉を行った林復斎が、甥に同じく幕末の外交交渉に当たった岩瀬忠震、堀利煕がいる。(略)北町奉行だった遠山景元(金四郎)が改革に批判的な態度をとって規制の緩和を図ると、耀蔵は水野と協力し、遠山を北町奉行から地位は高いが閑職の大目付に転任させた(遠山は鳥居失脚後に南町奉行として復帰した)。

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