20161128 スキャンダルの世界史 海野弘

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メディチ家の盛衰
ルネサンスのフィレンツェを支配したのはメディチ家であった。大貴族ではなかったが、金融業によってのし上がり、新興勢力となった。十五世紀のはじめ、リナルド・デッリ・アルビッツィが率いる貴族派とコジモ・デ・メディチが率いる富裕商人派の対立が激しくなった。
一四二九年
リナルドは法を監視する八人委員会をつくり、「破廉恥者法」を通した。
(略)
一四三四年
コジモはフィレンツェに帰還し、メディチ家の支配がはじまる。
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一四六四年
コジモが没した時、フィレンツェは「祖国の父」の称号を贈った。息子のピエーロが継いだが、コジモほどの政治家ではなかった。
一四六九年
病弱なピエーロは没した。息子のロレンツォが継いだ。〈イル・マニーフィコ(豪華なる)〉と呼ばれ、スケールの大きな人であった。
(略)
 若い時のロレンツォは、恋多き道楽息子と思われていた。彼は、ローマの名門オルシニ家のクラリーチェと結婚した。メディチ家による政略結婚であった。ロレンツォは、結婚しても遊びまわることをやめはしなかった。
 しかし父を継いでフィレンツェの権力を握ると、政治的剛腕を揮って反対派を追放したので、彼を倒そうとする陰謀が企まれた。当時、メディチ家に対抗したのはパッツィ家であった。どちらも銀行業を営み、ローマ教皇庁との取引を争っていた。教皇シクストゥス四世はパッツィ家の黒幕となっていた。
 それにはきっかけがあった。シクストゥスは甥のジローラモ・リアーリオをイモラ伯にしようとした。イモラはボローニャとフォルリの間の小さな町であるが、ロマーニャ地方の拠点で、ミラノ公領になっていた。法王はミラノ公の娘カテリーナ・スフォルツァとジローラモを結婚させ、イモラを買い取ることにした。
 その資金をメディチ銀行に借りようとしたが、フィレンツェもイモラを買おうとしていたので、ロレンツォは融資をことわった。すると法王はローマ法王庁の銀行業務をパッツィ銀行に移してしまった。
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 さらに法王はもう一人の甥ジョヴァンニ・デルラ・ロヴェレをウルビーノ公フェデリーゴの娘と結婚させた。
 ロレンッォは、フィレンツェ、ミラノ、ヴェネチアの同盟で、北イタリアを安定させようとしていた。それに対抗して法王はナポリと組んで、北イタリアに楔を打込もうとした。まず、一四七六年、ミラノ公ガレアッツオ・マリア・スフォルツァが暗殺された。息子が幼なかったので、後継者争いが起きた。フィレンツェはミラノをあてにできなくなった。
ローマではロレンツォ打倒の陰謀が計画されていた。中心は、イモラからロマーニャ全体を担うジローラモ・リアーリオ、フィレンツェ大司教になりたがって、ロレンツォに阻まれ、怨んでいるピサ大司教フランチェスコ・サルヴィアーティ、そしてパッツィ銀行のローマ支配人フランチェスコ・デ・パッツィで、シクストゥス四世の後援を受けていた。さらに傭兵隊長ジャン・バッティスタ・ダ・モンテセッコが引入れられた。
ロレンツォと弟のジュリアーノの両方を暗殺する計画が立てられた。ロレンツォを倒しても、民衆に人気があるジュリアーノがすぐ後継者に選ばれ、クーデターは成功しないだろう、と思われたからである。
一四七八年、ラファエレ・リアーリオ枢機卿がフィレンツェを訪問した。この機会に暗殺が計画された。ラファエレは、ジローラモの姉妹の子で、十七歳の若さで、シクストゥス四世の縁故で枢機卿に選ばれた。なにも知らぬロレンツォはこの訪問を歓迎した。日曜日にフィレンツェの大聖堂で荘厳ミサに出席し、その後、メディチ家を訪問してその財宝を見たいとラファエレはいった。メディチ家の祝宴で、二人を殺すはずであった。
しかし、ジュリアーノが体調が悪く、祝宴には出ないことになったので、計画は変更され、大聖堂のミサ間に殺すことになった。
大聖堂の鐘が鳴り響くのを合図に暗殺者として雇われた二人の司祭がロレンツォを刺した。しかし致命傷を与えられず、ロレンツォは逃れた。
ジュリアーノは、フランチェスコ・デ・パッツィとその子分バロンチェリに襲われ、何度も刺されて死んだ。
大司教サルヴィアーティは市庁舎に向い、法王の指示により、独裁者メディチ家を倒すクーデターを起したとのべた。フィレンツェの街ではメディチ派とパッツィ派が衝突したが、パッツィ派の呼び掛けに応える者はほとんどいなかった。ジュリアーノを殺されたメディチ派の怒りはすさまじく、大司教サルヴィアーティとフランチェスコ・デ・パッツィは捕えられ、吊し首にされた。
暗殺を逃れたロレンッォが姿をあらわすと、群衆は歓声をあげて迎えた。街中で、暗殺に加担したパッツィ派への虐殺がくりひろげられた。
枢機卿ラファェレは、暗殺計画を知らされていなかったらしい。まっ青になって震えていて、リンチにされそうになったが、ロレンツォが救出して、ローマに帰してやった。
暗殺に関わった者のほとんどは処刑された。傭兵隊長モンテセッコは斬首された。ジュリアーノを殺したバロンチェッリは、逃亡し、コンスタンチノープルまで行って隠れたが、ついに見つかってフィレンツェに連行され、処刑された。メディチ家の情報網は、外国にまでのびていたのである。
パッツィ家は断絶となった。警察本部の壁には、首に縄を巻かれたパッツィ家の人々の肖像が描かれた。画家はメディチ家がパトロンであったサンドロ・ボッティチェリである。「ヴィーナス誕生」のような優美な絵だけでなく、このような絵も描いていたのである。
パッツィ家の陰謀は失敗した。シクストゥス四世は、フィレンツェが大司教サルヴィアーティを殺したことに対して、ロレンツォを破門し、トスカナ地方での聖務停止を命じた。
しかし、この事件によってフィレンツェにおけるメディチ家の体制が確立した。法王とパッツィ家の思惑では、メディチ家を倒せば、市民の支持を集められるはずであったが、メディチ家は圧倒的な人気を集めていたのである。
ロレンッォはこの後、フィレンツェを完全に掌握する体制をつくり上げていく。パッツイ家の陰謀は、世評を読みちがえたために成功せず、結果的にこのスキャンダルはメディチ家の権力を確立したのであった。
宿敵シクストゥス四世は、一四八四年、マラリアで亡くなった。次の法王インノケンテイウス八世の息子とロレンッォの娘マッダレーナが結婚し、法王も親メディチ派となる。さらにロレンツオの息子ジョヴァンニは、後にレオ十世となる。メディチ家出身の法王である。殺されたジュリアーノの息子ジュリオもクレメンス七世として法王となった。
パッッィ事件の関係者をコンスタンチノープルまで厳しく追及したように、ロレンツォは強力な密偵のネットワークを張りめぐらし、情報を集め、それを巧みに使っていた。情報操作という面で、メデイチ家は新しい時代を切開いたのである。
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サヴォナローラ現象
一四九二年、ロレンツォ・イル・マニーフィコが没した時、法王インノケンティウス八世は「イタリアの平和は失われた」といったという。そして彼もこの年に没した。そして一四九四年からイタリアは半世紀ほどの大混乱期に入る。まず、メディチ家がフィレンツェから追放される。フランスのシャルル八世がイタリアに侵入する。法王は、悪名高きボルジア家出身のアレクサンデル六世になっていた。メディチ家の追放後のフィレンツェの政治的空白の中に、熱狂的な説教師サヴォナローラが迎えられ、一四九四年から一四九八年まで〈神権政治〉を行なった。十五世紀末、過度期の混乱の中でしかあらわれなかっただろう、サヴォナローラ、ボルジアといった歴史の主役たちが登場してきた。
悪名高きアレクサンデル六世と教会の腐敗を激しく批判したサヴォナローラは宿敵として衝突し、悲劇的な結末に落ちていった。
ジローラモ・サヴォナローラはフェラーラ出身で、ボローニャの聖ドメニコ修道会に学び、一四八二年、説教僧としてフィレンツェにやってきた。権力者であったメディチ家の類廃を責める激しい説教に、人文主義者のピコ・デラ・ミランドラなどが関心を持ったという。
一四八七年、サヴォナローラはフィレンツェを離れた。ロレンツォ・デ・メディチにけむたがられたともいう。一四九〇年、彼はフィレンツェにもどってきた。サン・マルコ修道院での説教はしだいに人気を集め、一四九一年には、フィレンツェで最も権威のあるサンタ・マリア・デル・フィオーレ寺院説教壇に上った。
彼は「恐るべき宣告」を行なった。神がイタリアを、その中でも特にフィレンツェを、粉々に打くだく日が来る、というのである。そこでロレンツォ・デ・メディチが槍玉に上げられた。ロレンツォは、金の力で息子ジョヴァンニを枢機卿にし、フィレンツェで独裁権を揮っている、とサヴォナローラは非難し、さらに、このところ噂されている、ロレンツォの公金横領スキャンダルに触れた。それは「嫁資基金(モンテ・デレ・ドーテイ)」の件で、この基金に貯金しておくと、娘が結婚する時に持参金として支払いを受けられる、というものだ。フィレンツェ市民たちによって積立てられてきたこの基金をロレンッォはジョヴァンニを枢機卿にするために、ローマへの支払いに使ったらしい。
ロレンツォの時代には、メディチ銀行の経営もかなり悪化していた。父のコジモの堅実な経営は忘れられ、あまりに手を拡げ、また派手な生活に浪費していたのである。
サヴォナローラの攻撃に対して、ロレンツォはフィレンツェを追放する、とおどかした。それに対し、ロレンツォこそ、フィレンツェを去るだろう、とサヴォナローラは予告した。
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確かにロレンツォの最後は迫っていた。病いのため、死が近づいているのに気づいていた。おそらくそのために、サヴォナローラを即座に追放するのをためらったのだろう。死の直前、ロレンツォはサヴォナローラを招き、祝福を求めた、という話が伝わっている。
ロレンツォにつづくように、法王インノケンティウス八世が亡くなると、ロドリゴ・ボルジアがアレクサンデル六世として法王に選ばれた。サヴォナローラはついに生涯の最大の敵に出会ったのである。
ロレンッォの後、息子のピエロがメディチ家を継いだ。ロレンツォに抑えられていた反メディチ派がうごめきだした。そしてフィレンツェには大凶事が襲来しつつあった。フランスのシャルル八世のイタリア侵入である。シャルルはナポリの王位を狙っていた。かつてナポリはアンジュー家に支配されていたが、スペインのアラゴン家に奪われていた。アンジュー家の血を引くシャルルは、王位をとりもどすという目的でイタリア遠征に出た。
シャルル八世はジェノヴァからフィレンツェに進んだ。フィレンツェではサヴォナローラの説教が勢いを増した。ついに神の剣がこの悪徳の都フィレンツェに振りおろされる! というのである。 シャルルはフィレンツェに、ローマへの道の自由通行を求めた。ピエロ・デ・メディチはそれを認めてしまった。ピエロがフィレンツェを売渡したという非難が高まり、メディチ家は反逆者であるとする暴動が起った。
逆にサヴォナローラの災厄の予言が人々の共感を集めた。メディチ家は逃亡し、フィレンツェは共和制にもどった。サヴォナローラはシャルル八世と交渉して、フランス軍をできるだけ静かにフィレンツェを通過させた。
サヴォナローラは大評議会を提案し、民主的なフィレンツェの建設を呼びかけた。
シャルル八世はローマに入城した。ナポリと同盟している法王アレクサンデル六世は、カステル・サンタンジェロに籠もった。
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メディチ後のフィレンツェは、サヴォナローラを支持する「泣嘆派(ピアニヨーニ)」と急進的な市民グループの「憤怒派(アツラビアーテイ)」に分裂した。サヴォナローラは道徳的・宗教的革命を唱え、シャルル八世の後援を受けていた。「憤怒派」は僧侶が政治を動かす神権政治を嫌っていた。
一方、ローマではシャルル八世と法王アレクサンデル六世との妥協が成立していた。シャルルはやすやすとナポリを占領した。サヴォナローラは、シャルルのフランス軍を、教会改革を行なう神の手と考えたことがまちがいであったのに失望する。そして神の罰がシャルルにも下るだろうと予言する。
サヴォナローラのおどしが効いたのだろうか、ナポリからの帰途、フランス軍はフィレンツェに寄らずにフランスへのもどりを急いだ。まわりの状勢が危険になってきたのである。シャルルが離れると、ナポリはすぐにアラゴン家のフェルディナント二世によって奪還されてしまった。フランスのイタリア征服は、失敗に終った。
ローマのアレクサンデル六世は、フィレンツェでサヴォナローラが行なっている宗教的な人民共和制を危険だと考えた。また、彼の予言も、教会の、法王の権威を無視したものだ。法王は、サヴォナローラをローマに出頭するよう命じたが、彼は従わなかった。法王はピエロ・デ・メディチにフィレンツェの政権をとりもどさせようとしていた。それにはサヴォナローラがじゃまであった。
サヴォナローラのサン・マルコ修道院はロンバルディア修道会から独立した勢力になっていた。法王はそのような独立行動を許しがたいとし、サヴォナローラ、フィレンツェ、フランス王をそれぞれ破門にするとおどした。サヴォナローラに対しては、説教を禁じ、説教をしたら破門とされた。
フィレンツェでは、法王に後押しされて、反サヴォナローラ派がうごめき出した。
それでもサヴォナローラは説教を行ない、清らかになったフィレンツェと悪徳のローマを比較した。
「ローマからはますますひどいニュースが入ってきていた。スキャンダルがスキャンダルを呼び、ついに二月の二十八日には、サヴォナローラが度はずれた怒りを大聖堂で爆発させた。説教のテーマは「ローマの売春婦」で、聖書に出てくる雌牛にヒントを得たものであった」(エンツォ・グアラッツィ『サヴォナローライタリア・ルネサンスの政治と宗教』秋本典子訳中央公論社一九八七)
サヴォナローラはついに、イタリアの悪徳の火は、司教や枢機卿によって燃されているとした。それは教会の幹部たち、そのトップである法王への攻撃であった。アレクサンデル六世も、さすがにほっておけなくなってきた。
しかしサヴォナローラはますます過激になり、彼を支持する派が強力になり、カーニヴァルにおいても、不道徳などんちゃん騒ぎは禁じられた。一四九七年、フィレンツェの〈神権政治〉は最高潮に達したかに見えた。
だがその時、サヴォナローラ包囲網もひそかに準備されつつあった。それは、法王とヴェネチアの同盟、そして、フィレンツェ復帰を目ざすメディチ家などでつくられていた。
この年の四月、ピエロ・デ・メディチが傭兵を率いてフィレンツェを襲撃しようとした。しかし豪雨で進軍できず、クーデターは失敗した。だが、サヴォナローラの宗教的な政治に反対する憤怒派が強くなり、彼の説教の邪魔をするようになり、暴動が起きた。
一四九七年六月、ローマからは破門状が届いた。サヴォナローラはそれが無効であると主張した。七月に成立したフィレンツェの新しい政府は、サヴォナローラを支持した。そしてメディチ家再興のクーデターの関係者が逮捕され、処刑された。
一四九八年二月、破門され、禁じられていたにもかかわらず、サヴォナローラは大聖堂の説教壇に上り、法王を「くず鉄」と罵った。
そのニュースを聞いて法王は激怒し、サヴォナローラを黙らせないとフィレンツェ全市を聖務停止にすると通告した。いよいよ二人の正面衝突となった。
フィレンツェは極めて深刻な経済危機にあり、法王やその同盟軍の経済封鎖を受けると、破産する危機にあった。まわりからの切りくずしにより、反対派が勢力を増し、サヴォナローラが孤立しかけていた。フィレンツェ政府は、ついに彼の説教を禁止した。法王に屈したのである。
フランチェスコ派の説教師たちは、ドメニコ派のサヴォナローラに敵対心を抱き、「火の試練」を挑んだ。もしサヴォナローラが正しいなら、本人でも弟子でもいいから、一緒に火をくぐってみよう、正しい方が生きのこるはずだ、というのである。
おどろいたことに、このおそろしい挑戦をフィレンツェ政府は公式に認めたのである。サヴォナローラの弟子が、この挑戦を受け、自分が火に入ろうといった。フランチェスコ会の方は、はったりでいったらしいが、相手が本気になったので、尻ごみをした。そしてしぶしぶ一人の修道士を差出した。
フィレンツェ政府は、「火の試練」を行なうという公式文書をイタリア中に送った。この残酷な見世物を公開の政治的行事として、全国の人々を共犯的な見物人にしてしまおうというのである。
一四九八年四月七日、残酷ショーの舞台が用意された。長さ三十メートル、幅六メートルの木造の橋のようなもので、六メートルの幅の両側に木材を並べ、まん中に人の通る道をあけて火をつける。橋の両端から、挑戦者がそれぞれ燃える橋の中央部へと渡っていく、という仕掛けであった。
ドメニコ会の挑戦者はドメニコ修道士であった。彼は緋色のマントを着て、聖体を持っていた。フランチェスコ派はぐずぐずしていた。そして、緋色のマントに文句をつけた。それは火除けの魔法のマントらしいから、それを着て火に入るのはルール違反だというのである。
ドメニコは緋色のマントを脱ぎ捨てた。すると今度は、彼の持っている木の十字架に文句がつけられていた。フランチェスコ派は、次から次へと文句をつけ、試練をはじめるのをのばしつづけた。つまりはじめからやる気はなかったのだ。観客はいらいらして待っていた。雨が降ってきた。そして日も暮れてきたので、「火の試練」は中止となった。六時間もむなしく待ちつづけた観客は騒ぎはじめた。翌日は暴動になった。
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政府は、騒ぎの責任はサヴォナローラ派にあるとして追放を決めた。憤怒派は、サヴォナローラの一味を襲った。政府は混乱を収拾するために、サヴォナローラを逮捕し、秘密裁判で有罪とした。ローマから法王の代理人が派遣され、あらためて有罪とし、サヴォナローラと二人の弟子が絞首刑の後、火刑に処せられた。あの茶番劇に終った「火の試練」があらためてフィナーレに実現したのであった。
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ボルジア家の悪徳
サヴォナローラはアレクサンデル六世のスキャンダルを弾効しつづけ、その逆鱗に触れ、火刑となった。このボルジア家の法王は、ルネサンスの悪徳の権化のようにいわれている。彼が法王として君臨できたことが、この時代の不可思議さを語っている。
「ボルジアの名は歴史に現われるや否や、たちまち世に指弾され、断罪された。一介のスペイン郷士より身を起こした彼ら一族は、不吉な流星のごとく当時のヨーロッパ政界を震撼させた後、怪しい光芒を放って暗闇に消えた。その名は忌み嫌われ、彼らの遺骨は四散し、碑文は消滅し、記念碑は破壊された。ボルジアの名は現在もなお悪の匂いを漂わせている」(マリオン・ジョンソン『ボルジア家悪徳と策謀の一族』海保真夫訳 中央公論社 一九八四)
ボルジア家はスペイン北部の出身である。スペインではボルハといった。この一族ではアロンソが出世し、アラゴン王アルフォンソ五世の秘書となった。当時は教会の大分裂時代で、法王が三人もいて、それぞれ、自分が正統であると主張していた。その一人ベネディクトゥス十三世はスペイン人であった。コンスタンツ宗教会議で、三人の法王が廃され、マルチヌス五世が選ばれた。ベネディクトゥスは引退せず、スペインに立籠っていた。イタリアの使節は、ひそかにベネディクトゥスの毒殺をはかったが、未遂に終った。
※アラゴンの使節ではなかったか? 要確認。
しかし、このイタリア式解決法は、ボルジア家に大いに勉強になった。
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アロンソの妹イザベラは、ボルハ本家のホフレ・デ・ボルハと結婚していた。この一族は近親結婚により、一族の結束を堅めていたのである。ホフレは殺人事件を起し、死刑の判決を受けた。しかしアロンソがマリア王妃に頼んで、もみ消してしまった。このもみ消しがなかったら、後のボルジア家はなかった。なぜなら、ホフレとイザベラの子ロドリゴこそ、後の法王アレクサンデル六世だったからである。
アルフォンソ五世は、イタリアに進出し、ナポリを狙っていた。アロンソはそれを助けた。一四四三年、アルフォンソはナポリ王となった。アロンソは枢機卿に選ばれた。ホフレの息子ペドロ・ルイスとロドリゴも伯父を頼ってローマにやってきた。
一四五五年、ニコラウス五世が亡くなり、有力候補が争って結着せず、ダークホースであったアロンソが法王に選ばれた。カリストゥス三世である。スペイン人が法王になったことをイタリアは嘆いた。
カリストゥスはボルジア家の出であったが、人格的に非の打ちどころがなかったといわれ、ローマ教会の復興に力をっくした。トルコに対する十字軍を起したり、かつての主君アルフォンソ五世と対立してまでも、ナポリをフランスのアンジュー家に帰そうと試みた。しかし七十六歳という高齢で法王になったので、あまり長くはつづかず、一四五八年、七十九歳で没した。
カリストゥスは、甥のロドリゴと彼の従弟ルイス・ホアン・デ・ミラを枢機卿にした。法王になると身内をいいポストにつけるのは、当時のやり方であった。
カリストゥスの次に、ピウス二世が選ばれた。その選出に、ロドリゴが協力した。そのため、ピウス二世の下で長官代理として重用された。彼は仕事の傍ら、各地で快楽を求め、乱行をくりひろげて、法王の叱責を受けている。そして多くの私生児をつくった。ローマの美女ヴァノッツァ・デイ・カタネイは人妻であったが、一四七三年頃から彼の愛人となり、四人の子を生んでいる。チェーザレ、ホアン、ルクレチア、ホフレである。
ロドリゴは有能であったが、乱行をくりひろげ、そのために、いかなる悪事をしても金をもうけようとして、ピウス二世を悩ませた。マリオン・ジョンソンの『ボルジア家』によると、フランスのアルマニャック伯ジャンが、妹との結婚の許可をピウス二世に求めて、仰天させた。その話によると、先代の法王カリストゥス三世の時代に、許可を求めており、その時、法王秘書ヴォルテッラが、カリストゥスの甥ロドリゴに、金貨で三千ドゥカティを献金すれば法王の許可がとれるといわれ、金を渡したが、許可が下りないうちに、法王が亡くなり、再度、新しい法王に頼んできたというのである。
ピウス二世は、ヴォルテッラを投獄したが、金は消えてしまい、ロドリゴとの関係はうやむやになった。
それでもピウス二世は、対トルコの十字軍を起すことを夢見て、その先頭に立とうとしたが、一四六四年、病没した。
新法王に選ばれたパウルス二世は、ロドリゴの旧友であった。ヴェネチア貴族の出で、大金持であり、古代ローマにあこがれ、響宴を催すのが趣味であった。
一四七一年、シクストゥス四世が新法王に選ばれた。その選出にはロドリゴが大きな役割を果し、その功績で、法王使節としてスペインに凱旋将軍のごとく帰国した。スペインはアラゴンとカステイーリャの二王国となっていたが、フェルナンドとイザベルの結婚で一つになろうとしていた。しかし二人は近親者なので、法王に結婚の許可を求めていた。ロドリゴは、今度は本当に、法王との仲介に立ち、許可をとり、スペインに恩を売った。
ローマ法王に選ばれると、親戚を重要ポストにつける、いわゆるネポティズム(縁者びいき)は当然のことであったが、シクストゥス四世ほどそれが激しかった法王はいなかった、といわれる。そのために、フィレンッェでパッツィ家の陰謀を計画し、失敗したことはすでにのべた。一四八四年のコンクラーヴェ(法王選挙)では、いよいよロドリゴが次期法王として有力となった。しかしシクストゥスの甥ジュリアーノ・デルラ・ロヴェレが反対し、インノケンティウス八世が選ばれた。その治世の八年間は、ロドリゴにとって冬の時代であった。彼は人脈づくりを進め、次の法王を狙った。
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ロドリゴの従妹アドリアーナ・デ・ミラは、ローマの貴族ルドヴィコ・オルシニと結婚した。両方とも再婚で、ルドヴィコには先妻の子オルソがおり、彼は、ジュリア・ファルネーゼと結婚した。十四歳の美少女であった。
ロドリゴは彼女に魅せられ、自分の愛人にしてしまった。
※系図ほしい。
一四九二年、インノケンティウス八世が没し、ロドリゴは今度こそ、とコンクラーヴェに出馬した。ラィヴァルは、デルラ・ロヴェレ枢機卿であった。そしてミラノのアスカニオ・スフォルツァ枢機卿も名乗りを上げていた。
デルラ・ロヴェレは優勢のはずだったが、インノケンティウス時代の横暴が反感を買い、フランスとのつながりも不利となった。ロドリゴはアスカニオを買収して、追上げ、あと一票のところまでこぎつけた。最後に、九十六歳のヴェネチア総大司教ゲラルドを口説き落し、法王アレクサンデル六世となった。
「アレッサンドロ六世は聖職売買、大規模な買収、官職売却によって法王位を獲得したと非難されている。(中略)おそらくアレッサンドロ六世は、買収によって法王位を獲得した最初の男といえるかもしれない」(マリオン・ジョンソン『ボルジア家』)
アレクサンデル六世が法王となり、ボルジア家の人々が重職に任命された。法王の右腕となったのは、息子のチェーザレ・ボルジアであった。
「極端な一族登用は珍しい現象ではないが、アレッサンドロ六世は情婦の存在をも公然と示して、法王位に新たな汚辱を加えた」(前掲書)
法王はジュリア・ファルネーゼを公然と愛人にした。ジュリアは義母アドリアーナの家にいたが、そこには、法王の娘ルクレチアも一緒にいた。サン・ピエトロ寺院からそこに秘密の通路があり、法王はいつでも彼女たちに会いにいけたという。
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一四九三年、法王は十二歳の娘ルクレチアをペーザロの領主ジョヴァンニ・スフォルツァと結婚させた。アレクサンデル六世の野望は着々と達成されるように見えた。
それに異を唱えたのがフィレンツェのサヴォナローラであった。彼はやがて神の罰が下ると予言した。すると一四九四年、フランスのシャルル八世がイタリアに侵入し、ナポリと同盟している法王を追いつめた。その危機にもかかわらず、法王はフランス軍に捕えられた愛人ジュリアを身代金を払ってとりもどすのに気をとられていた。
フランス軍はローマに入城した。法王はシャルル八世と交渉し、多くの条件を飲み、ナポリに向うフランス軍に人質としてチェーザレを同行させた。その間に神聖同盟を結成し、反フランス勢力を集めた。
状勢が不利となり、シャルル八世はむなしく引揚げていった。しかしイタリアに混乱と荒廃がのこった。フィレンツェではサヴォナローラの〈神権政治〉が異様な高揚を見せ、アレクサンデル六世攻撃の拠点となっていた。
ローマでは法王の子どもたちが気ままに振るまい、スキャンダルを巻きちらしていた。ホフレ・ボルジアは妻のサンチャと、無制限に金を使い、法王が浪費をたしなめなければならなかった。ナポリ王の庶子であるサンチャは、さまざまな男と遊びまわっているといわれた。ホフレの兄ホアンとチェーザレの両方とつきあっている、と噂された。
法王はナポリと同盟したので、ミラノのスフォルツァ家と疎遠になった。ルクレチアの夫ジョヴァンニ・スフォルツァはじゃまになり、離婚させることにした。ジョヴァンニは男性として不能で、結婚は成立していないという理由で離婚が決まった。法王は娘と近親相姦をしていた、という噂も流れた。
一四九七年、不幸な事件が起きた。チェーザレの弟のガンディア公ホアンが夜遊びに出かけて、何者かに殺されたのである。死体はアスカニオ・スフォルツァの庭園近くのテヴェレ河で見つかった。
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アスカニオは疑われたが、証拠はなかった。ホアンにはあまりに敵が多く、だれが犯人かわからなかった。ホアンの実の弟ホフレが犯人だという者もいた。さらにおどろかされるのは、ルクレチアをめぐってのトラブルから、兄のチェーザレ・ボルジアが、ホアンを殺した、という噂まであった。ボルジア家なら、どんなことでもやってのける、と信じられていたのである。
アレクサンデル六世は、犯人はわかっている、といっていたそうである。とするとやはり身内のだれかだったのだろうか。ガンディア公は彼の最愛の息子であった。
ともかく、ホアンが亡くなると、彼に与えられていた名誉と権力はチェーザレに移され、その強権を揮いはじめた。  ジョヴァンニと別れさせられたルクレチアは、ナポリのアルフォンソ二世の庶子ドン・アルフォンソと再婚させられた。
サヴォナローラと法王の戦いは激しくなり、悲劇的な結末に近づきつつあった。一四九八年、サヴォナローラは火刑となった。
この年、フランスのシャルル八世が没し、従兄ルイ十二世が継いだ。ルイはミラノとナポリを狙っていた。ルイは王妃ジャンヌ・ド・ヴァロアと離婚し、シャルルの未亡人アンヌ・ド・ブルターニュと再婚して、ブルターニュ公国を手に入れるつもりであった。そのため、法王に離婚の許可を求めた。
アレクサンデル六世は、離婚を許可する代りに、息子チェーザレをヴァランス公爵にし、ナポリ王女カルロッタと結婚させる、という条件を出した。
チェーザレは法王使節としてフランスのシノンに行き、ルイ十二世と交渉に入った。しかし、王女カルロッタはすでに他の男と婚約していて、チェーザレをことわったので、ルイ十二世は、自分の従妹で、ナヴァル王の妹シャルロット・ダルブレを推薦し、チェーザレと結婚させた。
チェーザレを嫌っていたフランスの宮廷人は、新郎に下剤を飲ませ、新婚初夜をだいなしにした、などというゴシップが伝わっている。
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ともかく、チェーザレがナポリ王女と結婚しなくなったので、法王はナポリへの義理を感じなくなったのか、フランス軍のミラノとナポリ占領を暗黙のうちに認めたようだ。法王がフランスと組んだと知って、ミラノのアスカニオ・スフォルツァが去った。そしてルクレチアの夫アルフォンソは妻を置去りにして逃げた。アルフォンソの姉で、ホフレの妻サンチャはナポリに帰された。
一四九九年、ルイ十二世はヴェネチアと組んでイタリアに侵入し、ミラノを占領した。チェーザレはフランス王に同行してイタリアにもどってきた。新妻はリヨンに残してきた。再び会うことはなかった。
フランスの侵入に乗じて、法王はチェーザレとルクレチアのための領土を確保しようとした。チェーザレはフランス王から借りた傭兵を率いて、イモラを攻めた。スフォルツァ家の女傑カテリーナが支配していたが、すぐに落ちた。次にカテリーナの本拠フォルリを攻め、彼女を捕虜とした。
一五〇〇年、チェーザレはローマに凱旋した。ボルジア家はローマに君臨し、チェーザレは派手に響宴を催した。ルクレチアの夫アルフォンソはローマにもどってきたが、刺客に襲われ、重傷を負った。ナポリとの縁を切るため、チェーザレが企んだ暗殺ではないかといわれた。その後、アルフォンソはチェーザレを石弓で射ようとしたため、彼の部下に殺されたらしい。
チェーザレは、フランスの協力を得ながら、ロマーニャ地方の征服に出発し、ペーザロ、リミニ、ファエンツァなどを占領した。彼はロマーニャ公爵を名乗った。そしてローマにもどり、フランス軍とともに、ナポリ征服に向った。ナポリはすぐに陥落した。
アレクサンデル六世は、法王領のすべてにボルジア家の一族を配置した。歴史上はじめて、法王領のすべてが一つの家の支配となった。
法王はさらに、ルクレチアに、フェラ
ラ公国のアルフォンソ・デステとの三度目の結婚をさせた。イタリアの中央部に、ボルジア家の王国が広がっていた。チェーザレは恐怖政治を敷いた。
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「ボルジア家のスパイが商店、路地、広場、私人の家に潜んでおり、チェーザレに批判的な言葉を吐けばただちに密告され、反逆罪で告訴された」(前掲書)
一五〇二年のイタリアは、各都市が互いに争っていたので、ボルジア家には有利な状況であった。チェーザレはウルビーノを占領した。オルシニ一族の煽動で傭兵隊長たちが反乱した時、彼らと和解するふりをしてセニガッリアに集め、全員を逮捕して処刑した。そのやり方は、マキャヴェリを感嘆させ、チェーザレを彼の理想の君主にした。
中部イタリアにボルジア王国を築こうとするチェーザレの野望は着々と達せられるかに見えた。しかし暑い夏が来て、ローマにマラリアが発生した。法王とチェーザレもかかった。法王は急死した。かつてボルジア家のやり方にあこがれたマキャヴェリは、「アレクサンデルは、三人の忠実な侍女、残虐、聖職売買、好色に付き添われて逝った」と冷やかに書いた。
状況は新しい法王の選挙へ一挙に動き出したが、チェーザレは病いに臥していた。ボルジア家の宿敵ジュリアーノ・デルラ・ロヴェレはローマに乗込んできた。混乱の中で、チェーザレはなんとかロヴェレの当選を回避し、ピウス二世の甥ピウス三世を法王とした。しかし、病弱で、選ばれて二十六日後に急死した。チェーザレはやむなくデルラ・ロヴェレと妥協し、法王に選んだ。ユリウス二世である。
このどさくさの間に、ヴェネチアがチェーザレの征服したロマーニャ地方に手をのばしてきた。ファエンツァ、リミニが占領された。チェーザレはナポリに逃れたが、スペイン王に捕えられた。その後脱出して、妻の兄であるナヴァル王ジャン・ダルブレに頼った。そこで傭兵隊長として戦い、一五〇七年に戦死した。ボルジアの悪夢は去った。
ボルジア家といえば毒薬が有名である。チェーザレの側近にはセバスチャン・ピンソーンという毒薬の専門家がいたという。ただし、当時の技術からして、毒薬がどのくらい効果があったかは疑問である。確かに毒薬がはやったが、病死でも毒殺の噂が立ち、その多くが悪名高きボルジア家のせいにされたようだ。
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ボルジア家の政略の道具とされ、父や兄弟との近親相姦まで噂された薄幸の美女ルクレチア・ボルジアはどうしたろうか。フェラーラのアルフォンソ・デステとの結婚は厳しいものであった。エステ家はボルジアの娘をいやがっていたし、アルフォンソの姉でマントヴァのフランチェスコ・ゴンザーガに嫁いでいたイザベラ・デステは意地悪であった。彼女には、宮廷詩人エルコーレ・ストロッツィやヴェネチアの詩人ピエトロ・ベンボーなどの交流が慰めであったという。
父の法王の死後、ルクレチアの立場は不安定になったが、彼女はしだいにフェラーラの宮廷で、自分を確立していった。ボルジア家の家系から自由になっていったともいえる。冷たい義姉イザベラに対して、その夫フランチェスコは彼女にやさしかった。そして晩年は、「善良な公爵夫人」と呼ばれ、フェラーラの人々に聖女のごとく慕われたという。ボルジア家の最後に、さわやかな香りを漂わせたのである。
p166
チェンチ家の悲劇
十五世紀末のボルジア家の悪徳の物語は豪華約欄であるが、十六世紀末のチェンチ家の罪の物語は、ひどく卑小で、平凡である。それはルネサンスの黄金時代の落日、燃えかすともいえるようなわびしさを感じさせる。それにもかかわらず、偉大さのかけらもない、そのけちなスキャンダルは、私たちにどこか響くところがある。数百年前の事件というより、今でも三面記事に出ていそうな身近さがあるからだろうか。
それは家庭内暴力から起きた事件だ。横暴な父親がいる。彼は後妻をもらい、先妻の子どもたちに暴力を揮う。さらには自分の娘を強姦してしまう。その仕打ちに耐えかねた家族たちが父親を殺してしまう。その事件が発覚し、家族は逮捕され、見せしめに残酷な死刑を受ける。近親相姦、父親殺しというショッキングな事件と、虐げられた娘が、むごたらしく処刑される結末が、恐怖と隣れみを引き起こす。
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一五九九年にあったこの事件は、歴史的に見れば、小さな、私的なスキャンダルにしかすぎなかったが、なぜか文学的想像力をかきたて、スタンダールは『イタリア年代記』でこの事件をとりあげ、詩人シェリーは悲劇『チェンチ一族』を書いた。現代の作家モラヴィアも悲劇『ベアトリーチェ・チェンチ』を書いている。
チェンチは、オルシニ、コロンナなどとともにローマの古い家柄であった。十五世紀はあまりばっとしなかったが、十六世紀のはじめ、クリストーフォロ・チェンチが枢機卿となり、ローマ聖庁会計院の収入役として、莫大な富を築いた。彼は人妻であったベアトリーチェを愛人として、フランチェスコを生ませた。時の法王パウルス三世から、聖職者としてあるまじきこと、と小言をいわれたが、賄略を贈ってごまかしてしまった。
フランチェスコは道楽息子として育ち、すぐかっとして暴力を揮うことでも知られていた。彼はエルシリァという金持の娘と結婚し、七人の子を生ませたが、さらにあちこちの女と遊んでいた。
一五七七年、ベアトリーチェが生れた。この事件の女主人公である。一五八四年に母親が亡くなると、ベアトリーチェは姉アントニーナとともにサンタ・クローチェ僧院の寄宿学校に入れられた。父親のフランチェスコは、放藻生活をつづけていた。
一五八五年、シクストゥス五世が法王となった。頽廃したローマ社会を厳しく取締ろうとしたが、一五九〇年に急死し、しばらく混乱がつづき、一五九二年、アルドブランディーニのクレメンス八世が選ばれた。この法王がチェンチ家に厳しい目を向ける。
フランチェスコは新しい家に引越し、子どもたちを引取って一緒に暮らすようになった。ベアトリーチェは十五歳の美しい少女となっていた。

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