20160927 一休を歩く 水上勉 12 鬼門の関に住す/譲羽

12 鬼門の関に住す/譲羽

p161
康生三年(一四五七) 一休六四歳
『自戒集』を編んだ。これは(先にも述べたように)、師兄養叟への反抗文集といってもいい、激しい挑戦状である。どこで書いたか不明であるが、おそらくこの年あたりから、薪村の妙勝寺復興に手をつけているので、酬恩庵で書かれたものだろう。戦後になって発見された場所が酬恩庵でもあるから、九分どおり信じていい。ところが、この本は一休の直筆に誰かが手を加えた疑いがあって、一休と誰かの合作とも思える。いずれにしても、激しいことばの羅列で、養叟は癩病をわずらっているとまでののしられている。(略)
p162
これが一休和尚の文章かと疑いたくなる激しいものだが、養叟が癩者であるはずもなく、このような罵言をあびせてまで、陽春庵で禅を売る兄弟子を攻撃したかったのだろう。
(略)養叟は、長禄二年(一四五八)六月二十七日に、偶然にしても華叟の命日を選んだように死亡しているし、また、この三年前に大徳寺が焼亡したのを、自坊をこわしてまで復興していた。紫野の仏法を守る住職として、地獄の工夫を養叟なりにつづけていたことになろうけれど、一休には、眼の仇のコブのように思われたとみえる。
また、これと前後して、一休は『骸骨』を発表。はじめての仮名法語。一般庶民にもよくわかるように書かれているが、一休自身の挿絵入りで、『骸骨』の宴会や、踊りが巧妙に描かれ、それに文章が加えられている。
「いにしへは道心をおこす人は寺に入りしが、今はみな寺をいづるなり。見ればぼうずに智識もなく、座禅をものうく思い、工夫をなさずして、道具をたのしみ、座敷をかざり、がまん(うぬぼれ)多くして、ただころもをきたるを名聞(みょうもん)にして、ころもはきたるとも、ただとりかへたる在家なるべし」
p163
といっている。やはり養叟一派の公案売りが頭にあったようだ。この末尾に、康生三年 (一四五七)四月八日と日付があって、わざわざお釈迦さまの誕生日にしているところなど、含むところがあるとみる。また四月十日は、臨済忌。応、燈、関の純禅の源流にそびえる、臨済恵照(*1)禅師の命日だ。紫野の仏法の堕落をなげいて、骸骨を借りて諸行無常を説法するこの法語は、一休文芸の卓抜さをうかがわせて、興味深いのだが、一休は、尸陀寺をまた(?)出て、狂乱の京都に出没したのち、薪の妙勝寺にきて、大応国師の寺が荒廃しつくしていたのを復興しながら、民衆にもわかる仮名法語を書くのである。
(*1)臨済(りんざい。生年不明~八六六)唐の禅僧。曹州南華の人。名は義玄、諡は慧照禅師。臨済宗の祖。一説に八六七年生まれ。黄檗希運の法を継ぎ、参禅修行者には厳しい喝を与え、中国禅宗のなかで臨済宗は最も盛えた。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
p163
大応が妙勝寺に住んだのは、わずかの期間だけれど、開山であるから、一休はわざわざ出入りの仏師に大応の木像を彫らせて開山堂を設立する。いまも、この木像と堂宇は残っている。酬恩庵というのは、つまり、大応開山の妙勝寺を、守る庵である。恩にむくいるとは、大応の恩であり、それは、大燈、徹翁、言外、華叟とつづいてきた純禅の恩である。一休は、華叟の禅は、養叟などにうけつがれていると思っていない。自らの肩にかかっていると自負しているのだから、この祖堂復興は、(京都紫野の)大徳寺への面あてともとれるし、純禅復興の槌音でもあった。もはや、乱れた京都では偽禅はともかく純粋禅はあり得なかった。田辺の薪村に、一休は純禅の根拠地をおいたのである。いまも残る一休寺は、この妙勝寺と酬恩庵を併称している。
田辺の薪村は、木津川に近い山の端にあって、小高い丘陵にかこまれた閑雅な里村だ。むかしから、舟便で、薪材を京都に送った歴史から、薪村とよばれた。京都から当時は舟が通った。木津川は笠置山の水をあつめて下ってくるけれど、田辺の里でやや北に向かって流れをかえたあと桂川と合流して、淀川に入るのである。

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