20160805 伊東潤 黎明に起つ 2

p240
新将軍義尹は、今川氏親、伊勢宗瑞、長尾景春(伊玄)、信濃の高梨政盛、出羽の伊達尚宗、越後の長尾為景(顕定の弟を殺害)らに、顕定を討つよう御教書を出していた。
長年にわたり足利義澄を支援してきた顕定に、義尹は深い恨みを抱いていた。
「伊玄殿にお伝えせよ。承知したとな」
「はっ」
使者がかしこまった。
(略)
長尾為景は、傀儡として守護にしていた上杉定実と共に、越中国に逃げた。
p241
長尾景春も挙兵。
p242
宗瑞も挙兵。
海路、相模国中部の大磯に。高麗寺山北麓の殿上台地に陣を構え、眼下の住吉要害に兵を入れた。(略)
むろん宗瑞が意識していたのは、一里半ほど真北にあたる岡崎城。
岡崎城主の三浦道寸。
高麗寺山に着陣した宗瑞は、上田正忠・政盛父子。
宗瑞は、権現山城で旗揚げさせた。この城を押さえられれば、扇谷上杉家の財力を支える江戸湾交易を麻痺させられる。
※この時点で宗瑞は、扇谷上杉チームではない。
p243
上州にいた朝良は驚いた。
権現山城は江戸城の南西六里。扇谷上杉家の内懐。そこでの反乱は江戸城さえも危うくなる。憲房の越後入りを支援すべく上州にいた朝良はすぐに江戸城に戻れない。
■永正六年(一五〇九)
八月、権現山城に入った宗瑞は、上田勢と共に江戸城付近まで攻め上り、江戸城のすぐ西にある貝塚村(大森?)まで制圧。江戸城は攻めず寡兵ゆえに引いた。
それでも朝良は、上州から動けない。越後が悪化するばかりだから。八千の軍を食べさせるため、顕定は略奪を容認。結果、各地で一揆が頻発。
■永正七年(一五一〇)
三月、顕定は雪解けと同時に一揆掃討作戦。ことごとく失敗。
p244
退き戦を展開しつつ、三国峠を目指した顕定は、六月二〇日、長森原で、討ち死に。関東管領として君臨した男の呆気ない最期。
この長尾為景の勝利には、長尾景春と伊勢宗瑞も貢献。二人の挙兵により、上杉方が思うように越後に後詰め勢を送れなかったことが、為景の勝因の一つだから。
誤算はここから。
三国峠を越え、関東勢が続々と帰還。
いかに敗軍とはいえ、憲房率いる上杉方の主力は健在。
長尾景春は、相模国まで兵を引き、津久井城に。宗瑞も、小田原城に戻った。
七月一一日、上杉方は権現山城攻め。衆寡敵せず、一九日、権現山城は陥落。

〈七〉p245
p247
この戦いは敵の手の内を探るためのものと、宗瑞は割り切っていた。
─今は伊玄入道(長尾景春)と共に敵を揺さぶり、後日の決戦のために力を蓄える。
(略)
p248
八月下旬、三浦道寸・義意父子により、宗瑞は住吉要害を攻略され、高麗寺山から撤退。
しばらくこの地に駐屯した道寸は、九月、敵の追討と近辺の守備を息子に任せると津久井方面に向かった。
長尾景春が、津久井城で挙兵したからである。(略)
その後、長尾景春(伊玄)は、上州猿が京で山内上杉憲房を破り、白井城に帰還することになる。文明八年に反旗を翻してから、三五年。本領を回復した景春は、六八歳になっていた。

長尾景春Wikipedia

※実際は?
景春は関東、為景は越後の室町秩序の破壊者。
─わしは、それ(破壊)だけでは終わらぬ。
宗瑞は空を睨んだ。
p249
朝良と道寸は、一気に小田原城を突くことで一致した。
季節は一〇月。(略)戦の勝敗はつかず、翌日、扇谷勢は兵を引いた。四千人分の食料が確保できなかったからだ。
一二月、朝良と道寸が再び小田原城に。攻防戦は膠着。

※永正の乱と呼ばれる古河公方家の内訌。後日。

朝良は(略)双方の和睦を提案。
両陣営の和睦を提案するのであれば、朝良は早急に小田原から撤退するしかない。
p257
怒る道寸を説き伏せ、朝良は退き陣に移った。
単独で小田原城を攻めるのは、さすがの道寸とて荷が重く、朝良に従った。
これにより宗瑞と道寸は、相模国の西部と中部でにらみ合いを続けることになる。

〈八〉p257

古河公方家同様、関東管領・山内上杉家の内訌も激化の一途。永正七年(一五一〇)に顕定が越後で敗死して、遺言で、政氏の弟・顕実が家督と管領職を継承したが、それで憲房が収まるわけもない。
高基と結んだ憲房は政氏・顕実兄弟と対立。北関東全土に合戦。
朝良は宗瑞の抑えを道寸に一任。政氏を支援するため北関東に行くことが多くなっていた。
朝良は、永正七年の小田原攻防戦で宗瑞を封じ込めたので、当面、宗瑞が、積極的な攻勢をとれないと読んでいた。読み通り、永正八年(一五一一)は、宗瑞には我慢の年。
■永正九年(一五一二)
四月、関東で大きな戦い。
p258
政氏・顕実チームと高基・憲房チームの直接対決のきっかけに。
六月、憲房チームが、鉢形城に攻め込み、顕実を古河に自落させた。
七月、政氏は高基により古河を追われ、下野祇園城の小山氏のもとに身を寄せた。
朝良は乱の沈静化に努めるべく、主力勢を北関東に常駐させねばならず、宗瑞の抑えは三浦勢だけとなっていた。
遂に機は熟した。

八月一二日の夜、ひそかに小田原城を出陣した伊勢勢は未明、岡崎城の西の尾根続きにある岡崎台に陣を布いた。

p266
■永正一〇年(一五一三)
三浦勢と鎌倉を挟んで対峙したまま、宗瑞は、五八歳の正月を玉縄城で迎えた。
※後日
p276
永正一〇年(一五一三)正月のこの戦いは、後に鎌倉合戦とよばれる。

〈九〉p276
p278
三月、三浦半島沿いに南下を続けた宗瑞は、遂に半島南端に達した。
(略)
四月、膠着状態を打開すべく宗瑞は夜襲を掛けてみた。
p280
九月、膠着状態が動いた。道寸の女婿にあたる太田資康が、扇谷勢を率いて南下してきた。(略)
資康は、長享元年に父の道灌が主の扇谷上杉定正に謀殺された際、激しく抵抗し、その身を山内方に投じた。その時、資康に同調し、共に山内方となって扇谷家と戦ったのが道寸である。
延徳三年、長享の乱の第一幕が終わった時、資康と道寸は、揃って扇谷チームに戻ったが、以後も共同歩調。扇谷チームだが、太田・三浦両家は、独自の攻守同盟。
「太田資康の扇谷勢南下」と聞いた宗瑞は、即座に玉縄まで戻り、勝った。道寸を救えなかった資康は、粟船で自害。
p282
■永正一一年(一五一四)
三月、宗瑞の恐れていた知らせ。
山内と扇谷の両上杉家が和睦。
己の足元に火がついたことを覚った扇谷上杉朝良は、なりふり構わず山内上杉憲房に頭を下げると、共に相模南部(の宗瑞のもと)に出兵することを頼んだ。
扇谷家が頭を下げることで、名実ともに関東管領となった憲房はこれを快諾。憲房も三浦半島の戦い(宗瑞対道寸)が気になっており、両家が足並みをそろえて、新興勢力の伊勢家を封じ込めることに異論はない。
四月、大挙して両勢は南下開始。先手の太田備中入道永厳を津久井方面へ。(略)
p283
五月、小田原に至る街道の途中で、伊勢方の待ち伏せに遭った永厳は呆気なく敗退。
これにより、憲房と朝良の思惑が狂った。
小田原を永厳が牽制することで伊勢方を浮き足立たせ、その間に多摩川をわたり、玉縄城まで攻め寄せようという当初の方針が失敗。
まず憲房が兵を引き、しかたなく朝良も川越に戻った。中途半端に、両上杉家による三浦半島後詰め作戦は終わった。
この年の後半から、翌永正一二年(一五一五)末頃までの一年半、宗瑞は、扇谷家の制する江戸湾と西国をつなぐ〈海の道〉を断つべく、海戦を中心に展開した。(略)
永正一一年夏に、宗瑞は、扇谷家の支配下にあり江戸湾交易を掌握する奥山一族を滅ばした。これで江戸湾から伊豆七島までの制海権を奪った。
■永正一三年(一五一六)
六月、古河公方政氏を支持する佐竹・岩城両氏が、下野国の縄釣(なわつるし)で、高基に味方する宇都宮勢と戦い、大敗北した。
p284
これにより、小山氏の祇園城にいられなくなった政氏は、朝良の岩付城に移った。佐竹氏らの敗戦は、古河公方家の内訌に決着をつけるものとなり、政氏に勝利の目がなくなったことを、朝良も認めざるを得なくなる。
そうなれば、いよいよ自らの足元についた火を消さねばならない。
朝良は扇谷家を上げて道寸を救うことを決意し、養子の朝興(ともおき)に全軍を率いさせ、相模国に侵入。
p288
八分の勝ちだが、十分だ。この一報が伝われば、武蔵にいる朝良は落胆し、三浦勢への後詰めをあきらめるかもしれず、また新井城の三浦勢も、意気消沈するに違いない。(略)
※緒戦は宗瑞の勝利。
p289
翌日、扇谷方は岡崎の地を捨て、武蔵方面に撤退。
相模中部で、後詰決戦を挑んできた扇谷方を阻止することに成功した宗瑞は、すぐに三浦半島南部に戻った。
たまたま季節は、春彼岸に撒いた種籾が芽を出すころであり、武蔵に引いた扇谷勢は、いったん兵を農地に返し、田んぼの荒起こしや代掻きをさせねばならない。
これにより扇谷勢は、一月ほど兵を出せないはずである。宗瑞は思った。
─六月半ばからの一月が勝負だ。

p290
■永正一三年(一五一六)
六月半ばから三日と空けず攻撃を仕掛け、または仕掛ける素振りを見せては兵を引くことを繰り返した。
七月一一日、(略)三年の歳月をかけ、遂に伊勢勢は、外の引橋の制圧に成功。
※引橋は現在地名に残る。
p291
外の引橋を少し行くと、新井城と三崎城に向かう分岐がある。宗瑞は三崎城の抑えを氏綱に託すと、新井城に向かって狭い尾根筋を進んだ。(略)

p303
討つ者も 討たるる者も かわらけよ
くだけてのちは ただのつちくれ
※道寸辞世の句

p309
■永正一六年(一五一九)
七月二日、人事不省。
八月一五日没、享年六四歳。

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