20160701 伊東潤 黎明に起つ 1

20160701 伊東潤 黎明に起つ 1

出版社 NHK出版
発売日 2013/10/24

登場人物一覧

伊勢新九郎盛時
後の早雲庵宗瑞。幕府申次。小田原北条氏の初代当主。生誕年は最新の定説では、康正二年(一四五六)。長らく永享四年(一四三二)が定説だった。

今川竜王丸(後の氏親)
父は今川義忠。母は北川殿(早雲の姉)。駿河今川家八代当主。早雲の甥。息子に義元(信長に敗れた)。

p17
■嘉吉元年(一四四一)赤松満祐
※後日
p15
■寛正五年(一四六四)一二月、還俗義視
※後日
p16
■文正元年(一四六六)九月、貞親が義視を讒言
義視を(この時点では)支持する細川勝元に貞親は弾劾され、義政に切腹を命じられる。文正の政変。
貞親は政所執事を辞し詫び。近江に隠棲。
※後日
p18
■(一四六七)正月、応仁・文明の乱の端緒となった御霊合戦
五月、義政は手に負えず、貞親の罪を許し、ひそかに近江から呼び戻した。事態を収められるのは双方に顔の利く貞親しかいない。(と判断したが…)
八月、山名方すなわち西軍の大内政弘が
※後日
九月一三日、西軍が内裏を占拠。

義政は、義視が宗全と手を組むことを恐れ、京に戻るよう要請。
義視は京に戻るが、貞親を怖れており、伊勢家に人質を要求。
※早雲の登場。というストーリーに仕立てている。なかなか。

p28
■(一四六七)一〇月三日、相国寺は三日間燃え続け

p33
多気御所
※おそらく北畠神社

p42
■応仁二年(一四六八)
九月、洛中の戦火が一段落。義視は京に戻る。
p57
一〇月、貞親が政所執事に。北岩倉の将軍家別邸に逃げていた(史実?)義視は驚愕し、細川勝元に阻止を要請。すでに義視に愛想を尽かしていた勝元は、逆に義視に出家を勧めた。怒った義視は西軍に。東西二人将軍。西幕府は南朝末裔を探す。

p63
■文明五年(一四七三)正月、将軍義政を陰で操っていた〈伊勢の狐〉こと伊勢貞親が死んだ。
三月、山名宗全没
五月、細川勝元没
一二月、義政が将軍職を息子の義尚に。戦乱は地方に飛び火。
p63
■文明八年(一四七六)二月、今川義忠(早雲の義兄)が遠江で討ち死に。
p96
嫡男で六歳の竜王丸を支持する一派と、※後日。

p83
■文明九年(一四七七)九月、最も好戦的な畠山義就が、従弟の政長と決着をつけるべく河内国に下ったことで、応仁・文明の乱は終結の好機を迎えた。
一一月、西軍の最大勢力の大内政弘が東軍に降伏し、帰国。降伏といっても、周防・長門・豊前・筑前といった領国を安堵された上、幕府から新たに所領を下賜。(略)幕府は面目を、政弘は実利を。
義視は和睦反対。息子の義材(よしき)を伴い、土岐成頼を頼って美濃国に落ちる。
p83
■文明一〇年(一四七八)七月、前将軍義政は義視を赦免する。義視は美濃国茜部荘に引きこもり、拒否。

p96
■文明一一年一二月、(略)貞宗が、前将軍義政に、家督相続を認めるという御教書を下させていた。

p63
■文明一二年(一四八〇)二月、新九郎は盛時と名乗り、二五歳。備中の所領統治。

p93
■文明一九年(一四八七)正月、伊勢貞宗の口利きにより、(三十二歳の)新九郎は正室を娶った。足利義尚の弓馬(きゅうば)指南の小笠原備前守政清(まさきよ)の娘・華子。(略)この年の暮れ、新妻は、新九郎の跡を継ぐ氏綱を生む。
※『南原幹雄 謀将北条早雲〈上〉p212 』では文明一五年と読める。

p100
■長享元年()九月、新九郎は、単身、駿河に向かった。

第二章

p105
堀越公方府の起こり

※ 7代将軍足利義勝の異母弟で8代将軍足利義政と足利義視の異母兄。(Wikipedia 足利政知)

p132
■長享二年(一四八八)
六月、京都の伊勢貞宗と細川政元から帰洛要請を受けた新九郎は駿河の所領管理を託し、京に向かった。

p133
■長享三年(一四八九)
三月、前月より人事不省の九代将軍義尚が、 近江国栗太郡鈎(まがり)(滋賀県栗東市)の陣で没。
p134
義材陣営は、義視、富子、畠山義就。
清晃陣営は、細川政元、伊勢貞宗、畠山政長。(足利政知も)
図らずも権力を取り戻した義政だが、かねてよりの中風が悪化で寝たきり。病で気弱になった義政は富子の勧めもあり、義視父子を美濃から呼び戻した。これで義視と富子の連携はより強固に。
p134
■延徳二年(一四九〇)
正月、義政がこの世を去ると、富子は義政の遺言と称して、新将軍に義材を。将軍は義材に内定、父の義視は「摂行(せっこう)」という非公式な地位に。いわゆる将軍の後見人。
権力を握った途端、義視は豹変。富子をないがしろに。
四月、わずか三月で義視と富子は決裂。富子は政元と手を組む。清晃支持に回った富子は、殺される危険のある清晃を故義政の別邸・小河第に入れて保護。
五月、怒った義視は、浮浪の徒を使って小河第を破壊。前代未聞。
七月、※後日

※義視の正室は日野富子の妹(妙音院、日野重政の娘、良子?)。

p138
■延徳三年(一四九一)
一月、将軍義材の後ろ盾の義視が死に、義材の立場は不安定に。富子は義材を見限り、細川政元(足利政知の息子清晃(義高のち義澄)派)支持。これ幸いと政元は越後まで行き、上杉房定(ふささだ)・房良(ふさよし)父子と面談。
四月、今度は足利政知が没。
p139
このどさくさに紛れて、茶々丸は土牢から脱出。(略)
七月、義母とその息子潤丸を殺害。
p142
東西呼応して、世を刷新する。
※京都で清晃を将軍に(義高のち義澄)。関東で茶々丸から伊豆奪回。茶々丸は清晃の実母と同腹弟の仇。

p143
明応元年(一四九二)
一二月、
明応二年( 一四九三 )
二月一五日、
二四日、
p144
四月二一日、
翌二二日、
かくして明応の政変は、政元と貞宗の思惑通りに成功した。

p143
明応二年(一四九三)
一〇月、韮山御所(堀越公方)を新九郎は攻める。茶々丸は逃亡。

p147
明応三年(一四九四)
正月、かくして早雲庵宗瑞という男が誕生した。新九郎、三八歳の初春である。

p148
明応三年(一四九四)
四月、宗瑞はひさしぶりに都へ。
※清晃=義高=義澄。第一一代将軍。

p149
※ここで明応二年四月の政変のあとの流れの記述。時間が一年もどるのでややこしい。
細川政元が占いに凝ったこと。政変の日時、将軍の改名、行事の日程変更など。
■明応三年(一四九四)
一二月二七日、 義澄が将軍に。
※義澄は幕政を壟断する政元の傀儡に過ぎず,永正4(1507)年6月に政元が暗殺されると幕政は混乱,翌年義稙の再入洛により近江に逃亡した。3年後,近江九里城で病死。細川氏の専制,つまり戦国大名化により圧迫された悲劇の将軍といえる。(kotobank)

p190
■明応六年(一四九七)
ようやく伊勢宗瑞は伊豆制圧にかかる。
中伊豆を守る狩野一族の勢力は強い。狩野道一は茶々丸の外祖父。血縁の絆。さらに在地の衆から慕われていた。
「丸ごと取り込めばよい」
p191
■明応七年(一四九八)
七月、甲斐に隠れていた茶々丸が、奥伊豆の深根城に戻った。
p195
八月二六日、宗瑞率いる一千の軍は、清水湊を出帆。
p196
伊豆南部稲津郡の深根城は、伊豆国守護職・山内上杉家の代官所。(略)
p207
等持院様(尊氏)の血を引く者(茶々丸)の最期を(略)
p210
深根城を落とすことで、ようやく宗瑞は伊豆一国を制した。
韮山御所への討ち入りから、足掛け六年。
茶々丸の死が確かになると、宗瑞に敵対していた国衆が次々臣従。
北伊豆のように、宗瑞は、「侍百姓、何人たりとも馳せ参ずれば、本知行相違あるべからず」という高札。つまり、これまでの敵でも、素直に詫びを入れて傘下入りすれば、罪を問わない。
臣従者の中に、狩野一族。
宗瑞は賓客のように迎え入れ、堀越公方(茶々丸)に対する忠誠をほめあげたうえ、所領安堵した。
死罪を覚悟していた狩野道一らは、歓喜にむせび、宗瑞への忠誠を誓った。
問題は、味方にどう報いるか。
宗瑞の秘策。検地。隠していた田を明らかにして領主の収入を増やす。余剰米を、武功者への褒美とする。
p211
それゆえ、これまでの五公五民から四公六民に移行しても、宗瑞は、十分な資金を蓄えることができた。宗瑞は常識を破り、優遇税制と増収という二律背反した課題を克服。
※ここは疑問。美談に対する各人の解説だろう。
宗瑞は、(略)〈海の道〉を掌握し、伊勢大湊から運ばれる西国の物資を東国に行き渡らせることで、大きな利益を上げようとしていた。

p212
赤沢宗益(そうえき)。細川家の家宰。
氏親と宗瑞は、義高と政元から切り離された。
p213
■明応八年(一四九九)
九月、細川勢を率いた宗益は、南山城で畠山尚慶勢を撃破。
あせった義尹(義材が改名)は、越前の朝倉貞景勢とともに敦賀から琵琶湖東岸を経て上洛を目指すものの、その途中、六角高頼勢に邀撃され、朝倉勢は瓦解。義尹は周防の大内義興のもとに逃げ込んだ。
赤沢宗益の政治力を前に義尹の勢力は壊滅。将軍義高の座は盤石。しかし義高と細川政元の発言力はなくなり、宗益の専横はここに極まった。

p216~221
※宗瑞と三浦道寸の会見が書かれている。後日。
p218
「宗瑞殿、大森家を滅ぼすなど許さぬ」
「大森家は山内上杉に味方し、われらの敵となった」
「わしの出自を知らぬとは言わさぬぞ」
道寸の父は扇谷上杉家の出身で、母は大森氏頼の娘。つまり、道寸には鎌倉幕府創建に貢献した三浦一族の血は流れていない。
ゆえに道寸は三浦の血を引く者以上に三浦の武士として生き、死なねばならぬ。
「大森家が道寸殿と血縁深いとはいえ、大森家が、扇谷上杉家を離反したことに変わりはない」
※つまり、宗瑞は、扇谷上杉チーム。
p220
「宗瑞、いかに悪逆な韮山御所(茶々丸)とはいえ、室町幕府被官の身でありながら、足利家の血を引く方を殺した。そしてまた、鎌倉公方から小田原周辺の地を与えられた大森家を討つという。なんと恐ろしい男よ」
─わしは時代の破壊者かもしれぬ。しかし、そのあとの時代の姿を、わしは思い描いている。

p224
■文亀元年(一五〇一)
二月、宗瑞は小田原を攻略した。(略)突然のことに、大森一族は小田原城から自落。(略)かくして宗瑞は、相模国へ進出。
※牛の話はない。

p225
■永正元年(一五〇四)
八月、古河公方(足利政氏)を奉じた(山内上杉)顕定は、鉢形城を出て、扇谷(上杉)家の本拠・河越城を攻めた。
扇谷上杉朝良(ともよし)は各地に援軍要請。

p227
九月二七日、(略)
宗瑞の編み出した兵種別編成
(略)
連歌師柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)の記した『宗長手記』(略)
後に立河原合戦と呼ばれるこの戦いは、扇谷方の完勝。
p228
■永正二年(一五〇五)
三月七日、顕定は河越城を攻めた。(物懸りを掛けた?)(略)朝良は古河公方(足利政氏)を介して、顕定に和睦を申し入れ。事実上の降伏。

長享の乱は終わった。

■文亀三年(一五〇三)
その二年前の五月、政元は、阿波の細川成之(しげゆき)の息子・六郎を養子に。後の澄元。
■延徳三年(一四九一)
その一二年前、修法に凝った政元は妻も娶らず子もいなかったのですでに九条家から養子・澄之を。
・参考(同年その他の出来事)
(延徳3年7月1日) – 足利茶々丸が継母円満院と弟の潤童子を殺害して堀越公方の家督を継ぐ。
(延徳3年8月27日) – 将軍足利義材、近江の六角氏を攻めるべく出陣。(Wikipedia 延徳三年)
※つまり内訌のタネを自分で蒔いた。

■永正三年(一五〇六)
四月、澄元が阿波より兵を率いて入京し、実力で細川家の実権を掌握。
同年九月、宗瑞は今川家のために三河国に出陣。
一一月、西三河の吉良氏(与党)領を除く三河国を、今川家のものとした。
p230
■永正五年(一五〇八)
八月から十月、宗瑞は、反攻に出た松平勢鎮圧のため奥三河まで。宗瑞の遠江・三河方面への遠征はこれが最後。
いよいよ宗瑞は、今川家からも自立しようとしていた。

p233
すでに将軍義澄(義高から改名)も、管領の政元も宗瑞を見捨てた。扇谷家を盛り立て、山内家と古河公方を倒すという戦略も、三者の間で同盟が締結された今は意味がない。
つまり、自分の力で関東の守旧勢力を一掃するしかない。
宗瑞は、十分の一の力で両上杉家に戦いを挑むことになる。
※相模・武蔵・上野で一三〇万石に対して、宗瑞はおよそ一三万石。

p234
勝つために、新たな枠の中に入り、政治的優位を築く必要。
宗瑞は、前将軍・義尹(よしただ)陣営と接触。
伊勢貞宗(貞親の子。宗瑞の従兄弟)が隠居して久しい今、窓口になったのが、西三河の吉良義信。足利家御一家衆の義信は京にいて、ひそかに周防にいる義尹と連絡を取っていた。

※参考

足利義材【あしかがよしき】 足利義視の子。初名義材(よしき),のち義尹(よしただ)・義稙と改名。

足利義澄 あしかがよしずみ
室町幕府 11代将軍 (在職 1494~1508) 。政知の子。初め天竜寺香厳院主清晃,還俗して義遐 (よしとお) ,義高,義澄と改名。

p234
■永正四年(一五〇七)
九月、京都に派遣していた部下(荒川又次郎と有滝兵衛)が韮山に突然戻ってきた。
p235
「京兆家様(細川政元)が亡くなりました」
(略)
「澄元様上洛後、もう一人の養子の澄之様の立場は悪くなりました。そこで澄之様は、養父の京兆家様にならい、政変を起こしました」
p236
永正四年六月、澄之は政元を暗殺し、管領に。ところが八月、澄之は一族の細川高国により討伐。高国も政元の養子。
「それにより、晴れて澄元様が、京兆家の名跡を継ぐことに」

p237
■永正五年(一五〇八)
四月、前将軍の義尹が大内勢を率いて上洛。
p238
細川高国はなんと彼らと協力し、将軍義澄と管領澄元を放逐。
のちの永正八年(一五一一)近江に隠棲していた将軍義澄は、失意のうちに病没。享年三一。
六月、入京した義尹は七月、将軍職に返り咲く。高国も、細川宗家(京兆家)の家督と管領の座を手にした。
将軍義尹と管領高国を、大内義興の軍事力が支えるという新体制。
宗瑞は、氏親に祝賀使節の派遣と礼物の献上をさせたので、氏親は、義尹から遠江守護職を与えられた。
これによって義澄を支持してきた斯波義寛(よしとお)は、名目上も遠江を失った。
前年の永正四年(一五〇七)八月、突如、越後守護代の長尾為景は、越後守護の山内上杉房能を急襲。房能は自刃。下剋上である。
p239
■永正六年(一五〇九)
七月、房能の実兄である関東管領の山内上杉顕定が八千の兵を率いて三国峠を越えた。
(略)
「この機を逃さず、起とうとな」
七月下旬、長尾景春の書状を読んで、宗瑞は笑った。(略)
p240

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

w

%s と連携中