20160621 籔景三 筒井順慶とその一族


出版社 新人物往来社
発売日 1985/7/1

参考 大和国のお城一覧

参考 国民(春日神人)
 大和国の春日神領国化の始まりだが,神仏習合思想を利用して春日社との一体化を進めていた興福寺は大和国の支配を主張,1135年春日若宮社を創建,翌年から若宮祭を大和一国の大祭として興福寺境内で執行,神国大和を称して国中の社寺の末社・末寺化や社寺をまつる在地領主の土豪らの従属を強いた。土豪らを衆徒(末寺坊主),国民(末社神主)に列して在地代官とし,僧兵として武力に起用した。この末社末寺制と衆徒国民制とによって興福寺は大和国の支配組織を完成,摂関家代官の大和国司を有名無実たらしめた。(抜粋)
 1451年(宝徳3)には当時大乗院があった禅定院が土一揆の放火に類焼し,応仁・文明の乱がはじまると父一条兼良が尋尊のもとに疎開する(略)。貴種として大乗院に入院した尋尊は,学僧としてはなんらの業績ものこさなかったが,時代の風潮を〈下剋上〉ととらえ,あえてその流れに抗して〈門跡再興〉〈寺社(興福寺,春日社)繁昌〉をみずからの使命とした。(抜粋)

※興福寺は、大和(奈良県)の国を神の国にしようとしておったのじゃ。

■一四二八
p152
(略)正長元年(一四二八)七月、称光天皇が重体におちいるや、彦仁を猶子として父子の礼をとり、「正嫡」をたやさない形式をとって践祚の儀をとりおこなった。
こうした皇位継承も、義教が六条八幡宮のクジ引きで将軍に選ばれたと同じように(*)迷走飛行のすえに、かろうじて着地(略)。彦仁王すなわち後花園天皇の受禅決定で、再度の違約に怒った南朝の小倉宮聖承は、伊勢国司の北畠満雅のもとに奔っている。小倉宮を迎えた北畠満雅は、将軍継承に不満をいだく鎌倉公方の足利持氏と気脈を通じて挙兵した。
(略)政治の求心力の低下は、この年「日本開白以来、土民蜂起これ初めてなり」(『大乗院日記目録』)と大乗院尋尊が記した〈正長の土一揆〉を招いている。(略)民衆が生存と自治の要求をかかげて動き出した。(民衆の中の生きのいい奴が引っ張るido)(20151107一休 応仁の乱を生きた禅僧 武田鏡村)
(*)正長2年(1429年)3月15日、義宣は義教(よしのり)と改名して参議近衛中将に昇った上で征夷大将軍となった。(Wikipedia足利義教)

■継職の翌 一四五八 年
 丁重なこの訪問は弔意だけでなく、継職の祝意も。蓮如は早速翌日答礼に出向いた。
 この訪問を機に頻繁な往来。血縁関係だけの親近感からとは言い切れない。経覚だけならともかく、跡を継いだ門跡の尋尊までが寛正四年(一四六三)には本願寺を訪れ、蓮如もまた馬と太刀を答礼に贈るという改まった挨拶を交わしているからだ。尋尊は中世きっての碩学とうたわれた一条兼良(かねら)の息で、本願寺とはなんの関係もない。おそらく翌年用立てする二千疋の金子に関する頼みかと思われるが、本願寺はすでに貧乏ではなくなっていたのか。ともかく、蓮如がこれほど興福寺大乗院に接近したのは、叡山から独立の強力な後ろ盾を、経覚との縁を利用して興福寺に期待したから。やがて期待は見事に実現する。(20160110 蓮如(一)序奏の前半生 森龍吉 p49)

 尋尊は蓮如を評価していた。(略)「尋尊は守護よりは寺領の代官に、代官よりは更に蓮如には丁重だった」(谷下一夢『真宗史の諸研究』)計算高い大僧正だ。
(蓮如(二)森龍吉 p64)

■一四六七年(応仁一)
 一月
p64
乱中の裸舞い
「ただ天下、破れば破れよ。世間、滅ばば滅びよ」(『応仁記』)、応仁の乱は、文正の変の四カ月後、一四六七年(応仁一)正月勃発。戦国時代の幕開け。義政傍観。柳営は「公事は女中(富子)の御計(おんはからい)」「公方は御大酒」(『尋尊大僧正記』)。失脚した伊勢貞親が開戦の翌年(一四六八)フェニックス。再度政治の実権を。
※時系列が乱れるなあ。
(略)順如裸舞(略)「噂にたがわず美事じゃのう」義政の声が聞こえた。(略)
順如がいかに柳営の奥深く出入りしていたか。(略)酒豪のかれは寺務もものうげに、四十二歳で没。一四八三年(文明一五)五月二十九日、山科本願寺の阿弥陀堂の瓦が葺きあがる直前だった。
(蓮如(二)森龍吉 p64)

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p12
 もともと大和国は、(略)小さな勢力争いが絶えない土地。当時、荘園主東大寺と互角は藤原氏の氏寺興福寺しかない。(略)いつしか春日社と同一体となった。
 このころ興福寺は、近江延暦寺の僧兵に対抗する力をもつ僧兵を擁していた。(略)むろん、東大寺も僧兵を擁していたが、規模は興福寺の方が勝っていたといわれる。(略)厳密には僧徒と称され、彼らを束ねる棟梁を衆徒といった。(略)
p13
衆徒は、
①寺中衆徒…奈良に住む。衆中。奈良衆徒。
②田舎衆徒…地方の荘園末寺に住む

寺中衆徒は、妻帯もして、武装して寺社の警備にあたり、若宮祭礼、薪猿楽以下の神事、法会に出仕する。うち有力な二〇人が選ばれ、寺務の代官として一任期間満三カ年間、寺門奈良中の検断なあたる。宣下職である寺務の被官人であるから、これを〈官符衆徒〉と呼んだ。(略)
官符衆徒は、「三カ年を限って南都に常住せしめ、市中および国中の司法行政に当たらしめたもので、官符をもって補任せられ興福寺別当三綱の被官というものである。(永島福太郎『筒井順慶』「大和志」大和国史会)」
 奈良市中における警察権はもとより、行政権もゆだねられていて、南都七郷、東大寺七郷および門跡領を除く春日花山がその所管となった。(略)裁判官と警察署長を兼職するような激務。官符衆徒に筒井氏は起用。時期は詳しくわからない。

 衆徒と別に〈国民〉という類もあったが、これは中世における「大和の国民」ではなく、春日社について神事、社頭の警備に当たる〈神人(じにん)〉の意味。やはり『大和郡山市史』に、
 末社直属のものを〈黄衣神人〉、国中に散在する世俗的なものを〈白人神人〉と呼んだ。〈国民〉というのはこの〈白人神人〉を指す。国中の春日末社の神主職であり、春日社、興福寺の荘官となり、地方現地で活躍していた。つまり衆徒は頭をまるめ、頭巾をかぶり、薙刀をかいこんだ法体の武士。対して、国民は俗人で純粋の武士。
 とある。

p14
 この衆徒・国民は、地方の名主的存在。

後日

興福寺の衰運の兆し
原因は、一乗院、大乗院の両門跡の間に対立
※蓮如、経覚

後日

p15
参考までに、至徳元年(一三八四)の春日若宮祭の神事に記された願主人の名をあげてみる。(略)十市(略)である。

p36
 だが大和の平和は長続きしない。天文元年(一五三二)七月、興福寺の悪政に抗した一向宗が一揆を起こしたのである。ことの発端は、五畿内に実権をふるっていた細川晴元が、高屋城によった畠山義宣(英)を攻めるに際し、一向宗徒の盟主本願寺証如に援助を懇願したことにあった。
 こうして河内を舞台にした騒乱に筒井順興もまた出陣して、木沢長政が籠もった飯盛山城(四条畷市南野)を攻めていく。もともと長政は、畠山義宣の家臣だが、これを裏切って細川晴元に味方したのである。だが、苦境にたった長政を救援するため、晴元が本願寺に泣きついた。(略)辛うじて戦場を落ち延びた順興は、筒井城に生還を果たしている。
※この二年後、信長誕生。

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