20160616 義の旗風―小説 北条早雲 浜野卓也

20160616 義の旗風―小説 北条早雲 浜野卓也
p21
新九郎が生まれる四年前の正長元年(一四二八)、大津、奈良、京で、民衆が一斉に徳政を叫んで蜂起。土倉、酒屋、大寺院を襲った。
※別の本では違う年か、確認。

p45
高越城に仕える武士は江原氏を含めて二百もいようか。もっとも彼らは、ここ後月(しづき)郡荏原郷の荏原、西江原、東青野、西青野…の村の小さな地頭で、ふだんは作人にまじって鋤、鍬を振るう身である。
※地頭の実態の一面。参考になる。

p54
「兄上、何事でござる?」
「以前にも申したが、隣の新見の荘がもめている。守護の細川どのより、わが伊勢にも出陣の用意をせよとのことじゃ」(略)
問題の新見荘は、小田川の本流松山川(現・高梁川)の分水嶺に近い因幡との国境にある、二百貫文の水田地帯で、領主は京の東寺。西国の土地の所有者は京や大和の朝廷や貴族、大寺社が多かった。しかし農民が簡単に年貢を納めなくなった。農民といっても在地で苗字を持つ村侍を含む。
p55
年貢が集められない荘園領主は年貢の取り立てを守護大名に依頼し、そのかわり徴収の礼として半分を守護大名に与える。さらに領有土地を半分に分け、それを守護分〈地頭方〉とした。対して、もともとの荘園分を〈領家方〉とした。新見の荘もこの下地中分によって東半分が地頭方(細川)、西半分が領家方(東寺)となっていた。
p56
この年、寛正元年(一四六〇)、備中の守護が細川氏久から勝久に代わった。東寺は年貢を横領した代官安富智安を罷免して、年貢の取り立てを備中守護の細川に依頼した。氏久は新見の荘民に圧力。東半分の武家領(地頭方)の荘民を使って西新見荘の年貢を徴収しようと働きかけた。だが西新見の荘民は納得しない。そればかりか、細川に扇動されて動きはじめた東の荘民に先手をとって攻めこむ気配をみせているという。
p57
年貢は東寺の問題だが、守護としては新見の荘に兵乱が起きては困る。細川の威信にかかわる事だし、長引けば山名宗全が兵を動かすだろう。

p61
一味神水とは仲間が神前に捧げた水に誓約を自署した紙を燃やして入れ、それを回し飲みをすること。
p62
「ほう、自主検断の荘におわすか、新見は…」
「おおせの通り」(略)
自主検断とは自分たちの自治的な組織によって村々を守るということだ。
※村が集まり、郷になる?

p66
■寛正二年(一四六一)
新九郎は、駿河出身の連歌師紫屋軒宗長とも親しく、かつて新九郎が京にあって歌道の師と仰いだ飯尾宗祇もいまは駿河の今川家に出入りしている。今川家は由来「足利絶えたるときは吉良が継ぎ、吉良絶えたるときは今川が継ぐ」と言われている名家。

p68
「ほとけを、預かり申そう」(略)
「時宗の徒にて、願阿弥さまに仕える(略)」
(略)人を救うはずの僧が、みな公家の位を得て、またある僧は土倉、酒屋で富を蓄える世である。一方、別の道を歩く者もいる。乞食、難民と起居を共にする、真宗の蓮如であり、(※まじ?)時宗の願阿弥であり、あるいは町人に法華経を説く日親のような僧。
p69
「畿内は二年続きの飢饉(略)」
あいかわらず管領畠山一族の跡目をめぐって肉親相食む内乱がつづき、その領国の畿内の村々は焼かれ、食料は奪われ、男は戦に駆りだされて、たまらず村を逃げ出した難民で京の街は溢れていた。
「京の餓死者は、ついに八万に(略)」
(略)ある僧が八万本の卒塔婆をつくって、一本一本、賀茂川の河原に野ざらしにされていた死骸に置いていったところ、ほとんど残らなかったという。

p73
正室の日野富子が十年ぶりに子を孕んだ。貞親は大寺社に男子誕生の祈願をさせた。だが生まれた子は死産。
p74
「わらわは、呪われた。すべては今参局の呪いじゃ」
富子は泣き叫んで、夫の義政に訴えた。(略)
「滅相もない、公方のお世継ぎをどうしてわたしが…」(略)今参局は近江に流され、やがて富子が向けた刺客によって殺された。

p77
■寛正五年(一四六四)
備中荏原で過ごしていた新九郎のもとに、伯父の貞親から、またまた呼び出し。
p79
「公方さまは弟の浄土寺の門跡義尋(ぎじん)どのを還俗させ養子になさることを決められた。(略)公方さまは、たとえ、このあと、男子が生まれても、次の将軍はそなただと、神前に誓紙を交わされた」
新九郎は唖然とした。食えないはずの伯父が単純に誓紙を信じている。
「義尋どのは名前を義視と改めて、今出川の屋形に入られる。(略)それで、そなたが義視どのの申次衆となることに決まった」

p86
■寛正六年(一四六五)
運命は皮肉である。翌年、富子が男子を生んだ。
p87
■応仁元年(一四六七)
数年前から河内ほか四カ国の守護であり、幕政の中枢にある畠山が、家督の争いで、守護代が双方を担いでの合戦がつづいている。(略)管領の畠山政長がにわかに罷免されて、一方の畠山義就(よしなり)が山名邸宅に招かれた。
失脚した政長派の軍は市街に火を放って、相国寺の北、上御霊社に陣を張った。これを畠山義就の軍が攻めた。この時点ではまだ家督争いである。しかし両派の後ろには細川、山名がついている。

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