20160616 浜野卓也 北条早雲―さいしょの戦国大名


出版社 講談社
発売日 1998/2/20

p11
政所
p12
執事
嘉吉の乱
p15
徳政
土倉、酒屋
p16
馬借
p17
七街道
p21
永享四年(一四三二)年、北条早雲、次男として生まれた。母は、いまをときめく伊勢守貞親の妹(異母妹)。
p22
もともと、伊勢氏は
p23
「三魔」
p27
京中悪党
p34
小笠原、今川、伊勢の三氏に
p38
伊勢家は代々、将軍の申次衆(もうしつぎしゅう)
p40
管領山名宗全
駿河国主今川範忠
酒屋と土倉を 正実坊
p41
山名『むかしからの例となっております』そんなことより
p46
 いまから九年前の嘉吉元年(一四四一)の土一揆では、竜禅坊という土倉が、攻撃をうけた。本業は寺の住職
四軒の建物が、日本の国を支配している。
p49
今川氏は足利氏からの分かれ(分家)吉良氏とともに
p53
四条の吉岡道場 将軍の剣法指南役
p57
七日市
p65
吉備の国
赤松満祐
地元に侍はいらない
p66
公文
工人
p72
新見の荘
p73
荘園のあるじ
守護
p74
土地に住む農民 地侍 国人
p78
一味神水して
守護の代官
p79
自検断の荘

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3 難民をすくえ p81
p81
寛正二年(一四六一)新九郎は当主となっていた。
p82
三管領
p89
 いつの世にも、ほんものがいる。
 それは、難民やこじきと起居をともにしながら教えを説く浄土真宗の蓮如であり、この願阿弥のような時宗の僧である。
p92
 義政は完全に政治を放棄していた。
 義政をあやつる二人の女性がいた。
 義政の乳母である今参局と、妻の日野富子である。(略)富子は泣きわめいて義政に訴えた。
(略)
人々はみな知っていた。

願阿弥さまp93
p96
京はもはや人の住むところではない。
日野富子p97
寛正五(一四六四)年、貞親は三三才になった新九郎を呼んだ。
p98
「そなたが義視さまの近士となる」
p99
義視をつぎの将軍ときめた翌年、日野富子が男子を誕生。
p100
 新九郎は義視に失望。
富子 山名宗全
義視 管領細川勝元
応仁元(一四六七)年。相国寺の北の森の一角から、とつぜん火の手があがった。
p101
義視・細川・畠山政長が東軍。
義尚・山名・畠山義就は西軍。
「わしはどうしたらよいのじゃ」
義視はいつの間にか東軍の棟梁とされている。
新九郎にもこたえようがない。
いまの将軍義政は、ぼうぜんと、ことをみつめ、自分の無力をなげいた。それでも、山名、細川のふたりをよんで戦の中止をもうしわたした。
p103
 しかし、そんなことで合戦をやめるふたりではない。
 義政はただ、「天下ほろぶならほろべ」と、つぶやくばかりだった。

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4 応仁の乱

とびまわる足軽たちp104

細川勝元は天皇(後土御門)を室町第にうつす。(略)
義政は根負けして、軍旗をわたしてしまった。
こうなると、東軍が官軍で、西軍は賊軍になる。
p110
 国司とは、中央政府から諸国に派遣されて、その国をおさめた地方官のよび名である。鎌倉時代からは、守護の力が強くなり、国司にかわって、守護によっておさめられている。ただ、伊勢の国だけが、古代からの伝統を守り、国司の名でおさめられている。

※義視を逃がしたのは実話? ではないだろう。いずれ確認。

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5 新九郎、ついにたつ

妹小菊のためにp127
p133
 関東でいちばん位が高いのは関東公方。しかし、足利一族の争いで、次の二つに分かれた。
・伊豆の堀越公方。
・下総の古河公方。
 さらに実権は家臣の関東管領に。それも次の二つに分かれ、本家争い。
・扇谷(おうぎがやつ)上杉。
・山内(やまのうち)上杉。

 文明八(一四七六)年、扇谷上杉が、太田道灌の兵を駿河に差し向けたとき、駿河に嫁いだ妹を救うために北条早雲が登場。
image

名将太田道灌p137
扇谷上杉が代理として太田道灌の兵
山内上杉顕定も出陣
p139
新九郎、太田道灌に会う
p143
「伊勢殿は、寛正の頃、京の紫野の大徳寺に、参禅なされたことがござるか」

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