20160305 ボルジア家―悪徳と策謀の一族(三)

第三章 ロドリゴ枢機卿

p79
一四五八年八月十六日、コンクラーヴェ。顛末は当事者(法王)のシエナの枢機卿アエネアス・シルヴィウス・ピッコロミニ自身によって伝えられている。

p80
当初有利と思われていたのは、ドメニコ・カプラニカとギヨーム・デストゥトヴィル
ところが有徳のカプラニカがコンクラーヴェの二日前に死
フランス王の従弟、きわめて富裕なルーアン市の枢機卿エストゥトヴィルの法王選出は確実
コンクラーヴェの三日目に最初の投票
驚いたことに、かなりの票を集めたのはボローニャの枢機卿カランドリニと、彼の友人で文無しのピッコロミニの二人だけ。
エストゥトヴィルはその後の話し合いに加わるのを拒否。
「諸君はこのピッコロミニを我々の法王にしようというのか。両足が不自由で、文無しの男を。この病人が我々の病を癒せるのかね。そもそも詩人などに法王がつとまるのか」
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その夜、ピッコロミニは同僚のあいだで交わされている取り引きのささやき声に囲まれながらうんざりして床に就いた。深夜にカランドリニが彼の寝室を訪れ、ニュースを伝えられる。エストゥトヴィルたちが「奥まった安全な場所」だというので便所に本拠をかまえ、すでに十一人の枢機卿から支持を取り付けたという。カランドリニも便所詣でをすませたところで、ピッコロミニにも、これから出かけて投票を約束すれば、分け前にあずかれるだろうと強く勧めた。だが、ピッコロミニは、汚れた取り引きには便所は似合いの場所だと答えただけで、再び眠りについた。
 しかしながら、ピッコロミニは教会に仕える高僧たちのなかで、実は最も老獪な外交家であった。長い経歴の間に無数の協定の成立に関与し、人間と時代を正確に観察しては、その都度自己の立場を豹変させてきた男である。教会に関わる国際問題に広く通じ、すべての国の高僧たちと交際していた。枢機卿全員の長所と弱点をつかんでおり、いかに彼らと接触すべきかを心得ていた。ピッコロミニは夜明けになって素早く起床し、傲慢で不人気のエストゥトヴィルの計画を突き崩しにかかった。彼がまずロドリゴ・ボルジアの説得から始めたのはけっして偶然ではない。ロドリゴはいまだ下位の枢機卿であったが、伯父カリストから与えられたものの一切を、失いかねない立場にあったからだ。
※量を計測して攻める。資本主義。あるいは、クザーヌスだねえ。

二人ともこの会談の目的を承知しており、無駄な言葉は交わさなかった。「君はルーアンの枢機卿に自分を売ったのかね」と、ピッコロミニは単刀直入にたずね、ロドリゴも率直にその通りだと答えた。
p82
エストゥトヴィルはロドリゴに、重要で収入の多い長官代理の地位を、そのまま彼が続けるのを認めると約束した。「君も愚かな若僧だな」とピッコロミニは非難。「敵国の人間を聖ペテロの座に据えようというのかね。フランス人の法王がカタロニア人(スペイン)を優遇するとでも思っているのか。長官代理にはアヴィニヨンの枢機卿アランがなるだろうよ」。
 ピッコロミニはこの調子で次々に枢機卿と会見。
p82
第二回投票
作戦成功
三票足りない
「全員が魅入られたように、青ざめた顔をしながら黙って座っていた」
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最も下位の枢機卿ロドリゴ・ボルジア
聖アナスタシアの枢機卿
プロスペロ・コロンナ枢機卿
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ピッコロミニが明け方、まず最初にロドリゴに接触。鋭い人間観察眼。二人とも敏腕の教会人で、直ちに了解。ロドリゴの未来は不安定。伯父カリスト教皇に溺愛されて異例の昇進、今や成り上がりのスペイン人として憎まれ、嫉妬深い敵に囲まれ孤独。ボルジア一族はすでに四散。ペドロ・ルイスはチヴィタヴェッキアでスペイン行きの船を待っており、ルイス・ホアン・デ・ミラはセゴルベ司教区に戻っていた。ロドリゴはその地位や寺禄の一切を失いかねない状態。彼は決断をくだし、勇敢に行動した。結果、アエネアス・シルヴィウス・ピッコロミニは教皇に選ばれピウス二世、ロドリゴは長官代理の地位を維持。
 ある同時代人いわく「融通のきく知性と思慮分別を備え、想像力は豊か。弁舌に秀で、知識は広範囲。多情の人だが、実務の才は比類なし」。
彼は三十五年間、長官代理の職にあったが、病気かローマを留守にした場合を除き、一度も会議を休まなかったと伝えられている。(略)
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一四五八年、彼は伯父カリスト三世によって、バレンシア司教に任命。この頃にはボルジア家の個人財産同然。(略)イタリアにおいても権益の確保に成功。北はフラミニアとカッシアの両街道、南はアッピア街道を扼す城や砦を獲得。これらの街道は古代ローマ以来の、ローマ市の動脈。
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ピウス二世
一四五九年、教皇はヨーロッパの王たちをマントヴァ市に招いた。
※ローマはまだ荒廃?
トルコ人にたいして十字軍を起こそうとした。
(略)
貧しい学者で、常に出世の機会をうかがっていたピッコロミニは、変身の名人。以前は恋物語の作者。
「私には禁欲など守れそうにない」
だがすべては一変した。
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ピウス二世
十字軍の大義
不可能な使命へと邁進
一四五九年五月、教皇の一行はマントヴァに入り、ヨーロッパの王たちの到着を待った。
p88
 深く落胆した病気のピウス二世は、マントヴァの会議を終了させた。一四六〇年二月二十日に、自分の一族のいるシエナに到着して、やや元気を回復した。
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 復活祭の後、ピウス二世はシエナ市を去った。(略)
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 ロドリゴは、教皇に叱責されても自分の欲望を抑えなかったが、慎重に行動するように。だから彼の最初の三人の子供の母親は今も不明。チヴィタヴェッキアで死んだ兄にちなみペドロ・ルイスと名付けられた男子は一四六二年に誕生。
ついで六七年から七一年までに二人の女子イザベラとジロラーマ誕生。
一四七三年頃、ヴァノッツァ・デイ・カタネイとの長い快適な関係が始まる。彼女は実務の才能のある気のよいローマの美女で、ほとんど十年にわたってロドリゴの官能の満足に奉仕した。
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ヴァノッツァとのあいだに四人の子供。
一四七五年に長子チェーザレ、七七年にホアン、八〇年にルクレツィア、八一年に末子のホフレ。さらに一名を加えてロドリゴの私生児の名簿が完成。この高僧の絶倫の精力がうかがえよう。しかも、一四九二年の教皇就位後も二人の子供を儲けたと推定されている。
十五世紀のイタリアでは、眉をしかめるものはほとんどいなかった。当時のイタリアは、「不法」の力で支配を確立した国が大半だったから、子供が「不法」に誕生したところで、良心の咎めなど感じなかった。(略)
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ナポリ王フェランテは、アルフォンソ王の庶子だが、その黒ずんだ独特の肌の色を見て、彼が本当にスペイン王の血を引いているのか疑問に感じた人が少なくない。だが、フェランテは現実にナポリの王位を受け継いでおり、単に庶子だという理由で、彼の相続に反対したものはほとんどいなかった。
教皇庁の世俗化。
ロドリゴは特に世俗的。自分をルネサンス君主のひとりと考え、贅沢と自由を満喫した。
ローマの彼の邸宅は、現在スフォルツァ・チェザリーニ宮殿の一部、当時ローマで最も壮麗な建物の一つ。敷地は造幣局の跡で、叔父の教皇カリスト三世から二千デュカティで購入。
一四六二年、聖アンデレの頭部の聖骨が、ものものしくローマ市内に運ばれてきたとき、ピウス教皇はボルジアの宮殿を皇帝ネロの黄金の館になぞらえた。
p94
一四八四年、アスカニオ・スフォルツァはこの伝説的なボルジアの宮殿について詳細な記述。
贅沢には金。陰では汚職。イタリア人の目には、カタロニア人(スペイン人)のよくある貪欲と映ったろう。
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「罪は金銭のみによって贖われる」かつてピッコロミニは皮肉な口調で記した。教皇となっていやというほど痛感。「教皇庁では、金銭なくして得られるものはなにもない。聖職叙任や聖霊降臨さえも、売買の対象である」
露骨な金銭崇拝に直面して、善良なピウス二世はなすすべを知らなかった。
p96
ナポリ王国も混乱状態。フランスのアンジュー家が古ぼけた請求権を口実に、アルフォンソ王庶子で嫌われ者のフェランテから、ナポリの王冠をもぎ取ろうとしていた。
p97
ついにピウス二世も武器をとった。フェランテはナポリの王位を維持し、法王領は拡大し、治安は回復した。
一四六三年五月、ピウス二世は法王領を満足気に眺めた。しかし彼は戦争を嫌いながら、今や戦士と化していた。一族登用の危険を承知していながら、カリスト三世に劣らず自分の甥たちを庇護。心ならずも戦争と政治の嵐に巻き込まれながら、ピウスが最も心にかけた十字軍の理想は実現しなかった。
p98
トルコ軍襲来の危険を必死で訴えた伯父カリストの思い出が記憶にあったのか、ロドリゴは、十字軍の遠征にはなんら期待を寄せていなかったが、数ある枢機卿の中で、彼一人が自費でガリー船を装備し、教皇に献上。
 ピウス二世はみずから十字軍を率いる決心をした。
一四六四年六月、ローマを立ち、遠征艦隊の集結予定地アドリア海沿岸アンコーナ市に向かった。瀕死の教皇は船とカゴでイタリアを横切った。従者はカゴのカーテンをひき、十字軍兵士による略奪と暴行の跡を教皇に見せまいとした。アンコーナの港には二隻のガリー船が停泊しているだけ。一ヶ月近くも待った後、ようやくヴェネツィア総督が十二隻の船を率いて入港。
※ヴェネツィアはオスマンと組んで利益を貪っていたはず。なのに十字軍としてオスマンを攻めにいくのか。複雑な駆け引きの世界である。

待つ間に急速に病の進んだピウスは、総督を出迎えることもできなかった。
八月十四日、ピウスはボルジアらの枢機卿を病床に呼び、自分の教会運営に誤りがあったとすれば許してほしいと彼らに請うた。「私の葬儀は誰が采配をふるうのか」と彼は涙ながらにたずね、そして死んだ。
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新教皇にはロドリゴの旧友ピエトロ・バルボが選ばれ、パウルス二世を名乗った。六年前にロドリゴの兄ペドロ・ルイスがローマを脱出するさい、手を貸してくれた人物。ヴェネツィア出身のバルボは、イケメンの無精な男で、贅沢を好み、容姿に対する虚栄心がすこぶる強かった。
ヴェネツィア宮殿
フォルモースス「最も美しい」
人前ではルージュ
だが、勇敢で、決断力に富む
p100
ロドリゴの友人であったから、多くの書記を解任し、残りの者を再び長官代理のロドリゴの管轄に戻した。解任された人文主義者たちは愚痴を。(略)パウルス二世の一代記で復讐。事件背後のボルジア枢機卿にも鉾先。
p101
この化粧好きの教皇は、同時に大胆な政治家で、ルネサンス時代の教皇に特有の政策を推進。ローマ市と教皇領を把握して世俗の権利を確立。同時に信仰に関わるあらゆる面でローマ教皇の至高権を認めさせる。
p102
彼はまた、互いに敵対し、ローマ市をしばしば危険に陥れるローマ貴族をも嫌っていた。制御のため新法令。仇討ち禁止。暗殺請負の無頼の刺客の根絶が図られた。
一四七一年七月、パウルス二世は卒中で急死。当時のロドリゴは、枢機卿および長官代理に就任して十五年。枢機卿会の有力メンバー。コンクラーヴェで、彼はオルシニおよびベッサリオンと組んでフランチェスコ・デルラ・ロヴェレ(シクストゥス四世)の選出を確保。キングメーカーの役割。シクストゥス四世は貧家出身、父はリグリアの漁師。
p103
フランシスコ修道会、学者および論争家として頭角を。ローマ市民は地味で厳格な治世を予想して、ラテラノ宮殿に向かう彼に石をぶつける者さえ。
一四七一年八月二十五日、シクストゥス四世はロドリゴ・ボルジアより教皇冠を授けられた。ボルジア枢機卿は報酬としてスペインへの教皇使節に任命された。
シクストゥスは前任者パウルスが顧みなかったトルコ軍との戦いを推進しようと考え、パウルス二世がサンタンジェロ城に遺した財宝調査。シクストゥスは思わぬ恵みに与る。総額百五十万デュカティの莫大な財産。シクストゥスはフランス、ドイツ、スペインに教皇使節派遣。
 ロドリゴ久しぶりの祖国訪問。無一文の青年としてスペインを去った。以来数十年を経た一四七二年、教皇の手紙を持った教会の高僧として、威風堂々と帰国する。
p104
六月二十一日、ロドリゴは、バレンシアに向かった。行列はラッパと太鼓の音に合わせ、真紅に飾られたバレンシアの城門をくぐり抜けた。帰郷。
表面上の目的はボルジア枢機卿による自己の司教区バレンシアの視察。シクストゥス四世の真意は、十字軍の遠征計画についてスペインの協力を求め、戦費を集めること。
※なんで十字軍なんてするかなあ。バカだ。

同時に、ロドリゴはアラゴンおよびカスティーリャの両スペイン王国にたいして匿名大使。フェルディナンドとイザベラの結婚を契機に統一スペインとして併合されようとしていた。
p105
二人はすでに結婚していたが、近親者同士のため教皇の許可必要。ロドリゴは、シクストゥスの許可状を懐に忍ばせていた。教皇は両王国の統合がスペインおよび教会の利益となることを条件に彼らの結婚を認めようと考え、その判断をロドリゴに任せた。この種の折衝はボルジア一族の最も得意とするところ。アロンソ・デ・ボルハが外交の名手だった。甥のロドリゴも劣らぬ達人。彼は二人の結婚を認めるべきと直ちに判断。フェルディナンドとイザベラが知性と力を兼備していることは、ロドリゴには一目瞭然だったから。問題はいかにしてスペインの世論を動かし、両者の結婚に同意させるか。
 ロドリゴはカスティーリャのエンリケ王の宮廷でクリスマス。その間、彼は枢機卿の地位を約束して大司教メンドーサを味方に引き入れ、またアラゴン人を嫌っているカスティーリャ貴族の懐柔につとめた。
ついでバルセロナへ行き、アラゴン王ホアンの喧嘩好きの臣下たちを宥めにかかった。
ロドリゴは教皇の委任状の権威をアラゴン王のために振りかざし、頑固な内戦に終止符を打つことに貢献した。
同時に、未来のスペイン王フェルディナンドの尊敬と友情を獲得した。
※この時点では、な。
p106
統一して強力になった新生スペインのフェルディナンド王は、以後ボルジア一族にとって貴重な後ろ盾に。
(略)
一四七三年七月および八月、ロドリゴは自分の司教区バレンシアで過ごし、(略)近親で残っているのは妹のホアナ一人(略)彼女の子供に、男子のホフレとホアン、女子のイザベラ・ルクレツィアがいる。(略)ロドリゴが自分の庶子ペドロ・ルイスを危険なローマから引き離し、故郷で育てようと考えたのもこのときかもしれない。(略)
p107
スペイン滞在は(略)教会にとっては全面的成功とは言えなかった。十字軍の計画がまたもや放棄された。
ローマへの帰路、トスカーナ沖で激しい嵐に襲われ、一隻の船は乗船者もろとも沈没し、ロドリゴを乗せたもう一隻はピサ近くの海岸に打ち上げられた。三人の司教は溺死、総額三千デュカティにのぼる一行の所持品が失われた。ロレンツォ・デ・メディチは直ちにピサへ使者を遣わし、ロドリゴを見舞わせた。使者たちは海に失われた財宝を取り戻すべく、必死の努力をしたが、自分たちの見舞いの目的が枢機卿の身の安全にあるのか、それとも財宝にあるのか、判断がつきかねた。
 ボルジア枢機卿がローマに戻ったとき、教皇庁は一変していた。シクストゥス四世は、名利に恬淡とした修道士から変貌した。十字軍も至高権も放棄し、恥多き国内闘争の迷路に教皇庁を引きずり込んだ。
p108
 シクストゥス四世の身内の強欲なデルラ・ロヴェレ一族が、蝗の群のごとくローマ市に襲いかかり、十五年前のカリスト三世(ロドリゴの伯父)の一族登用を顔色無からしめた。
一四七一年、シクストゥスは二人の甥ピエトロ・リアリオとジュリアーノ・デルラ・ロヴェレを枢機卿に。年少でお気に入りのリアリオには、数々の地位や栄誉が与えられ、その収入は金貨で六万フロリンに達した。二十代で修道院から引っ張り出されてきたこの貧しい青年僧は、たちまち放埒な享楽主義者と化し、わずか二年後には手に負えない奢侈、不信心、自惚れを発揮することになる。
一四七三年十月、ちょうどロドリゴがローマに帰還したとき、リアリオ枢機卿がナポリのレオノラ王女のために宴会を開いた。王女はフェラーラ公エルコーレ・デステに嫁ぐ途中、ローマに寄った。リアリオは、彼女のために自分の居館の隣に仮の宮殿を設け、豪勢な宴会を開いた。年代記には当日のメニューが二ページにわたって記載。家兎、野兎、山羊、魚、鹿、雉子、コウノトリ、鶴。猪は毛皮ごと蒸し焼きにされ、孔雀は羽根のまま、熊は皮付きで食卓に出された。銀の皿には神話の英雄が等身大に描かれていた。山積みにされた菓子の間から男が一人飛び出してきて、詩を暗誦した。船がいく艘も現れ、糖衣で包んだアーモンドの積み荷を配った。
リアリオはこの宴会から一年経たないうちに不摂生が原因で死んだ。
マキャベリは、当然の報いとしてフィレンツェ人に毒殺されたと記している。彼は莫大な富を使い果たし、死んだときには六万デュカティの借金を残した。情婦の上靴まで真珠で飾られていたと伝えられている。
p109
 お気に入りの甥ピエトロ・リアリオの死に涙したシクストゥス四世は、故人の弟ジロラーモに寵をうつした。(略)シクストゥス教皇はイモラ市を購入して、甥ジロラーモ・リアリオのために王国の創設を図ろうとした。こうした鉄面皮な身びいきは、やがてイタリア全土を紛糾させる。
 不気味なナポリ王フェランテがシクストゥス四世と取り引きを始め、フィレンツェ共和国(メディチ家の支配)が危惧した。シクストゥス教皇はフィレンツェの妨害を封じるため、みずからパッツィ家をそそのかし、メディチ家によるフィレンツェの支配体制を崩そうとした。
フィレンツェ大寺院の中央祭壇のまえでジュリアーノ・デ・メディチが暗殺され、ロレンツォも手傷を負った。
p110
シクストゥス四世とナポリ王フェランテという無慈悲な敵に囲まれたロレンツォ・デ・メディチは、大胆不敵な行為をこともなげに実行して、共和国を救った。ロレンツォは、不実な教皇シクストゥス四世よりも残忍なナポリ王と交渉する。少数の友人を連れてナポリに行き、フェランテのまえに身を投げ出した。ロレンツォは、自分の立場を弁明することにかけてはすこぶる巧妙であったから、三ヶ月後にはフェランテを味方にしてナポリを離れ、イタリア人を驚かせた。
(略)
シクストゥス四世は一族の勢力拡大を絶えずもくろみ、反対に直面しても諦めなかった。すでにイモラとフォルリの領主になっていた甥ジロラーモは、教皇領内のほかの都市にも貪欲な目をむけ、ヴェネツィア共和国とフェラーラ公国をその争いに巻き込んだ。
p111
ナポリとミラノも武器をとった。
一四八二年、イタリア全土が戦争、嫉妬、陰謀、同盟、裏切りに疲れていた。ローマのオルシニ家はシクストゥス四世と結んでコロンナ家と対立。シクストゥス四世の一族はロレンツォ・コロンナを狩り立てた。ロレンツォが処刑され、遺骸がコロンナ家に渡されたとき、母親は身体に加えられた拷問の跡を調べ、切断されたその首を、髪をつかんで高く掲げ、「見るがいい。教皇を信じた結果がこれなのだ」と叫んだ。
一族の利益を求めるシクストゥスの必死の試みは、結局空しい努力に終わった。殺人と背信が教皇の一族に深く染みついていた。
ジロラーモは、フォルリで部下に殺された。
ひとり生き延びたのがあの堂々としたジュリアーノ・デルラ・ロヴェレ枢機卿で、後年彼は教皇に選ばれ、カトリック教会の歴史に厳しい数ページを付け加える。
一四八四年八月、シクストゥス四世が急死したとき、役人や召使いは教皇の遺体を裸のままテーブルに放り出し、宮殿内部を略奪するのに忙しかった。
 狂気の時代のあいだ、ボルジア枢機卿は黙って地歩固めに専念した。彼はシクストゥス四世の邪悪な陰謀や裏切りとは極力かかわりを避けた。元来戦争よりも折衝を好んだロドリゴは、イタリアの諸勢力を互いに噛み合わせるよりも、均衡を保つように努力した。
p112
スペイン系のナポリ王国はもちろん、フィレンツェのメディチ家とも親しかった。
だから、フィレンツェ共和国に敵意を燃やすシクストゥス四世にたいして、ロドリゴの影響力は限られてくるが、彼の権益は着実に増大した。(略)
p113
 一四七三年、スペインから戻ったロドリゴは、ヴァノッツァ・デイ・カタネイに出会った。以後愛情関係が続き、ロドリゴは甘い優しい愛人となった。
ヴァノッツァは、すでに弁護士ドメニコ・ダ・リニャーノの妻で、ボルジア宮殿の近くの、ペレグリーノ街の小さな家で貧しく暮らしていた。弁護士とのあいだに子供が一人あり、その子はロドリゴが彼女とのあいだに儲けた四人の子供たちより長生きした。ヴァノッツァがロドリゴの情婦となるのは、一四七四年頃であるが、その後も彼女は三人の男と次々に結婚した。寛大な彼らは、悪名高い放蕩者のロドリゴ枢機卿に喜んで細君ヴァノッツァを寝取られたばかりか、むしろそれを誇りとしている様子だった。もちろん、少なからぬ物質的利益が伴ったに違いない。
p114
ヴァノッツァの生んだロドリゴの四人の子は、微賤の出の母親をけっして疎略に扱わなかった。邪悪なチェーザレでさえ、
※ほう、この作者は「邪悪」と断定するか。

その最も邪悪な策謀(なんだ?)に憂き身をやつしているときに、母親には優しい心遣いを見せている。
ヴァノッツァは思慮深い慎重な女で、枢機卿の情熱がいつかは醒めるのを見越して、旅館に投資。
一四八二年頃にロドリゴとの関係が終わったとき、彼女はローマの繁華街にいくつもホテルを所有する裕福な経営者になっていた。
 母親不明な、一四六二年生まれの長男ペドロ・ルイスは、軍職に就かせる目的で、早くからスペインに送られた。彼はフェルディナンド王の寵を得て、たちまちスペイン軍で頭角を現した。最も、彼の将来はすべて父ロドリゴとフェルディナンド王の友情次第である。
一四七八年、ロドリゴがフェルディナンドの息子の名付け親を依頼されたとき、ペドロ・ルイスの前途は洋々たるものに思われた。だが、フェルディナンド王が庶子アルフォンソに与えたいと思っていたセビリア司教区を、ロドリゴが自分のものにしたことから、両者の仲は険悪になった。怒ったフェルディナンド王は、グラナダ駐在のアラゴン軍からペドロ・ルイスを叩き出して牢に放り込み、ボルジア家の所領をすべて没収した。
だが、フェルディナンド王とロドリゴ枢機卿は、ナポリ王フェランテの支援をめぐって再び立場を同じくした。
一四八五年に釈放されたペドロ・ルイスは、ロンダ包囲戦に功を立て、ガンディアの地の購入を許された。彼は公爵に叙せられ、スペイン王の従妹と婚約した。だが、彼女は未成年だったので、ロドリゴ枢機卿は急いでペドロ・ルイスをローマに呼び戻した。これ以上息子をスペイン王の怒りにさらさずに、時を稼ごうと考えたのだ。
一四八八年、ペドロ・ルイスは死に、公爵領は異母弟ホアンに譲られ、また異母妹ルクレツィアには相当な金額が婚費として遺贈された。
 ヴァノッツァ以前のロドリゴの娘イザベラとジロラーマ。(略)
p116
ロドリゴの最初の三人の子供は歴史に足跡を残さなかった。
ヴァノッツァの四人の子供は違った。
 一四八四年、シクストゥス四世の死後に開かれたコンクラーヴェでは、最も経験を積んだ先任枢機卿の一人で、五十三歳になるロドリゴ・ボルジアは、有力な教皇候補と思われた。だが、スペイン系の枢機卿が出席せず、逆に喧嘩好きのデルラ・ロヴェレ枢機卿がイタリア勢力をまとめて、ロドリゴ選出に大反対。デルラ・ロヴェレは叔父シクストゥス四世の在世中、外交政策でロドリゴの柔軟路線と対立。「ボルジアは傲慢で不誠実という評判なので、彼が選ばれる危険性はない」とフィレンツェ共和国の使節は報告した。当たっていた。デルラ・ロヴェレは平凡なジョバンニ・バチスタ・チーボを強引に教皇の座につけ、こうしてインノケンティウス八世の治世が始まった。
p117
デルラ・ロヴェレ枢機卿がキング・メーカーだから、新教皇は彼の言いなり。(略)
 ローマは再び恐怖の都市に。巡礼者は市の門を通るたびに追い剥ぎに襲われ、朝には必ず通りに死体が発見された。貴族や枢機卿は自分たちの館に防備を施し、武装した従者を常に引き連れた。(略)
p118
 インノケンティウス八世の八年間の治世は、ロドリゴ・ボルジアにとって危機。年老い、次のコンクラーヴェが教皇になる最後の機会だと感じた。インノケンティウスの無能とその混乱した治世は、彼の黒幕デルラ・ロヴェレ枢機卿の声望を日毎衰えさせた。ロドリゴは味方の獲得に努めながら、黙って待つ以外にすることがなかった。
ロドリゴには強力なスペインの後ろ盾があった。すでにフェルディナンド王の支持を取り付けており、またイタリア南部では、ナポリ王フェランテとその子カラブリア公と友好関係。イタリア北部では、ミラノのスフォルツァ一族と同盟した。
p119
ロドリゴは蜘蛛のように人脈。
数年前から従妹のアドリアーナ・デ・ミラが彼の子供たちの家庭教師。未亡人だが魅力的な女で、ロドリゴに説得されて、ローマの有力貴族の支流で、やもめのルドヴィコ・オルシニと結婚。
新たにアドリアーナの継子となった、片目で陰気なオルソ・オルシニが、ジュリア・ファルネーゼと結婚。
一四八九年五月、結婚式はボルジア宮殿の星の間で行なわれた。花嫁は十四歳で、非常に美しかったから、ローマ人は「美女(ベラ)ジュリア」と呼んだ。
オルソが巡礼の旅に出た後「父親のごとき」ロドリゴの愛情は、恋人の情熱へと発展。はなはだ破廉恥な話だが、ジュリアは若い身空で枢機卿の情婦となり、ロドリゴの晩年の愛情を独占した。
一四九〇年、インノケンティウス八世は病気になった。(略)
フィレンツェでは、ジロラーモ・サヴォナローラが猛り狂ったように高僧たちを弾劾した。
p120
一四九二年、スペインにおけるムーア人の最後の牙城グラナダが一月二日にフェルディナンド王の手に落ちた。この吉報は偶然ローマの謝肉祭と重なって伝えられ、ローマ人はその祝賀に精力のすべてを注ぎ込んだ。ロドリゴと息子のチェーザレはスペイン風の催しを考案し、市民たちははじめて闘牛を鑑賞した。
三月には若いジョバンニ・デ・メディチが枢機卿になって意気揚々とローマに到着し、お祭り騒ぎのなかで枢機卿の赤帽子を授けられた。
二カ月後に十字架上のキリストの脇腹を貫いたと称される槍がトルコ皇帝バジャゼット二世より贈られた。デルラ・ロヴェレ枢機卿がフラミニア門でこれを受け取り、水晶の箱に納めて物々しくローマ市内に運んだ。教皇の脇に立っていた長官代理のボルジア枢機卿が、この槍を高く掲げて市民たちに示した。
 一四九二年七月、インノケンティウス八世、二十五日に死去。
ロドリゴは注視の的。頑健で血色のよい六十一歳のロドリゴは最後の賭けに。

※高僧は、あるいは、教皇は神など信じていない。下層民、あるいは、一般民衆が信じさせられている。笑

第四章 教皇アレッサンドロ六世
p125
 コンクラーヴェが開催になるや、会議の雰囲気は一転してデルラ・ロヴェレ枢機卿に不利になった。前教皇の黒幕として専横をきわめたことや、フランスとの秘密交渉が嫌われたのである。第三回の投票後、スフォルツァ枢機卿は自分の教皇就位が望み薄になったと見極めると、ロドリゴ・ボルジアの豪勢な約束に耳を傾け、その勢力の一切を挙げてロドリゴに味方した。(略)五日目の夜明けにコンクラーヴェの大広間が開け放たれ、ロドリゴ・ボルジアの教皇就位が発表された。(略)サン・ピエトロ寺院では、大男のサンセヴェリーノ枢機卿がアレッサンドロ六世を名乗ったロドリゴをかつぎ上げ、聖ペテロの座に据えた。

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