20160301 ボルジア家―悪徳と策謀の一族(二)

第二章 法王カリスト三世──ボルジア家興隆の始祖

 一四四五年、今やボルジアの名でイタリア人に知られることになるアロンソ・デ・ボルハは、ローマに到着。六十七歳。精力が溢れていた。ときおりの痛風の発作を除けばいたって健康。現存する肖像は、いずれも頑丈な姿態とボルジア家特有の容貌、禿げ上がったドームのような額、際立って高い鼻、がっしりした下顎、少し突き出た歯、丸い顎の先。けっして美しく整った顔ではないが、油断のないその眼差しを見れば、着実な判断力と明晰な頭脳の持ち主であることがうかがえよう。(略)
p37
 ローマ市は法王権の衰退と同時に零落。法王は一世紀以上イタリアを見捨て、フランスのアヴィニヨンに。詩人ペトラルカはローマを「最も有害な都会、罪悪の巣、この世の肥溜め」と。古代の遺跡は失われるか破壊。ユピテル神殿の大理石は粉砕されて石灰の原料に。ラテラノ宮殿は廃墟と化し、ヴァチカンは修復を迫られていた。
 法王権をローマに回復したマルチヌス五世は、十一年のあいだ住居を求めて市内を転々。人口は約二万五千人に減少。アウレリウス城壁内の広大な地域は、殺風景な牧草地に。
 法王エウゲニウス四世の伝記作者いわく「法王不在のため、ローマ市は牛飼いたちの村となり果てた。牛や羊が街をさまよい、商人たちが露天を出しているところにまで顔を現した」。ユピテル神殿とフォーラム(古代ローマ市の中央にあった大広場で、商業や公事の集会所)はその起源も歴史も忘れられ、「山羊の丘」と「牛の原」に。
p38
 ローマの有力貴族コロンナ家出身の法王マルチヌス五世は、市の復興に着手。
 癇癪持ちのエウゲニウス四世も、その騒々しい治世中に多少は復興作業を進展。
 外部から輸入される富に頼って生きる怠惰な都ローマは、繁栄を法王庁に依存。コロンナとオルシニ両家を頂点とする大貴族たちは、テヴェレ河をはさんで激しく対立。ローマ大衆の一部をなす過激な共和主義者は、自治都市の規約が保証している古来の自由に固執、ときおり法王と貴族の双方を脅かした。若いならず者は集団を組んで街を横行。殴打、強奪、強姦、殺人は日常茶飯事。川岸には死体が打ち上げられ、身許の確認を待っていた。
(略)
p39
 一四三四年六月、市民による暴動が発生、エウゲニウス法王は矢や投石を避けるため楯の下に身を隠して、ボートで河をくだって逃亡した。以来九年にわたって法王は流浪の生活。法王領とカンパーニャ平原は相争う武将たちに蹂躙。
 軍人僧侶ジョバンニ・ヴィテレスキがエウゲニウス四世に代わって法王領の回復を引き受け、以後凄絶な流血の惨事が。ヴィテレスキは相争う領主たちとときには結び、ときには力で彼らを屈服させた。(略)ヴィーコの知事ジャコポは自分の城で逆さ吊りにされて殺された。手近なオリーヴの木にあっさり吊された者も。アルバーノ丘陵にサヴェッリ一族を襲撃したときは、見せしめとして彼らの城を廃墟に。コロンナ家の重要な町パレストリーナが降服したとき、ヴィテレスキは町の完全破壊を命じた。建物は区画ごとに引き倒され、寺院の敷石にいたるまで掘り返された。彼はローマに攻撃の鉾先を。震え上がったローマは贈り物を携えて彼を訪れ、和平を申し出た。甲冑に身を固めたヴィテレスキは馬にまたがり、市の長老たちが手綱を引いて市内に導いた。十二人の若者が彼の頭上に金色の天蓋を掲げて進んだ。ヴィテレスキはサン・ロレンツォ教会で祈りを捧げ終わると、早速復讐にとりかかった。エウゲニウス法王にたいして群集を蜂起させたポンチェレットは、ユピテル神殿からローマ市内を引きずりまわされ、真っ赤に焼けたやっとこで身体を裂かれ、フィオリ広場で四つ裂きの刑に処せられた。
p40
 多くの専制者と同様、ヴィテレスキも味方の嫉妬と恐怖によって倒れた。法王の新しい寵臣ルドヴィコ・スカランポ枢機卿の罠にかかり、毒殺されたと伝えられている。
 ローマにとって、ヴィテレスキからスカランポへの交代はさほど得にはならなかった。ヴィテレスキはぞっとするほど残忍な男だったが、一種の厳格な誠実さがあり、荒いながらも正義の維持に努力。スカランポは前任者ヴィテレスキの悪徳のみあって美徳なし。地域住民は法王の帰還を熱望。
p41
 人文主義者のポッジョ・ブラッチョリーニはエウゲニウス四世の時代についていわく「国は戦禍に苦しんだ。都市は人口が減少して荒廃し、畑は荒らされ、街道には追い剥ぎが出没した。五十余の地域が軍隊による破壊や略奪をこうむり(略)貧窮した多くの市民が奴隷に売られ、また獄中で餓死した」。
 一四四三年九月、ローマに帰還したエウゲニウス法王を待ち受けていたのはこういう惨状。
 一四四五年、枢機卿アロンソ・ボルジアを出迎えたのは荒涼たるローマ。
(略)
 枢機卿としてアロンソは富裕ではない。バレンシア司教区からの六千五百アラゴン・ポンドの年収が唯一。一度にひとつの寺禄しか持たないという生活上の規範は、枢機卿になっても変わらなかった。
p42
人文主義者プラチーナは異例のアロンソの教会法遵守の姿勢を誉め称えて、いわく「きわめて高潔。特に称賛に値するのは、司教あるいは枢機卿のとき、けっして寺禄の一時保有をしなかったこと。教会法の命ずるように、時分には一人の妻、すなわちバレンシア司教区で十分なのだと彼は語っている」。
 同僚の多くの枢機卿には気に入らなかった。彼らの不品行と奢侈への無言の非難だから。アロンソはローマの大衆にも好かれそうになかった。彼らが最も嫌ったのは、スペイン人の廉直と空の財布であった。
 病める法王エウゲニウスは、ローマ法王の至高権の問題未解決。今なお続いているバーゼルの宗教会議では、反ローマ派が依然として支配的。またスイスのローザンヌには、対立法王フェリックス五世がその存在を無視されながらも君臨。
p43
フリードリヒ三世支配下の神聖ローマ(ドイツ)帝国も、ローマに恭順していない。ドイツの教会は、すでにフランスとイギリスが享受しているローマの干渉からの自由を自らも得たい。ドイツ帝国内の選定侯の多くも、法王の至高権には好意なし。
 だが混沌とした帝国で、気まぐれな選定侯たちを従わせるのに苦労しているフリードリヒは、法王と同様中央集権が必要、理屈と賄賂の両方で法王に加担。
 一四四六年、選定侯たちはフランクフルトで法王フェリックス使節と会談。条件付きで恭順表明。ローマの枢機卿、年輩スペイン人ホアン・デ・トルクマーダ(例の悪名高い異端審問官の叔父)とアロンソ・ボルジアはドイツ協定に大反対。ドイツに譲りすぎ。瀕死のエウゲニウス四世は問題解決を強く求めた。反対派はほこをおさめた。
 一四四七年二月七日、法王はドイツ教会の恭順を受け入れ。エウゲニウスは二月二十三日死去。
(略)
p44
新来者のアロンソ・ボルジアの冷静な目には、エウゲニウスの治世は(略)対立しあう利害のもつれで法王の座さえ危うくされた時代と映ったに違いない。彼は法王には限界があり、王たちの虚栄心におもねる必要のあることを学んだろう。
※国王は弱肉強食、力で言うことを聞かせる。法王は武器ではなく神、すなわち死後の地獄によって言うことを聞かせる。地獄を信じぬ者にはこの手は通用しない。それで法王は国王のきげんをとって気に入るようにする。へつらう。やれやれであろう。

p45
 エウゲニウスが死んだときも、多くの略奪者(王たち)が狙った。最も危険なのはアロンソの旧主アラゴン王アルフォンソ。王はナポリを出てチヴォリへ行き、法王領の庇護者を気取った。
image

image

※チヴォリはナポリと国境を接するカンパーニャ地方の町。ローマのすぐ東。

もちろんアルフォンソの真意は新法王の選出を左右すること。しかし野望は砕かれた。史上初最短わずか二日のコンクラーヴェのあと、小柄でやせこけた醜男のイタリア人トマソ・パレントゥリが法王ニコラス五世に。幸福な選択。単純で気取りがなく、虚礼と奢侈を嫌う。優れた語り手、皮肉な即席の機知に富み、ときおり猛烈な痛風の発作に見舞われるため、その鋭い舌鋒は一層冴え渡った。また著名な学者、きわめて博識、「法王が知らなければだれも知らない」と。コジモ・デ・メディチとは友人。人文主義者や学者は同僚。あらゆる学問分野に興味。聖ペテロの座を占めた(=法王)最初のルネサンス法王。
 法王の権威の維持。よかったのは「ひもつき」ではなかったこと。彼は普通の学者の息子。コロンナやオルシニ家出身の法王のように派閥に取り込まれる心配なし。枢機卿に任命されてからわずか二カ月、どんな党派の恩もなし。
p48
「鐘を鳴らすことしか能のない男が法王になったのだから、さぞ多くの者が誇りを傷つけられるだろう」と新法王。
(略)
一四四九年までに、若く元気な三名のスペイン人がローマに。ボルジア枢機卿の甥で、妹イザベラの息子のペドロ・ルイスとロドリゴ(※チェーザレの父。後の法王アレッサンドロ六世)、それに両者の従弟のルイス・ホアン・デ・ミラ。
 ペドロ・ルイスとロドリゴの無鉄砲な父親ホフレ・デ・ボルハは一四三七年死去、未亡人イザベラは一時経済的苦境。若者たちはアラゴンを去り、出世の機会に満ちたローマの伯父のもとへ。最年長ペドロ・ルイスは、スペインの慣習で軍職。年下の二人は教会。
p49
 一四四九年、最年少ロドリゴは十八歳。後年法王アレッサンドロ六世となるロドリゴは、ガスパーレ・ダ・ヴェロナの指導を受けた後、伯父アロンソと同じく教会法を専攻するためボローニャ大学へ。若いロドリゴはボルジア家の知性と実務の才を兼ね備えていたが、伯父の枢機卿アロンソには見られぬ特徴。ガスパーレは自分の生徒(ロドリゴ)についていわく「彼は姿がよく、その弁舌は蜜のごとく甘い。美女を引きつける彼の魅力、彼女たちの心をかきたて恋に陥らせるその遣り方は驚くべきものがある。磁石が鉄を引きつける以上に、彼は女たちの心を奪う」。
p50
アロンソは、(略)権威主義的で、保守的な男だったにも関わらず、大胆な精神の持ち主に好意を寄せた。コンスタンチヌス大帝の寄進状といえば、法王の世俗の特権を裏書きする重要な文書だが、人文主義者ロレンツォ・ヴァッラはこれが偽物であることを暴いて、危うく宗教裁判にかけられそうになった。だが、ボルジア枢機卿はアルフォンソ王の宮廷でヴァッラに出会って以来彼と親交、後年数々の名誉と地位を彼に。知性へのアロンソの敬意は偏っていない証拠に、彼はヴァッラの学問上の仇敵ポッジョ・ブラッチョリーニとも親しく、庇護を与えている。
(略)
難航していたバーゼルの宗教会議も一四四九年に終了。教会は法王の権威のもとに和解。同年、最後の対立法王フェリックス五世がその法王冠を放棄。(略)法王領ではニコラスが行政と課税の改革に着手。法王庁の財政も上向き始めた。特筆はローマに最優秀の芸術家、建築家、学者を召して、彼らに仕事を与えた。
 一四五〇年の聖年、ローマは平和。巡礼者が椋鳥か蟻の大群のごとくローマに押し寄せた。千余の宿屋が繁忙をきわめ、街では群集が押し合い、弱い者、不注意な者は命の危険にさらされた。百人余りの人間がサンタンジェロの橋から突き落とされたこともある。(略)だが、依然としてローマでは、信徒たちの献金が法王庁の金庫に流れ込み続けた。
※ヒトは神を求める。
ニコラス五世はこれを資金に芸術的創造をおこない、ローマ市を廃墟から都会、法王権の象徴に変えようと意図。
p52
偉大な建築家レオン・バチスタ・アルベルティ
宗教画家フラ・アンジェリコはサンロレンツォ礼拝堂の壁面にフラスコ画
二流どころの学者でも結構な地位にありつく
ニコラス五世の治世にヴァチカンの図書館はヨーロッパ世界の知識の宝庫(略)となった。
「法王の権威が壮大な建造物によって表されるならば、全世界がこれを崇めるだろう」と、ニコラス五世は死に臨んで語った。(略)だが、改革を迫られている教会の現状とは関係なかった。依然として怠惰と無気力、貪欲で無知な破戒僧。お馴染みの悪弊が満ちていた。
(略)
一四五三年、ローマの名門の出身であるステファノ・ポルカリは、法王逮捕してヴァチカンに火を放とうと計画、挫折、絞首刑
p54
ポルカリの乱から五ヶ月後の一四五三年五月二十九日、東ローマ帝国コンスタンチノープルが、モハメッド二世のトルコ軍の手に落ちた。
p55
一四五五年三月、ニコラス死去。(略)十五人の枢機卿がコンクラーヴェ参加(略)オルシニ対コロンナ
p56
両イタリア派がいがみあっているため、人びとの目が外国人候補に
ベッサリオン枢機卿が票を集め始めた
時がたった。ローマ市民は苛立ち(略)傭兵隊長ニッコロ・ピッチニーノは威嚇行動。三度目の投票も必要な数に達しなかった。
p57
やけになったコンクラーヴェは、誰からも異議の出そうにない人物アロンソに目をつけた。なるほどスペイン人ではあるが、評判のいい厳格な男で、どの派閥にも属していない。何よりも好都合なのは、すでに高齢で長生きしそうにない点。
 一四五五年四月八日、アロンソ・ボルジア法王選出、カリスト三世。
p58
戴冠式予定日四月二十日、党派間の喧嘩騒ぎ、戦闘に発展。
p59
ナポリオーネ・オルシニが仇敵アングイララ伯爵の従者襲撃。
p60
法王カリストはこのためにオルシニ一族を生涯許さなかった。
(略)
七十七歳にしては、カリスト三世は活動。トルコ軍に対する十字軍の遠征計画は、彼の執念に。彼の碑文のひとつ「私は信仰の敵を絶滅するために選ばれた」。
※汝の敵を愛せよ、はどこ行った? 免罪符ってのは、日本の神社の御守りみたいなもんかね。
p62
 一四五五年五月(※就任1ヶ月後)、カリストは法王に選出されてから数週間、ガリー船の借用に着手。
p63
タラゴナの司教に艦隊の指揮が委ねられたが、彼は海賊同然の悪党で、艦隊をアルフォンソ王に貸与、王のジェノヴァ襲撃に協力させた。司教ただちに解任。
かわって喧嘩好きのスカランポ枢機卿。エウゲニウス法王時代に腕力は証明済み。
一四五六年五月、スカランポ出航。ナポリのアルフォンソ王は支援を約束していたがほとんど得られず。
カリストはかつて自分が忠実に仕えたアルフォンソ王の不誠実に激怒。以後二人の間に激しい敵意。
スカランポ、海では勝利。トルコ艦隊を撃破。増援があれば、ダルダンネルス海峡を封鎖してトルコ帝国の心臓部に一撃を加えられたかも。
しかし援軍来ず。
 陸上では、トルコ軍の進路にあたる東欧で一時的勝利。
p64
一四五六年七月、ハンガリー将軍フンヤディ、ベルグラード市の前面で回教徒軍を破った。
束の間
ベルグラード市街に放置された死体より疫病(略)八月、フンヤディ死す。
一四五八年、アテネ陥落。
続く二年でセルビアとバルカン半島の大半がトルコ人の手中に。
ギリシャの島々も次々彼らの手に。
一四七〇年、ヴェネツィアはエーゲ海での貿易の拠点ネグロポンテを失った。
十年後(※一四八〇)にはトルコ人はカラブリア沿岸のオトラント市を襲撃、イタリア全土を震撼させた。
 十字軍の挫折で深い失望を味わったカリスト三世は国内問題でも休めなかった。
p65
各君主の勢力圏は一四五四年にロディの会議で定め。微賤より身を起こして一国を切り開いたフランチェスコ・スフォルツァは、ミラノ公として正式承認。
※貴族なんて要するにヤクザである。糞に金粉。
ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェは神聖同盟。
ヴェネツィアの傭兵隊長ジャコポ・ピッチニーノにとって平和は失業。同業の傭兵隊長スフォルツァがミラのみに成り上がりなら、自分も。シエナへ。
 シエナ市は、トスカーナ地方の諸都市の中で最も弱小の共和国。カリスト法王はシエナ防衛のために法王軍を。常に漁夫の利を狙うアルフォンソ王はピッチニーノの支援。(略)結局、追い剥ぎのピッチニーノは軍隊の維持費として巨額の賄賂(二万フロリン)を受け取ることを条件に、一四五六年五月、シエナを去ってアルフォンソ王の領土に撤退することを了承。
p66
今やカリスト三世とナポリのアルフォンソ王はすべての面で対立。
p67
 カリスト三世は、アルフォンソ王の十一歳の孫をサラゴサの司教に任命するのも拒否。この少年は王の庶子フェランテの私生児。教会法により僧職に就くのを禁じられていた。
p68
一四五七年、アルフォンソの若くて美しい嬖妾( へいしょう。気に入りのめかけ。愛妾)ルクレツィア・ダラーニョがローマを訪れた。ルクレツィアがアルフォンソ王の妻になることを望んで、王と王妃マリアの結婚の無効を宣言してくれるよう懇願。法王カリストは断固拒否。「私は貴女とともに地獄に堕ちるつもりはない」さらに止めの一撃として、王の庶子フェランテのナポリ王位相続に強く反対。
 対照的に自分の一族には偏愛。

p69
カリスト三世は甥たちが才能を示すのを見て、遠慮なく同族愛を発揮。

p71
 法王が一族登用は珍しくない。
法王権をローマに回復し、特有のルネサンス的形態を法王領に与えたマルチヌス五世も、抜け目なくコロンナ一族を抜擢。
好戦的なシクストゥス四世は、十五世紀の後半にカリスト三世以上に同族登用。

p73
一四五八年の夏、疫病がローマを。法王はローマを逃げずに踏みとどまり、アルフォンソ王がゆっくり朽ち果てるのを見守った。カリストの旧主であり、仇敵と化した王は、六月二十七日に死んだ。カリストの集中力と決断が最後に再び発揮。
p74
ナポリ大使の逮捕を命じたが逃亡。ペドロ・ルイスが軍を率いてナポリ国境に。六月十二日の勅書でナポリ王国の没収を宣言。
※アルフォンソの死ぬ15日前に没収宣言?

世間では、ナポリはペドロ・ルイスに与えられるだろうと噂。
 カリスト三世は七月末に再び痛風発作、活動不能。すでに八十歳。法王最後の日々に市内混乱は珍しくない。
※考えられない。笑

今回はスペイン人憎悪のため、群集は怒りを爆発させ、家を略奪させる者や命を落とす者まで出た。
チヴォリに滞在していたロドリゴは、急いでローマに戻った。カリスト三世は多少回復したところで、これを機にベネヴェントとテッラチーナの両市をペドロ・ルイスに与え、群集の怒りを一層煽ります立てた。ミラノ使節の報告によれば、枢機卿たちはサンタンジェロ城に投獄されるのを恐れ、法王に逆らわなかった。
p75
 市内の興奮は極度に高まり、今やペドロ・ルイスをいかに安全な場所に移すかが問題。オルシニ一族があらゆる出口を塞いでいた。
ペドロ・ルイスはオスティアへ逃げ、港で大量の財宝に囲まれながら船を待った。だが、船は来なかった。ついに彼は漁船でチヴィタヴェッキアへ運ばれ、スペイン行きの船を待ちながら、九月二十六日にマラリアで死んだ。
 ロドリゴ枢機卿は、ローマに踏みとどまった。宮殿は略奪され、命の危険にさらされたにも関わらず、彼はサン・ピエトロ寺院におもむき、瀕死の伯父カリストのために祈りを捧げた。
一四五八年八月六日の夕刻、カリストが死んだとき、ロドリゴは臨終で床に付き添っていた。
p76
市街ではオルシニ一族の率いる暴徒が荒れ狂い、カリストの戴冠式の日と同様、怒号し略奪を続けた。
※理解不能。なぜ法王が死んだら荒れ狂うのだ? 理由と起源は?

p78

(「第三章 ロドリゴ枢機卿」に続く)

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中