20160516天才力: 三巨匠と激動のルネサンス/ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエッロ 序章

天才力: 三巨匠と激動のルネサンス/ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエッロ
雨宮 紀子
出版社: 世界文化社
発売日: 2013/3/2

p10
序章 一五〇四年、秋
自由と独立の芸術都市
フィレンツェに三巨匠が初めてそろう

■一五〇四年
p12
 一五〇四年秋、ラファエロはシエナからフィレンツェへ来た。
 師のペルジーノ(*1)を超える自分の様式をつくり出していたラファエロは、芸術を高めるためにはどんな模倣もいとわず、その才能もあった。シエナにいたのは、ペルージャ出身で同じくペルジーノを師とした画家で友人のピントゥリッキオを助けるためだ。かれが、教皇ピウス二世(*2)のシエナ大聖堂内の図書室にフレスコ画で描いていたため、下絵を描く手助けに自分(ラファエロ)が活躍していたウンブリア地方(*3)から出て来ていた。(略)シエナで聞き捨てならない情報が何人かの画家たちから直に耳に入った。
 レオナルド・ダ・ヴィンチがフィレンツェの教会の「教皇の間」で軍馬の集団の下絵を描き、それがすばらしいという。しかもレオナルドと競って、ミケランジェロ・ブオナローティが描いたレオナルドをこえるような裸体の群像も大絶賛されていた。
 ほかの芸術家から飛びぬけた二人のこの情報を聞くと、ラファエロは手助けの仕事など中途で放ってもフィレンツェに行かずにはいられなかった。
(*1)ルドヴィコがレオナルドの脅迫手段に使った画家。
(*2) 教皇就任 1458年8月19日
教皇離任 1464年8月14日。先代 カリストゥス3世(ボルジア家)。
(*3)ウンブリア州は、イタリア共和国中部に位置する州。州都はペルージャ。

p13
 フィレンツェの街はラファエロを刺激したことだろう。この時ラファエロ二一歳。野心に燃えた若者さ。
 サンタ・マリア・デル・フィオーレという名の司教座聖堂(ドゥオモ)の丸屋根の上には金の玉が輝き、白と濃緑の大理石モザイクでおおわれ、荘厳で美しい。要塞のように厳めしい市庁舎の高い塔からは鐘の音が街に響く。
 その広場にはフィレンツェが注文した彫刻が新しく置かれていた。この年の一月にレオナルド・ダ・ヴィンチも一員に加わった委員会でミケランジェロ作の「ダヴィデ」像の置き場所が話し合われ、五月に市庁舎の前に設置されたばかりだ。これはフィレンツェ共和国の共和政のアイデンティティと考えられていた。ラファエロはフィレンツェに着いて最初に、ゴリアテを倒した投石器を肩にしたこの巨大な裸体像を見て詳細にデッサンし、レオナルドも自由なタッチでデッサンしていた。
 金持ち市民の家が新しい流行で建てられ、かれの力を外観に反映させている。(略)メディチ宮殿やルチェッライ宮殿が小さな貧乏市民の家に交じって建ち、さらに大きな中庭を内部に造ったストロッツィ宮殿が、張り合うように建てられたばかりだ。(略)
p15
 ラファエロはこのフィレンツェで、自分も競争に加わるしかないと思い、ウルビーノ公の姉ジョヴァンナから推薦状をフィレンツェ市政長官ピエロ・ソデリーニ宛に出してもらっていた。
※芸能スポーツの世界は今も過酷で一万人に一人しか有名になれない。この時も推薦状がなければだめで、ストリートミュージックなどは無理だったのかのう。

■一五〇〇年
p16
 レオナルド・ダ・ヴィンチは、ほぼ二〇年間もフィレンツェにいなかった。四年前の一五〇〇年四月に帰ってきた。まだ三〇代だった一四八二年に、メディチ家の保護がもらえなかったのでミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァのもとへ行った。一八年間ミラノ公につかえて、フレスコ画「最後の晩餐」でヴェネツィアにまで知られるほど有名になった。だが、ミラノ公がフランス王ルイ一二世の率いる軍に負け、捕虜となってフランスに連れ去られてしまった。ミラノにとどまることができずに、レオナルドはフィレンツェに帰ってきた。
※芸術はなくても生きていけるから。文化予算は真っ先に切られる。
p16
 フィレンツェはレオナルドの長い不在の間に変わっていた。人文主義という新しい文化を定着させたロレンツォ・デ・メディチ(通称イル・マニーフィコ、または大ロレンツォ)の死後に、人文主義の精神も死んだ。
※具体的には?
p16
跡を継いだ長男ピエロ(『チェーザレ』に登場)のフランスのシャルル八世に対する失策のため、メディチ家はフィレンツェから追放され、狂信ともいえるサヴォナローラ修道士の共和政がフィレンツェ人を短期間熱狂させたが、一四九八年サヴォナローラは火刑になって死んだ。
p17
 フィレンツェに帰ったレオナルドはサンティッシマ・アヌンツィアータ教会の祭壇画の制作を引き受けた。しかし、なかなか描き始めずに、やっと「聖アンナと聖母子と子羊」の下絵を描いた。完成した下絵は二日間続けて市民が見に来ては感嘆したという。フィレンツェでは皮革製造職人たちまで、こうした機会には自分の眼で観に行き、熱い議論を交わすのがいつものことだった。
 ラファエロもこの下絵を見たようだ。レオナルドの聖母子像のピラミッド形の構図を取り入れて、「ベルヴェデーレ(牧場)の聖母」(ウィーン、美術史美術館)などを描いている。

■一五〇一年
 ミケランジェロもこの下絵を見て影響を受けている。かれは大理石の丸彫りの「ピエタ」像(サン・ピエトロ大聖堂。制作一四九八~一五〇〇年)をローマで制作して、一躍、彫刻の巨匠(スター)になり、一五〇一年の春にフィレンツェに帰っていた。
 レオナルドは下絵を完成しただけで祭壇画は描かず、

■一五〇二年
 この年からの一年間、レオナルドは軍事技術者としてつかえるためにフィレンツェをまた離れる。今度の主人は、野心に満ちた目的で動く、ローマ教皇(アレクサンデル六世。チェーザレの父)軍の司令官チェーザレ・ボルジアだった。レオナルドは指揮官としてトスカーナの沼沢地を灌漑し、フィレンツェ共和国の使節として訪れた書記官ニッコロ・マキャベリとも一時、行動をともにした。しかし、チェーザレの隊長の一人で、レオナルドが友人になったヴィテッリがチェーザレの命令で絞殺されると、一五〇三年の初頭にまたフィレンツェに戻ってくる。

■一五〇三年
p18
 一〇月、フィレンツェ市政庁はレオナルドに大評議会室の東の壁に戦闘画を描くよう注文した。レオナルドは長い間、戦争の絵を描くという考えをもっていた。力の充実してきた天才が腕を振るえる理想的なテーマが与えられた。ミラノと交戦してフィレンツェが勝った「アンギアーリの戦い」である。
 少し遅れて、二三歳年下のミケランジェロにも同じ東壁に戦闘画が依頼される。主題は、ピサに対抗してフィレンツェが勝つ「カシナの戦い」。
 互いに好きではない二人の競争。
 東壁は、左がミケランジェロ、右がレオナルドと決まった。それぞれ高さが五から八メートル、幅が約一八メートルという大画面になるはずだった。
p20
 レオナルドは馬の研究をしていたから、フレスコ画の中央に騎馬による軍旗争奪をモチーフとして決め、実物大下絵(カルトーネ)を準備し始め、一五〇五年に下絵をやっと完成する。
※一年以上の時間。
 フレスコ画法では、壁面下絵を写して上に薄く塗った漆喰が乾かないうちに絵の具で描くが、レオナルドはまた新しい方法を用いた。一種の蝋画法を試みたという。その方法のためか、軍旗争奪の場面の上半分は黒く乾燥し、下半分は絵の具が溶けた。この結果を見て、レオナルドはそれ以上描き続けなかった。フランス人のミラノ総督から招かれてミラノに発ったのもその理由。この軍旗争奪の戦闘画は、のちにレオナルドの下絵の模写からルーベンス(一五七七~一六四〇)が描いた素描(ルーヴル美術館)が、かなりよく全体の感じを伝えている、といわれる。
 ミケランジェロの下絵も一五〇五年二月に仕上がった。その間、誰にも見られないように、市政から与えられた病院の一室にこもって描いた。大画面は、水浴びする兵士たちが、敵の奇襲を知らされ、あわてて身づくろいする多数の裸体だ。現存する習作から、荒涼とした風景に肉体的で完全で生命力を伝える動きと、男らしさの情感が描かれるはずだった。
 しかし、ミケランジェロがこの下絵から壁面に兵士群を描くことはなかった。下絵が完成した直後、教皇ユリウス二世(一四四三~一五一三。在位一五〇三~一三。前年の1504年、チェーザレ・ボルジャをイタリアから追い払った。)に招かれてフィレンツェを去ったからだ。
 絵画における世紀の対決はこうして、フィレンツェの誰も見ることなく永遠についえた。実現していたら、それは爛熟期を迎えていたフィレンツェの様式を見事に示しただろう、といわれる。現在にまで遺されているのは、二巨匠が描いた習作とほかの芸術家による下絵の模写だけだ。(略)

p22
 市政庁の戦闘画の下絵だが、ミケランジェロがレオナルドに勝ったという街の評判が広がるにつれ、若手の芸術家たちは何としてもミケランジェロの下絵を盗み見し、模写しようとした。あげくの果てには下絵は破られ、消えてしまった。
※やれやれだぜ。
 ラファエロは一五〇四年から四年ほどフィレンツェに滞在するが、一五〇五年一二月に一度ペルージャに帰り、レオナルドからえた数々の成果を、独自の表現に進化させ、初期の聖母子像の名作をつくっていく。
 同時代の芸術的な描き方を次々に吸収していったラファエロについて、『芸術家列伝』の著者ヴァザーリは、ラファエロがレオナルドの様式をとくに好んだが、その努力によってもレオナルドを超えることはできなかったと書いている。色彩の優雅さではほかのどの画家よりもレオナルドに迫った人、といってはいるが。
 またラファエロはミケランジェロの戦闘画の下絵からも、短縮法(物や人を実際より短く描くことでインパクトの強い現実感をもたらす構図)を学んだという。ラファエロがデッサンに優れていたのは知られるが、ミケランジェロのこの下絵が描かれた前後に、格闘する裸体の男たちの見事な素描を残している。
 こうして三巨匠がフィレンツェにそろっていた一五〇四年からのわずかな月日のあと、レオナルドはミラノ、ミケランジェロとラファエロはローマへと、三者三様の独自の芸術活動が展開。

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