2016054 戦争の日本中世史 呉座勇一


呉座勇一
戦争の日本中世史: 「下剋上」は本当にあったのか (新潮選書)
出版社 新潮社
発売日 2014/1/24

はじめに
p4
戦後の研究では、戦国時代を、新興勢力によって既存秩序が解体される変革期で、その歴史的意義を高く評価。いわゆる「下剋上」。
しかし、その議論は、唯物史観に拠る。戦争実態の具体的な観察ではなかった。唯物史観とは、マルクス主義の歴史観。生産力の発展によって既存の生産関係との間に矛盾が生まれ、階級闘争(金持ちと貧乏人のケンカ)が起こる。そうして社会が進歩する、と捉える。

目次
第五章 p187
北畠顕家の地方分権論
親房の「失敗の本質」
今川了俊は悲劇の名将か

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第六章 p233
足利義詮の挫折 p237
畠山国清の勘違い p241
大内氏・山名氏の「降参」p249
大内と山名、そして上杉の帰順によって、内乱は急速に終息していった。
※一三六三(貞治二)?

足利義満の一族離間策 p260
p264
明徳の乱(略)反主流派を焚きつけて惣領にそむかせ、一転、反主流派を切り捨てるという義満の手口は、土岐氏の乱と共通する。
※義満、鬼よ。
p265
(略)
明徳の乱によって山名一族の分国は一一カ国から三カ国に減った。三カ国でもかなりの勢力と言えるがい京都近くの分国はすべて失ったことで幕府への影響力は著しく低下した。(略)内乱でうまく立ち回り大きくなった外様守護(山名のような)から京都近くの分国を取り上げ、京都の安全を強化し、すなわち将軍権力を強くすることに、義満の真の目的。

内乱の幕引き p266
p266
明徳の乱をきっかけに、山名氏から大内氏が最有力大名。周防・長門・石見三カ国の守護大内義弘は、康歴の政変で豊前を獲得、さらに明徳の乱により、山名義理・氏清の分国だった紀伊・和泉を獲得。これは、義理・氏清兄弟が担当していた南朝攻略の任務を義弘が引き継いだことを意味する。
周防の山口と和泉の堺という瀬戸内海水運の東西の端を掌握し、海外貿易を推進した大内氏は他の大名よりはるかに金持ちだった。猜疑心の強い義満が義弘にここまでの権力を与えたのは不思議ですらあるが、幕府の長年の悲願である南朝制圧、そして九州平定を実現するためには、義弘の協力が不可欠と判断したのだろう。
はたして明徳三年(一三九二)、大内義弘の仲介により、いわゆる「南北朝の合一」が成る。南朝の後亀山天皇が帰京し、北朝の後小松天皇(一休の父)に三種の神器を引き渡した。また、(九州探題)今川了俊を助けて九州でも軍功を重ね、明徳四年(一三九三)、義弘は足利一門に準ずる待遇を与えられた。
応永元年(一三九四)、足利義満は将軍職を嫡男の義持に譲るが、実権は握り続けた。以後、義満は「室町殿」と呼ばれるようになる。
※この年、一休誕生。
応永二年(一三九五)、九州探題今川了俊更迭。後任は斯波義将(*)の娘婿渋川満頼。この電撃解任劇には、了俊を排除して国際貿易港・博多を掌握したいと考えていた義弘が関わっていたと言われている。義弘は次第に天狗になり、義満との関係はギクシャクし始める。
(*)斯波義将(しばよしゆき) 室町幕府創業の元勲である斯波高経の4男で室町幕府初代、3代、5代、7代管領。越前・越中・信濃守護。 父の失脚と同じくして自身も都を追われたが、まもなく復権し、政敵の細川頼之を康暦の政変にて失脚させると管領に再任。以後、足利義満・足利義持と2代の室町将軍を補佐し、およそ30年間にわたって幕府の重鎮であり続け、斯波氏の最盛期を築いた。
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p272
応永四年(一三九七)、北山第(きたやまてい。一部が今に残る金閣)を造るとき、義満が諸大名に人夫や材木の提供を命令した時、大内義弘一人が「自分は弓矢によっておつかえしているのだから、土木作業に関わるつもりはない」と拒否した逸話は有名だ(『臥雲日件録拔尤(がうんにっけんろくばつゆう)』)。
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p267
応永四年(一三九七)、九州で少弐・菊池氏が蜂起。渋川満頼援護のため、大内義弘は弟の満弘・盛見(もりはる)を筑紫に派遣。満弘戦死。戦況好転せず。義満は、義弘自身を九州に行かせた。
応永五年(一三九八)一〇月、義弘は京都を出発し、九州で少弐・菊池を撃破。
応永六年(一三九九)
一休、安国寺へ。
一〇月一三日、大内義弘が数千騎を率いて堺に。義弘は鎌倉公方の足利満兼(*)を盟主に仰いで謀叛を計画しているとのウワサ。京都は騒然。
(*)みつかね。足利氏満(第二代鎌倉公方。尊氏三男基氏の子)の嫡子。氏満は前年死去。

義満はあわてて側近の禅僧・絶海中津を堺に。
同月二七日、義弘に対面した絶海。義弘の不満。




p268
絶海は誤解と必死に説くが、既に義弘は挙兵を呼びかける檄文を宮田時清(山名氏清の嫡男)ら各地の武士に送っており、引き返せなかった。
翌二八日、絶海は説得失敗を義満に。
一一月、義満は諸大名召集、義弘討伐軍編成。
義弘は堺にシロを築いて籠城。足利満兼の援軍待ち。だが関東管領上杉憲定が大反対。満兼軍は下野足利(栃木県足利市)でストップ。義満は八幡に本陣、諸大名に堺城攻撃命令。ヒトツキ近くに及ぶ籠城戦の末、義弘討ち死に。応永の乱。当時は「堺合戦」。
義弘の末弟・弘茂(ひろしげ)は、幕府軍に抗戦したにも関わらず、降伏を許され、周防・長門の守護職を安堵。大内氏の本国である防長二国にまで軍を進める余力が、幕府にはなかった。足利満兼も義満に恭順を誓うことで地位を保つ。これまた、関東遠征困難という幕府の苦しい事情。
他方、遠江半国守護の今川了俊は乱への関与を疑われ、政界から引退。了俊は『難太平記』で、弱気をくじき強きを助けるのが義満のやり方だという義弘の言葉を借りて皮肉っている。
ともあれ義満は、紀伊・和泉を大内氏から取り上げ、畿内近国を自分に忠実な大名たちで固めた。大きな成果。以後「室町殿」が自ら兵を率いて戦うことはなくなる。義満は内乱時代に幕を引いた。
※いやいや、まだまだ内乱終わってないでしょ。笑

終章 p273
「室町の平和」は妥協の産物 p273
応永七年(一四〇〇)、留守を預かっていた大内弘茂の兄・盛見(もりはる)が弘茂の家督相続に反発して挙兵したので、弘茂は山口に下って盛見を攻撃、盛見は九州に逃れ、豊後の大友氏を頼る。
応永八年(一四〇一)、盛見は大友氏の支援で反撃、長門に上陸、弘茂を討ち取った。
p274
盛見の勢力拡大により、ついに義満は盛見の家督相続を認めた。
応永一〇年(一四〇三)、周防・長門の、
応永一一年(一四〇四)には豊前の守護職が盛見に与えられた。義満屈辱。幕府の大内氏による九州攻略作戦も失敗。
この時期になると、全国の守護は京都常駐が義務。守護は本国経営を守護代に任せた。「守護在京制」というが、奥羽は守護不設置、関東と九州は在国。
義満は、遠征困難により「遠国」半独立容認で「平和」を達成。近年の学界は「室町の平和」と呼ぶ。
応永一五年(一四〇八)義満死去。義持、北山第解体、日明貿易中止。「遠国放任策」継承。
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応永一七年(一四一〇)、義持政権初期に権勢をふるった斯波義将(よしゆき)没。※義持の家督相続支持。
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応永一九年(一四一二)大内盛見、上洛。
応永三二年(一四二五)大内盛見、菊池・少弐の蜂起鎮圧のため九州へ。これは関東問題(*)に忙殺された結果。
(*)足利満兼の後継鎌倉公方足利持氏はたびたび幕府に反抗的姿勢、持氏討伐は議題になったが、結局、持氏の謝罪を受け入れている。九州侵攻作戦は完全ストップ。
p275
基本構図は、強攻策の義持に同調するように見せて穏便策に修正する。諸大名は次の通り。
細川満元
斯波義淳(よしあつ)
畠山満家
山名時煕(ときひろ)
一色義範
赤松義則
遠国問題に関しては、室町殿は独断できず、諸大名の同意が必要という不文律があった。義持はしばしば我慢。

足利義持と諸大名の「手打ち」p275
p276
義持が状況打開のため、側近重用により、諸大名の弱体化も試みた。
富樫満茂(みつしげ)が、斯波義将(よしゆき)没後、取り次ぎ役として頭角を表す。
応永二一年(一四一四)
※一休、自殺を図る。
斯波満種(みつたね)が義持の怒りを買い加賀守護職解任。富樫満茂・満春兄弟が加賀国を半分ずつ与えられた。
※のちに蓮如の一向一揆に関連。
応永二三年(一四一六)
一〇月、義持の弟で生前の義満にかわいがられていた(一時は義満の後継者と見られた)義嗣に謀叛の疑い。富樫満成が捜査指揮。
この年、 関東で上杉禅秀の乱
応永二四年(一四一七)
正月、関東の上杉禅秀の乱鎮圧。
応永二五年(一四一八)
正月、幽閉の義嗣が、義持の密命を受けた富樫満成の部下により殺害された。父・義満亡き義嗣に謀叛の力はない。上杉禅秀の乱を利用して、潜在的危険分子義嗣を処分したのだろう。
これで終わらなかった。富樫満成の捜査の結果、次の人物に義嗣の謀叛計画に参加していた疑い。
畠山満慶(みつのり。満家の弟)
山名時煕
土岐康政(故人。康行の子)
※処分略
応永二五年(一四一八)
一一月、事件急転直下。富樫満成が義持によって追放(後に畠山満家によって殺害される)。全ては満成の陰謀で、満成が義嗣に謀叛をそそのかし、それが発覚しそうになったので口封じのために勝手に義嗣を殺した、ということにされた(『満済准后日記(まんさいじゅごうにっき)』『看聞(かんもん)日記』)。義持は諸大名の弱体化させようとしたが、諸大名の反発が予想以上に強かったので、トカゲのしっぽ切りで、富樫満成に全ての責任を押しつけて葬ったのだろう。
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次の側近が、赤松持貞。
※一休が色目を使ってからかった相手
p277
持貞は赤松氏の傍流(次頁系図)だが、(略)有力守護を牽制するために傍流を取り立てるというやり方は、義満に学んだのだろう。
※政治のテクニック
p277
応永三四年(一四二七)
九月、赤松氏の惣領・義則死去。享年七〇。嫡男・満祐(みつすけ)後継。義持は満祐から播磨守護職を取り上げ、赤松持貞に与えた。
一〇月二六日、激怒した満祐は自身の屋敷に火をかけ、無断で播磨に帰った。この時期の守護在京制により、許可なしで分国に帰ることは幕府への反逆。
p278
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※赤松円心ゆかりの地
苔縄城1
苔縄城2
法雲寺
宝林寺(上郡町河野原)
※悪いが行きたくなるほどではない。
p278
代替わりに有力守護家の中をかき回すというこのやり方は、かつて義満が土岐氏・山名氏にやったことと似ている。が、義満が重用した土岐満貞や山名氏清は、一門内の有力者。対して持貞は赤松一族の庶流のそのまた庶流。義持の信任で台頭した成り上がり者。満祐に代わり持貞を赤松氏の惣領にするという義持の措置はいかにも強引で、無理があった。

「ハト派」の重鎮、畠山満家p280
※後日

追いつめられた赤松満祐
※後日

赤松満祐邸跡(詳しいブログ)
嘉吉の乱(わかりやすいブログ)

将軍犬死 p294
■嘉吉元年(一四四一)六月二四日
p295
翌日、
義教の嫡男・千也茶丸はわずか八歳
p296
管領細川持之が政務代行
七月一一日、細川持常が率いる赤松討伐軍が京都を出発

「幕府を取り戻す」 p296
p297
七月末、山名持豊はようやく京都を発って但馬へ向かった。
八月一日、後花園が綸旨を発給
八月、千也茶丸は義勝と改名
九月九日、赤松義雅は同族の満政に降伏し、息子を託して切腹した。
翌十日、幕府軍は満祐のこもる城山城(現在の兵庫県たつの市に所在)を総攻撃。赤松満祐は自害。

■嘉吉二年(一四四二)
義勝は元服し、将軍に任命された。
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p298
細川氏の本家である京兆家の細川持之が没。嫡子・勝元が後継。まだ一三歳のため叔父の持資(細川典廐(てんきゅう)家の祖)が後見。
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p297
■嘉吉三年(一四四三)
七月、義勝は病没。後継者は義勝の同母弟、三春。後の足利義政。当時八歳。政務は畠山持国が代行。
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p299
管領畠山持国のバックアップを受けて、伊勢貞親は義政の養父と定められた。
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p298
細川勝元と畠山持国が三、四年で政務交代 ※詳細略
■文安六年(一四四九)
足利義成(よししげ。後に義政に改名)は将軍に任命。

※一四五〇 細川勝元、龍安寺建立

■享徳四年 (一四五五。七月に康正(こうしょう)に改元)
三月、畠山持国が没。義政は畠山持国を支援することで、細川勝元を牽制しようとしていた。持国の死去のため、義政は勝元との関係を修復する。一方で、側近の育成を進める。
p299
伊勢貞親はその代表。嘉吉三年(一四四三。持国が死ぬ一二年前)、貞親は義政の養父と定められ、義政の成長にともない貞親の権限も拡大。
※一二年間養父だったのか。長いわ。
p299
当初、貞親の仕事は将軍家の財産管理。持国が死んだ頃から、幕府政治(財政・司法・軍事)に深く関わる。背後に義政の意向。
義政は、貞親により将軍権力の拡大を図り、管領細川勝元との権力闘争激化。

空洞化する京都 p299
p300
義政は戦乱平定のために軍事動員を連続した。京都の惣領、たとえば毛利煕元(ひろもと)は所領の安芸にいる一族に対し、上京して共に大和へ参戦するよう命じたが、一人も上洛してこなかったため、やむなく自分だけで参戦したという(「毛利家文書」)。
同じく安芸の小早川煕平(ひろひら)も、大和参戦のために国元から一族を呼び寄せようとしたが、病気や経済的に貧乏だからと誰も上洛せず、参戦をあきらめた(「小早川家文書」)。
軍役(徴兵)の配分をめぐるこの惣領と庶子の利害対立は、地方における戦争の種にもなった。皮肉なことに、戦乱平定のための義政の努力が、地域紛争を再び生んだ。
p301
大和国の伝統とも言える筒井対越智の戦争と連動して、畠山氏の内紛はますます激しくなった。この結果、在国の一族(庶子など)だけではなく、在京して将軍のそばで働いていた惣領(分国のトップ)たちもギブアップした。大和や河内などへの参戦をイヤだと言いづらく、生活費や交際費がバカにならない京都での生活をやめて、自分の所領(分国)に戻ったのじゃ。もちろん、たるんできた一族支配をもう一度強くするという目的もあった。武士たちは、将軍に奉仕し、その歓心を買うことよりも、在国することにメリットを見つけた。義政の意を受けた伊勢貞親は呼び戻そうとするがうまくいかない。
※義政、とんだ藪蛇じゃ。
■寛正(かんしょう)二年(一四六一)
伊勢貞親は、安芸の平賀弘宗、小早川盛景が病といって上洛しないことに怒り、小早川煕平らを通じて命じた。
「上洛せずに、河内の陣に直行せよ。病気は陣中で療養せよ」
※むちゃくちゃじゃ。
この際、貞親は次の方針を伝えている。
①陣中で病気の真偽を検査
②別の理由なら京都で弁明を聞く
③それでもサボる者は厳罰(「小早川家文書」)
前章で書いたように、貞治・応安年間の軍事的安定を受けて、守護を中心に在京奉公する武士が増加。その後、明徳の乱や応永の乱を経て、京都に常住する武士の家はほぼ固定化。
p302
京都大学山田徹氏は「在京直臣」と命名。全国の武士のうち、一握り。将軍と密接なのでいろいろ特権。在京は一種のステータス。よって在京直臣のUターン現象は「戦後的価値観」が崩れつつあること。

平賀弘宗・小早川盛景が畿内に行かなかったのは、安芸で大内氏のチームに入って戦争をしていたから。敵はまあ幕府じゃ。
どういうことかというと、幕府は大内氏の所領である安芸東西条(現在の東広島市)を没収し、安芸武田氏に与えた。
怒った大内教弘(のりひろ)が 平賀弘宗・小早川盛景に命令して安芸東西条の鏡山城を攻めさせた。
それで幕府に味方する小早川煕平は「後攻(うしろぜめ)」として、 小早川盛景の本拠地である竹原荘(たけはらのしょう)を攻撃した。
竹原荘(現在の広島県竹原市)を本拠とする小早川盛景にとって、幕府よりも、地域のボスである大内氏の方が大切になっていた。沼田荘(ぬたのしょう。現在の広島県三原市)を本拠とする小早川煕平が幕府に従うのも、将軍への忠誠心というより、安芸武田氏、そして細川氏との関係のため。

沼田小早川氏(煕平、細川氏)

竹原小早川氏(盛景、大内氏)
・両小早川氏は長年の因縁(*)で対立
・細川氏と大内氏は瀬戸内海の支配で対立
(*)本家・沼田小早川家では家督抗争が起こっていたが室町幕府第6代将軍・足利義教は調停に乗り出し、嘉吉元年(1441年)、盛景が沼田小早川家の家督も相続するようにとの決定を下した。しかし、この決定を沼田小早川家が承服するわけもなく、これが一因となり、両小早川氏は反目し合い、抗争を繰り返すようになり、応仁元年(1467年)の応仁の乱でも激しく敵対した。(Wikipedia 小早川盛景 )
p302
応仁の乱が始まると、小早川煕平は細川勝元を大将とする東軍に、小早川弘景(盛景の子)は大内政弘(教弘の子)が属する西軍(日野富子に頼まれた山名宗全が大将)に参加した。応仁の乱の底には、各地で起こっていた近隣武士間の争いがあった。
京都の義政には現場が見えていなかった。地域紛争に過剰に介入して、遠征負担に耐えられなくなった在京直臣は次々に自分の国に帰ってしまった。そして京都は〈空洞化〉した。幕府の力は弱くなり、地方は弱肉強食の戦国時代に突入する。

山名宗全と「戦後レジーム」 p303
応仁の乱が起きた理由については最近まで良く分かっていなかった。
教科書では、足利将軍家で後継者問題が起こり、これが以前からの畠山・斯波氏という両管領家の家督争い(畠山政長対畠山義就(よしひろ)、斯波義敏対斯波義廉(よしかど))と結びついた結果、応仁の乱が起こったと説明される。
息子のいない足利義政は弟の義視を後継者に指名したが、その後で正室の日野富子が男児を産む(のちの義尚)。富子は実子義尚を将軍にするために、山名持豊(この時期は出家して宗全)を義尚の後見人とした。これに対抗して義視が宗全のライバルである細川勝元を頼り、応仁の乱が起こったという。
しかし、最近の家永遵嗣(じゅんじ)氏の研究によると、日野富子と山名宗全の提携は同時代史料にはなく、後世の軍記物『応仁記』の創作という。我が子かわいさで大乱を引き起こした悪女、という日野富子のイメージも実はここから来ている。実際の宗全はむしろ義視と親しく、義視が将軍になることは宗全にとっては良いことだった。事実、応仁の乱の前年に発生した文正の政変で、宗全は義尚の乳父(養育係)である伊勢貞親を追い落とし、義視をアシストしている。これにより義視のが将軍を継ぐことはほぼ確定したので、将軍後継問題は応仁の乱とは無関係である。
※そうかな。日野富子サイドの逆襲は?
p304
乱の直接の引き金となったのは、一四六七年正月の足利義政の決定。義政は、細川方の畠山政長を畠山氏惣領の座から引きずり下ろし、山名方の畠山義就(よしひろ)を新惣領と認定した。これに抗議して政長が管領職を辞すると、後任に宗全の娘婿である斯波義廉(よしかど)をすえた。
※畠山の内紛。バックに細川対山名。
p304
この一連の政変を仕掛けたのは、言うまでもなく山名宗全。山名宗全、斯波義廉(新管領。宗全娘婿)、畠山義就(新惣領)は京都に大軍を集めていたので、クーデターとも評価できる。
つまり山名宗全は足利義尚を将軍にするためではなく、政権トップになるという自らの野望のために動いた。これに対し細川勝元が反撃に出たことで、諸大名は応仁の乱へとなだれこんでいった。この意味で、宗全こそ応仁の乱を起こした犯人。
なぜ宗全はこんな強引なことをやったのか。山名氏の歴史を振り返ろう。
山名氏は明徳の乱 (*) で叩かれ、分国を但馬、因幡、伯耆という山陰三カ国に限定された。
(*) 明徳の乱(めいとくのらん)
元中8=明徳2 (1391) 年 12月に起きた山名氏清,満幸の反乱。室町幕府3代将軍足利義満は当時 11ヵ国の守護を兼ね勢力を誇っていた山名氏を押えるため,山名氏一族のうちわもめに乗じて満幸を丹波に追放したが,満幸は妻の父氏清と結び山陰の兵を率いて挙兵。(kotobank)
p304
再浮上は早かった。応永の乱と大内盛見討伐作戦での活躍を評価され、山名時煕とその一族が備後、石見、安芸の守護職を獲得。なお石見、安芸は、大内氏の分国である周防、長門と境を接しているので、山名氏は大内氏の勢力拡大を封じる役をする。
嘉吉の変(一四四一)後の赤松討伐作戦でも山名宗全とその一族が大きな戦功を挙げ、赤松氏の分国の播磨、備前、美作を獲得。ただし播磨国のうち明石郡、美嚢郡、加東郡の三群は将軍家の御料所とされ、戦功のあった赤松満政が代官として三郡を預かる。
※赤松激怒。父祖伝来の値を山名について盗まれた。
その後、管領畠山持国(山名派)は播磨三郡を満政から取り上げ、宗全に。満政反乱。宗全鎮圧。
p305
ということで、山名氏は最強大名細川氏に匹敵する実力に。
宗全は実力に見合った地位を得られず、むしろ、その横暴なふるまいゆえに義政から嫌われた。ただし、山名氏が幕府内で非主流派に甘んじることになったのは、宗全の粗暴な性格だけが原因ではない。かつて南朝方として幕府をさんざん苦しめた山名氏は、いわば〈旧敵国=敗戦国〉であり、帰参後も山名氏は幕府から警戒された。
足利義満が明徳の乱で山名氏を沈めたのは、その警戒ゆえだ。応永の乱での恩賞も、山名氏を同じ〈旧敵国=敗戦国〉である大内氏にぶつけて互いに牽制させる遠謀。山名宗全にとって、義満が築いた〈戦後レジーム〉は、足利義教とは別の意味で、克服の対象。

足利義政の錯誤
p306
山名宗全は、一族の娘たちを自分の養女とした上で大内教弘(持世の養子)、細川勝元に嫁がせ、幕府による対山名包囲網を無効化した。
※使い古された手だが、やるなあ。タイミングがよい。機を見るに敏。
当時、大内氏は少弐氏との、細川氏は畠山氏との争いを抱えており、宗全との提携を喜んで受け入れた。山名氏を中心に大内、山名、細川の三国同盟が結ばれた。が、やがて大内氏と細川氏は瀬戸内海水運をめぐって対立。
細川勝元は畠山持国、ついで伊勢貞親(義政の養父役)と政治のトップの座を争うが、その間に山名宗全は力をたくわえていった。勝元も宗全の急激な台頭に不安を感じたようだ。
■長禄二年(一四五八)
勝元は赤松義雅の孫にあたる政則を加賀北半国守護に推薦。山名氏の仇敵である赤松氏の再興に一肌ぬいでいる。
ただし赤松氏再興に最も尽くしたのは、赤松氏出身の禅僧で季瓊真蘂(*1)。政界に入った赤松政則は勝元よりも伊勢貞親や季瓊真蘂と親しくなった。
また勝元は、義政の怒りを買って追放された斯波義敏(*3)の赦免を実現。政界復帰した斯波義敏はやはり伊勢貞親や季瓊真蘂と親しくなった。
■文正元年(一四六六)
伊勢貞親は足利義視に謀叛の罪を着せて抹殺しようとした。ここでまさかの細川勝元・山名宗全タッグ。かれら諸大名の反撃により、伊勢貞親は失脚(文正の政変)。この時、貞親だけではなく季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則ら義政の側近チームも一掃された。手足をもがれた足利義政は、以後、政治に関心を失う。
(*1)季瓊真蘂きけいしんずい
[生]応永8(1401).京都?
[没]文明1(1469).8.11. 京都
室町時代の臨済宗の僧。赤松氏一族上月氏の出身。惟肖得巌,西胤俊承らから教えを受け,叔英宗播の法を継いで相国寺鹿苑院内の将軍の小御所である蔭涼軒(*2)で,その留守役をつとめ,蔭涼軒主と称し鹿苑僧録を補佐して権勢を誇った。
(*2)蔭涼軒日録いんりょうけんにちろく
「おんりょうけんにちろく」ともいう。京都相国寺鹿苑院 (ろくおんいん) 内の蔭涼軒主の日記。 61冊。季瓊真蘂 (きけいしんずい) ,益之宗箴 (えきしそうしん) ,亀泉集証 (きせんしゅうしょう) ら3代にわたる公用日記。
(*3)斯波義敏しばよしとし
没年:永正5.11.16(1508.12.8)
生年:永享9(1437)
室町時代の武将。持種の子。左兵衛佐,左兵衛督。享徳1(1452)年斯波宗家の義健が嗣子のないまま没したため養子に迎えられ,越前(福井県)・尾張(愛知県)・遠江(静岡県)3カ国の守護職を継ぐ。斯波家の宿老甲斐常治と対立し,康正2(1456)年常治の専横を幕府に訴えるがかえって敗れ,斯波家臣を二分しての両派の抗争は長禄2(1458)年越前一国におよぶ合戦に発展した。翌年将軍足利義政から関東出陣を命じられると,義敏は京都を出てそのまま越前敦賀に甲斐勢を攻めるが,敗れる。そのうえ幕府からは家督を追われたため,大内氏を頼って周防(山口県)に下った。跡を継いだ子の松王丸(義良)も寛正2(1461)年退けられて渋川氏から義廉が迎えられたが,持種の伊勢貞親ら義政寵臣への働きかけにより,文正1(1466)年7月家督の奪還に成功した。しかし,9月貞親らが失脚すると,家督は再び義廉に移る。応仁の乱が始まると細川勝元率いる東軍に加わり,応仁1(1467)年5月越前に下って義廉方を圧迫した。翌年義廉のもと山名宗全率いる西軍にあった朝倉孝景が東軍に寝返ったが,義敏は孝景と共同行動をとることを拒み,父祖以来の本拠大野郡で二宮氏と共に抵抗を続けた。しかし,文明7(1475)年土橋城(大野市)を出て朝倉氏の手で京都に送られる。以後子の義良が甲斐・二宮氏らに擁されて越前侵攻を試みたがいずれも失敗し,同15年尾張に下った。『新撰G7EDF玖波集』に連歌7首が入っている。鈴木良一『応仁の乱』
(河村昭一)(kotobank)

p307
こうして管領細川勝元は、将軍足利義政およびその側近チームとの長年のボス争いを終わらせた。だが、この状況は、外様の山名宗全にとってトップを奪う絶好のチャンスだった。宗全は動いた。公然と細川勝元排除を開始した。(前述)
(略)
義政の失敗は、「京都しか見ていない。山名宗全を見ていなかった」ことに尽きる。
※国内で争っている隙をつかれて、外国に滅ぼされるパターン。

p308
室町幕府にとって最も危険な存在は、既存体制内での権力を目指す細川勝元ではなぬ、〈戦後体制〉を根本からひっくり返そうとする山名宗全。義政はこのことに無自覚。義政が勝元との政治ゲームに興じた結果、宗全が漁夫の利を得て勢力を拡大。応仁の乱になった。一〇年にわたって続いた戦争は京都を焼け野原にし、〈ゲーム盤〉そのものをひっくり返した。

p309
足軽と土一揆
応仁の乱の特徴。足軽の横行。「疾足(はやあし)」とも呼ばれた彼らは、機動力に富んだ軽装の雑兵で、諸大名に雇われて京都での市街戦で活躍。一方で、戦費や軍需物資を調達するという名目で、寺社や土倉などの富裕層から金品や資材を強奪した。

p310
■亨徳三年(一四五四)から応仁の乱の前年にあたる
■文正元年(一四六六)まで
この間、八回の土一揆。ほとんど毎年のひどいイベント。
土一揆とは、土民(一般民衆)を主体とする一揆。京都の住民ではなく、むしろ土倉や酒屋について対して債務を負っていない京都近郊の農村の百姓。金融業者からみれば強盗。略奪。
京都に出て富を奪おうとする飢餓難民を組織化したものが土一揆。
(略)
p311
真っ向から対立しているかに見える土一揆と土一揆鎮圧軍は、どちらも京都の闇社会を人員の供給源としている意味ではつながっている。
(足軽)
p312
土一揆の武力が、足軽という形で諸大名に吸収された。
応仁の乱の底には、四〇年近く続いた貧民の京都流入という社会問題が。幕府は土一揆にその場しのぎで対応するだけ。食糧問題、貧困問題を解決しなかった。結果、幕府は応仁の乱という破滅を迎えた。

村の〈集団的自衛権〉p312
p314
応仁の乱が始まると、東軍も西軍も、京都近郊の村を味方にしようと働きかけた。兵粮の提供もだが、村の軍事力による交通路の掌握。つまり敵が村を通過しようとしたらこれを妨害し、自軍が通過する場合にはこれを援護することを要請。
p315
応仁二年(一四六八)、山科の一六の村は、東軍の命令で東山通路を封鎖。西軍が東の大津から京都に侵入を阻止(『山科家礼記』)。功績に対して東軍は恩賞を約束。報酬の多くは「半済(はんぜい)」。年貢の半分免除。南北朝時代、武士たちが恩賞としてもらっていた「半済」を、ついに村の百姓が手にするようになった。
なお東軍は山科の村々に、宇治に進んだ西軍を撃退するよう命令したが、山科は宇治を攻めることを拒否した。百姓たちは自分たちの生活の場である山科を守ることには全力を尽くすが、故郷を離れて遠征することは否定した。
応仁の乱以降は、「半済」をエサに村の武力を利用するという戦争が普通になる。応仁の乱が大きな転換点。

勝者なき戦争 p315
■文正二年(一四六七、三月に応仁と改元)
正月、応仁の乱の前哨戦と言える御霊合戦で畠山義就(よしひろ)が畠山政長に勝った。ここまでは山名宗全の作戦通り。
五月、細川チームが反撃に転じる。室町殿を占拠して足利義政、義尚、義視ら〈玉〉を確保。
p316
八月、大内政弘が上洛。宗全をボスとする西軍も盛り返すが、反乱軍の汚名を着せられている状態は痛手。
■応仁二年(一四六八)
一一月、義政が伊勢貞親を呼び戻した。義視は激怒して、西軍に行った。西軍は大義名分のため、義視を事実上の将軍と仰いだ。
こうして二つの幕府ができた。義視を将軍とする新しい幕府を学界では「西幕府」と呼ぶ。西幕府は独自に守護(県知事)の任命も行ったので、一つの国を二人の守護が争うことになった。
■文明五年(一四七三)
三月、宗全没。
五月、勝元没。
■文明六年(一四七四)
四月、宗全の後継者の山名政豊と勝元の嫡子の細川政元(ゲイの魔法使い)が、諸将の同意なしに単独講和。しかし、戦争はその後もだらだらと。一つには、略奪や放火を繰り返す足軽たちの暴力を諸大名が止められなくなっていたことが原因。
※地獄だな。
p317
第一に、守護在京制の崩壊。
■文明一四年(一四八二)
後半には、わずかに細川政元、武田国信、一色義直らが在京。やがて武田、一色も下国。細川政元とその一門数人だけが残った。
南北朝の乱後の戦後レジーム〈守護在京制〉は壊れた。
p318
細川政元が京都に残ったのは、幕政のトップになるためではない。政元は管領に短期間就任して辞めることをくりかえしおり、この時期の幕政を担っていたのは伊勢貞宗(伊勢貞親の嫡男)。
政元は分国の摂津・丹波の両国を結ぶ京都を拠点とするのがベストだから在京した。
一方、細川氏の庶子家は次第に在国志向を強め、政元から離れていく。細川氏本家の京兆家の分国は、
土佐
讃岐
摂津
丹波。
四カ国は多いが、他の大名を圧倒するほどではない。京兆家の強みは、庶子家である
阿波守護家(讃州家)
備中守護家
和泉上守護家
和泉下守護家
淡路守護家
を統率している点にあった。これら一門の分国を合わせると、細川氏の分国は八カ国。讃州家が永享一二年に獲得した三河も合わせると九カ国。この「同族連合体制」によって細川京兆家は幕府内において他大名に対する優位を確立。
守護職は幕府から任命されるから、細川庶子家が守護職を安定して世襲するためには、幕府政治に深く関わっている細川京兆家の応援が大切だった。だが応仁の乱で事情は変わった。幕府が弱くなり、幕府から守護職を任命されるよりも分国の武士たちを実力で従えることの方が重要になった。もはや庶子家が京兆家の下に集まる意味はない。連合は解体し、京兆家の力も著しく小さくなった。
応仁の乱に、勝者なし、じゃ。

墓穴を掘って下剋上 p319

■文明二年(一四七〇)
七月、西幕府は大和の越智家電栄(いえひで)を和泉守護に。
八月四日、喜んだ家栄は河内に出陣(『大乗院寺社雑事記』)。
■文明三年(一四七一)
東幕府の足利義政・細川勝元は、西軍の有力武将、朝倉孝景(斯波義廉の重臣)を裏切らせようとした。孝景は越前守護職を要求。東幕府の越前守護にはすでに斯波義敏。だが、どうしても孝景を味方につけたい義政・勝元らは、「後に正式な任命書を送る」と約束し、孝景を引き抜いた(『朝倉家記』)。
身分や家格が低くても実力ある者に一国の支配を任せる。これは「下剋上」を認めること。
■明応二年(一四九三)
細川政元はクーデター。一〇代将軍の足利義材(よしき。義稙(よしたね))を廃立、新将軍を擁立した(「明応の政変」という)。
■永正四年(一五〇七)
その政元も、家臣の香西元長に暗殺され、元長は政元の養子の澄之(すみゆき)を新当主に擁立した(「永正の錯乱」という)。
義政や政元があおった下剋上の嵐は、やがて将軍家や細川京兆家をも飲み込んでいった。

平和は「きれい」か p320
畠山満家をなじった義教や、強い父義教に憧れた義政の理想はかえって乱を招き、幕府を滅ぼした。
南朝に一時的に降参して築いた尊氏の平和
幕府に終始はむかってきた大内・山名氏をあっさり許して築いた義詮の平和
幾多の謀略の上に築いた義満の平和
(略)
p321
私は憲法九条の改正(国防軍の保持を明記)を不要と考えているが、(略)九条さえ守っていれば日本は平和だと言わんばかりの護憲派の主張には違和感を覚える。
p323
「一点の曇りもない清らかな平和を語るのはやめよう」。人類は太古の昔からずっと戦争。平和を愛しているとは言いがたい。つい戦争にカッコ良さを求めてしまう。その暴力的な衝動に向き合え。平和をことさらに誉めるからむりが出てくる。ダサくてもカッコ悪くても戦争よりは良い。そういう身も蓋もないスタンスが望まれる。
※では拉致被害者は見殺しか? 今のノロノロした進め方で拉致被害者が還ってくると思うのか? はっきり言って無理である。機会待ちをしているだけだ。
p324
畠山満家は「無為(ぶい)」をスローガンとする平和主義者だったが、諸大名の勢力均衡を維持するためには富樫満成や赤松持貞といった義持側近を殺すことすらためらわない。そんな冷酷な一面をもっていた。(略)
日本の平和主義は現実よりも理念に傾いている。なにしろ戦後のアカデミズムは反戦を旗印にしておきながら、戦争や軍隊を正面から検討することを長らく敬遠してきたのだから。(略)
そこには、平和は不断の努力によって保たれるもの、という緊張感がない。

### Wikipedia 守護
守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代は守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代には守護職(しゅごしき)といった。
制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。
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### kotobank 守護大名
室町時代に領国の武士を被官化し,地域的封建権力を確立して大名と呼ばれた守護。守護は,鎌倉時代には領国内の武士との間に封建関係をもたなかったが,室町時代になると,その権限が拡大され,半済 (はんぜい) ,守護請などの手段によって荘園を侵略し,領有化して得た土地や収益をその被官に分け与え,地方武士の所領を安堵したため,地方武士は競って守護のもとに集った。
出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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### Wikipedia 守護大名
室町時代
室町幕府が成立すると、鎌倉幕府の守護制度を継承した。当初、守護の職権については鎌倉期と同じく大犯三ヶ条の検断に限定されていたが、国内統治を一層安定させるため、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)幕府は刈田狼藉の検断権と使節遵行権を新たに守護の職権へ加えた。刈田狼藉とは土地の所有を主張するために田の稲を刈り取る実力行使であり、武士間の所領紛争に伴って発生した。使節遵行とは幕府の判決内容を現地で強制執行することである。これらの検断権を獲得したことにより、守護は、国内の武士間の紛争へ介入する権利と、司法執行の権利の2つを獲得することとなった。また、当初は現地の有力武士が任じられる事が多かった守護の人選も、次第に足利将軍家の一族や譜代、功臣の世襲へと変更されていく。
1352年(南朝:正平7年、北朝:文和元年)、観応の擾乱における軍事兵粮の調達を目的に、国内の荘園・国衙領から年貢の半分を徴収することのできる半済の権利が守護に与えられた。当初、半済は戦乱の激しい3国(近江・美濃・尾張)に限定して認められていたが、守護たちは半済の実施を幕府へ競って要望し、半済は次第に恒久化され、各地に拡がっていく。1368年(南朝:正平23年、北朝:応安元年)に出された応安の半済令は、従来認められていた年貢の半分割だけでなく、土地自体の半分割をも認める内容であり、この後、守護による荘園・国衙領への侵出が著しくなっていった。さらに、守護は荘園領主らと年貢納付の請け負い契約を結び、実質的に荘園への支配を強める守護請(しゅごうけ)も行うようになった。この守護請によって、守護は土地自体を支配する権利、すなわち下地進止権(したじしんしけん)を獲得していくのである。
また、朝廷や幕府が臨時的な事業(御所造営など)のため田の面積に応じて賦課した段銭や、家屋ごとに賦課した棟別銭の徴収は、守護が行うこととされた。守護はこの徴収権を利用して、独自に領国へ段銭・棟別銭を賦課・徴収し、経済的権能をますます強めていったのである。
守護は以上のように強化された権限を背景に、それまで国司が管轄していた国衙の組織を吸収し、国衙の在庁官人を被官(家臣)として組み込むと同時に、国衙領や在庁官人の所領を併合して、守護直轄の守護領(しゅごりょう)を形成した。
またこれと並行して、守護は強い経済力をもって、上記の在庁官人の他、国内の地頭・名主といった有力者(当時、国人と呼ばれた)をも被官(家臣)にしていった。この動きを被官化というが、こうして守護は、土地の面でも人的面でも、国内に領域的かつ均一な影響力(一円支配)を強めていった。
こうした室町期の守護のあり方は、軍事・警察的権能のみを有した鎌倉期守護のそれと大きく異なることから、室町期守護を指して守護大名と称して区別する。また、守護大名による国内の支配体制を守護領国制という。ただし、守護大名による領国支配は、後世の大名領国制と比べると必ずしも徹底したものではなく、畿内を中心に、国人層が守護の被官となることを拒否した例も、実際には多く見られる。また、幕府も荘園制度の解体や守護の権力強化は望ましいとは考えておらず、有力守護大名に対して度々掣肘を加えている。
室町中期までに、幕府における守護大名の権能は肥大化し、幕府はいわば守護大名の連合政権の様相を呈するようになる。当時の有力な守護大名には、足利将軍家の一族である斯波氏・畠山氏・細川氏をはじめ、外様勢力である山名氏・大内氏・赤松氏など数ヶ国を支配する者がいた。これら有力守護は、幕府に出仕するため継続して在京することが多く、領国を離れる場合や多くの分国を抱える場合などに、守護の代官として国人や直属家臣の中から守護代を置いた。さらに守護代も小守護代を置いて、二重三重の支配構造を形成していった。なお、東国の守護は京都ではなく、鎌倉府のある鎌倉に出仕していた。これを在倉制と称する。
これに対して幕府の将軍も自らの側近を従来の奉公衆・奉行衆とともに守護大名家の庶流にも求め、庶流出身の側近に宗家とは別箇に守護職の地位を与える場合もあった。彼らの補佐のもとに将軍の親裁権を高めるとともに守護大名家の分裂と弱体化を誘った。この路線は守護大名の強力な後ろ盾の下に足利将軍家を継いだ足利義持の頃から見られその後継者に継承されるが、守護大名家の分裂と弱体化には一定の成果が見られたものの、肝心な将軍の親裁権強化は有力守護大名の抵抗を前に困難を極め、室町幕府の権力基盤を弱めたばかりではなく、嘉吉の乱や応仁の乱の原因の一つとなったのである。
(略)
守護大名の一覧
斯波氏 – 尾張・越前・遠江・越中・加賀・信濃
畠山氏 – 河内・能登・越中・紀伊・山城
細川氏 – 和泉・摂津・丹波・備中・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐
一色氏 – 三河・若狭・丹後・伊勢(北)・志摩・山城・尾張
赤松氏 – 摂津・播磨・美作・備前
京極氏 – 出雲・隠岐・飛騨
山名氏 – 但馬・因幡・伯耆・石見・備後・安芸・播磨・美作
北畠氏 – 伊勢(南)
土岐氏 – 美濃・伊勢
今川氏 – 遠江・駿河
大崎氏 – 若狭・(陸奥)
伊達氏 – 陸奥(追加設置)
武田氏 – 甲斐・若狭・安芸
小笠原氏 – 信濃
上杉氏 – 相模・伊豆・上総・武蔵・上野・越後
佐竹氏 – 常陸
六角氏 – 近江
仁木氏 – 伊賀
宇都宮氏 – 下野
小山氏 – 下野
結城氏 – 下野
千葉氏 – 下総
富樫氏 – 加賀
大内氏 – 石見・安芸・周防・長門・筑前・豊前
尼子氏 – 出雲・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後・隠岐
毛利氏 – 安芸・周防・長門・備後・備中
河野氏 – 伊予
渋川氏 – 肥前
大友氏 – 豊後・豊前・筑後
少弐氏 – 筑前・肥前・豊前
阿蘇氏 – 肥後
菊池氏 – 肥後
島津氏 – 日向・大隅・薩摩
宗氏 – 対馬
(興福寺) – 大和
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