20150718 高校世界史 第6章 ヨーロッパ世界の形成と発展

p119
4 西ヨーロッパ中世世界の変動
■十字軍とその影響 p119 
※11末~13世紀後半

■商業の復活 p120
 封建社会が安定して農業生産力がくえると余剰生産物がうみだされ、それを交換するための定期市が各地に発生し、貨幣経済都市が復活した。
※ローマの滅亡以来か?
 また、十字軍の影響で交通が発達すると、遠隔地との貿易もさかんになりはじめた。この遠隔地商業では、ヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサなどイタリアの港市が、東方から香辛料を輸入して西ヨーロッパに売りさばき、大きな利益をあげた。これと同時にミラノ・フィレンツェなどの内陸都市も毛織物業や金融業で栄えた。
 つづいて北海・バルト海沿岸地域でも遠隔地商業がさかんになり、ハンブルク・リューベック・ブレーメンなどの北ドイツ諸都市は海産物・木材・穀物などの生活必需品で、ガン・ブリュージュなどフランドル地方の諸都市は毛織物生産で栄えた。この北ヨーロッパ商業圏と地中海商業圏を結ぶ内陸の交通路でも都市が発達し、とくにフランスのシャンパーニュ地方は、国際的な定期市がひらかれて繁栄した。
※シャンパーニュ地方リヨンに関する記述が『21世紀の貨幣論(第六章)』にある。

■中世都市の成立 p122
※11~12世紀以降
自治都市
ハンザ同盟
商人ギルド
同職ギルド
親方
職人・徒弟
アウクスブルクのフッガー家
フィレンツェのメディチ家

■封建社会の衰退 p123 ※14世紀
 商業と都市が発展して貨幣経済がひろまるも、封建制の基礎であった荘園制がくずれはじめた。なぜなら、領主は貨幣(*1)を手に入れようと、地代を賦役(労働)ではなく生産物や貨幣で支払わせたため、農民が地代を支払った残りをたくわえることができるようになってしだいに豊かになり、その地位を高めたからである。また14世紀、気候の寒冷化、黒死病(ペスト)の流行、あいつぐ戦争(百年戦争、バラ戦争)などで農民人口が減少した。そこで、領主は荘園の労働力を確保するために農奴の待遇を向上させなければならなくなり、農民へのさまざまな束縛をゆるめていったからである。
 とくにイギリスでは貨幣経済の発達が著しく、独立自営農民(ヨーマン)とよばれる、農奴の地位から脱した自由な農民が多く生まれた。しかし他方で、経済的に苦しくなった領主がふたたび農民への税の強化や束縛を強めようとする動きもおこった。これに対して、各地で大きな農民一揆が発生した。14世紀後半におこったイギリスのワット=タイラーの乱やフランスでのジャックリーの乱が代表的である。
 封建社会のもう一つの中心であった、封建的主従関係もくずれていった。国王は、成長してきた市民らと協力して諸侯をおさえ(*2)中央集権化をすすめた。
 他方で中小領主である諸侯や騎士は、国王や大諸侯に所領を没収され、また火砲の使用で戦術が変化して戦場での役割を失い、しだいに没落するものも多くなった。こうして力を失った諸侯や騎士は、国王に対してはその宮廷につかえる廷臣となり、農民に対しては地代をとりたてるだけの地主になっていった。
 このような情勢のうちに、各国は禁断な中央集権国家に向かってそれぞれあゆみはじめた。

*1 自由と安定を約束する神。『21世紀の貨幣論』参考。
*2 シャルル五世の側近などか。オレームは諸侯側だが。

■教皇権の衰退 p124
※13~15世紀前半
 十字軍が失敗におわり、各国で王権が強まるにつれて、教皇権はふるわなくなった。教皇ボニファティウス八世(在位一二九四~一三〇三)は、はじめ教皇権の絶対性を主張して力を示したが、一四世紀の初め、フランス王フィリップ四世(在位一二八五~一三一四)と対立してとらえられ、屈辱のうちに死んだ。
ダンテ、ハインリヒ四世が欠落している。
 その後教皇庁はフィリップ四世によって南フランスのアヴィニヨンに移され、その後約七〇年間はフランス国王の支配下におかれ続けた。これを、古代の「バビロン捕囚」にたとえて、「教皇のバビロン捕囚」とよぶ。一四世紀後半、教皇がローマに戻ると、アヴィニヨンにもう一人の教皇がたち、たがいに争ったため(教会大分裂。一三七八~一四一七)、教皇の権威はさらに低下した。こうしたなかで、教会の腐敗に対する批判や改革の声があがりはじめたが、教会も批判者たちをきびしく罰して対抗した。
 イギリスでは一四世紀後半、ウィクリフ(一三二〇ころ~八四)が聖書こそ信仰の中心だと主張して教会を批判し、みずから聖書の英訳をおこなった。ベーメンでは一五世紀初め、フス(一三七〇ころ~一四一五)がウィクリフの説に共鳴して教会の改革を主張して教皇から破門されたが、その主張をかえなかった。こうした混乱をおさめるため、コンスタンツ公会議(一四一四~一八)がひらかれてフスを異端として火刑に処し、ローマ側の教皇のみを正統と認めて教会大分裂をおわらせた。しかしベーメンでは、チェコ人の民族運動と結びついたフス派の反乱が長く続いた。こうして教皇権がかつての勢いを失い、時代は一六世紀の宗教改革につながっていった。

■イギリスとフランス p125
※12~14世紀初め
 イギリスの封建社会は、ノルマン朝のときから、他国にくらべて王権が強かった。
 一二世紀なかば、フランスからはいって成立したプランタジネット朝(一一五四~一三三九)は、フランスにもひろい領土をもちつづけていた。しかしこの王朝のジョン王(在位一一九九~一二一六)は、フランス王とたたかって敗れてフランスの領地の大半を失い、教皇とも対立して破門された。さらに国内で重税を課して貴族の反抗をまねき、一二一五年、大憲章(マグナカルタ)を認めさせられた。これはあらたな課税をおこなうときには聖職者や貴族らの同意が必要であることを定め、王の統治に法律の枠をかぶせたものであったため、イギリスの立憲政治はここからはじまったとされる。
 ところがつぎのヘンリー三世(在位一二一六~七二)が大憲章を無視したため、シモン=ド=モンフォール(一二〇八ころ~六五)が貴族をひきいて王を破り、以前からあった高位聖職者・大貴族の集会に、あらたに州や都市の代表を加えた議会がつくられた。その後エドワード一世(在位一二七二~一三〇七)のときに模範議会がひらかれ、一四世紀なかばには上下両院にわかれるなど、イギリスの議会政治はさらに発達した。

■百年戦争とバラ戦争 p126
※14~15世紀
 フランスでカペー朝が断絶して

■スペインとポルトガル p127
※12~15世紀

■ドイツとイタリア p128
※13半ば~16世紀前半

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