20150318逆説の日本史20幕末年代史編Ⅲ(二)

第二章 一八六三年編 “攘夷は不可能”を悟らせた薩英戦争と下関戦争

p150
 さて、話を一八六三年の初頭に戻そう。この年は初めの方で文久二年から三年になる。
 文久二年も、島津久光の文久の改革や生麦事件など激動の年ではあったが、文久三年に入ると、それがさらに加速化する。
 文久三年の主役は間違いなく長州藩(正式名称は萩藩)であり、個人名をあげるなら桂小五郎でも高杉晋作でもない、久坂玄瑞であろう。

p154
 久坂が考えていたことは、将軍が上洛して来たら攘夷実行を確約させる──しかし、それは表向きの建て前で、実際に幕府は言を左右にして承諾はしないだろうから、その状況に追い込んでおいて「天皇の大御心に逆らう不忠の徳川め」という形で、長州軍が官軍となって幕府を討つという段取りだった。
 しかし、この計画が大失敗することになる。

p200
明けて文久三年正月、大坂へ行き船で江戸へ帰ろうとしていた勝は嵐に遭遇し、風待ちのために下田港に入った。(略)山内容堂も(略)いた。そこで勝は面会を求め、龍馬の脱藩の罪を許し自分に預けてくれと頼んだのである。(略)この二人の出会いは「日本史上の幸運」(略)龍馬は師の身を案じて(略)岡田以蔵を勝自身のボディガードにした(略)。

p155
■幕府の陰謀を逆手に取った「策略の天才」清河八郎
(略)
 まず文久三年の正月二日、前年暮れに京に入っていた京都守護職松平容保(会津藩主)が宮中に参内し、孝明天皇から天盃を賜った。容保は深く感激し、この天皇のために命を捧げようと思ったと言われている。続いて十日には将軍後見職一橋慶喜が宮中に参内した。これは将軍家茂参内の先触れとしてである。天皇を取り巻く急進派の公家三条実美からは(略)矢のような督促(略)、攘夷実行の日限まで決めさせるという久坂のシナリオ通り物事は進んでいた。
 しかし、この月末に、京都の青蓮院(略)にいた尊融法親王(青蓮院宮)が孝明天皇のたっての願いで還俗し、中川宮となった。(略)以後、中川宮は孝明天皇の片腕として活躍することになる。
※天誅組ido
p156
 二月に入って、「航海遠略策」で一世を風靡した長州・長井雅楽が国元で切腹を命じられたことも彼等(久坂、平野国臣、真木和泉)の勝利の確信を深めた。(略)この頃毛利慶親は側近の周布らと心を合わせ「長州ファイブ」のイギリス留学計画(略)高杉も参画していただろう。ちなみに高杉自身はこの頃、久坂の再三にわたる上洛要請を言を左右にして先延ばし(略)。
 ここで策士清河八郎が動いた。(略)罪を許されたばかりか任務まで与えられた。
 それは江戸で腕に覚えのある浪人を集めて、浪士組を結成し京へ向かった将軍の護衛を務める(略)。この時点で、幕府自身が「旗本では将軍護衛の任が果たせない」と認めたことになる。(略)清河は浪士頭取となり、浪士取締役には清河の盟友山岡鉄太郎が任命され、二四〇人の腕自慢の浪人が(略)、中山道を京へ向かった。これが二月八日のことだ。将軍家茂は二月一三日に東海道から京へ向かったから、実は浪士組(と呼ばれた)は道中の護衛はしていない。(略)
 この一行の中に、後に新撰組を立ち上げることになる近藤勇、土方歳三、沖田総司もいた。(略)
p160
 浪士組と将軍家茂が相次いで京に入った二月、江戸では大変な事態(略)。生麦事件と東禅寺事件(第一次)の賠償金一一万ポンドの支払いを幕府に(略)。代理公使ニール(略)回答期限を切ってきた。それがこの年の四月であった。
 この情報を聞きつけた清河は小躍りした。
 今、京にいる浪士組を関東に戻し、横浜の外国人居留地を焼き討ちさせようと考えたのだ。浪士組は一応は幕府の公認した組織だ。それが横浜を襲えば、幕府は支払いを拒否したことになり、完全攘夷へと道が開ける。(略)
 清河は早速浪士組の面々を集めて「江戸へ戻ろう」(略)ほとんどが同意したが、「話が違う。われわれは将軍家のために働こうと京まで来たのだ」(略)。
 残留組は総勢二四名(約一割ido)。その中の一四名が新撰組創立メンバーとなる。(略)
 会津藩の保護下に入ったのは三月一八日(略)。浪士組が京に入る前日に起こった事件が、容保の心を変えた。それが壬生浪士組を抱え込んだ理由でもあった。
 それは足利三代将軍木像梟首事件という。

p164
 そもそも会津松平家は将軍家に対して絶対の忠誠を尽くすことを本分としている。(略)
 しかし、攘夷浪人どもは、将軍暗殺も辞さない連中であることが、この木像梟首事件で判明した。(略)
 これが二月二三日のことである。
 結局、この事件で一番得をしたのは、のちの新撰組の結成メンバー近藤や土方たちだったかもしれない。
 浪士組が京に入ったのは、なんとこの当日二月二三日のことなのである。(略)彼等は三条大橋を通ったかもしれない。
 いや、必ず通っただろう。彼等の「リーダー」は倒幕を心に秘めた清河八郎なのだ。(略)
 この夜、(略)清河は大演説をぶった。われわれは天皇の御親兵となり尊皇攘夷を完遂する。(略)そして、この日からわずか六日後の二九日、清河は前節述べた陰謀を実行するために、江戸へ引き返そうと全員を説得したのである。(略)「お目付役」(略)鵜殿鳩翁と山岡鉄太郎らが清河の意図を黙認したかといえば(略)この浪士組を京に置いておけば攘夷浪人と結びついて、大変なことになると思わせたからであろう。
 実際は前節述べた通り、清河はこの浪士組をもって横浜を襲撃する腹づもりだったから、江戸へ帰すことの方が幕府にとって危険なことなのだが(略)。
 結局、お目付役もそれを認めたことで、清河は浪士組の説得に成功した。攘夷派の鷹司関白に手を回して「命令書」も出させた。そこには「横浜方面の情勢が緊迫しているから、江戸に戻って警戒にあたるべし」とあった。

p188
 また、時系列で事件を整理しよう。
 この年文久三年、三月四日に将軍家茂は陸路入洛した。四月一一日には天皇が石清水八幡宮へ行幸した。一三日には江戸で清河八郎が(佐々木只三郎・顔見知りの幕臣旗本)暗殺され、二〇日には将軍後見職一橋慶喜が宮中で「五月一〇日から攘夷を実行します」と確約させられてしまった。だが、これを約束したことで慶喜は江戸へ帰ることを許された。残された将軍家茂は(略)二三日軍艦で大坂周辺を視察したが、帰国の許可はもらってないので京へ引き返した。二五日姉小路が「転向」した。
 五月に入って横浜では、老中格小笠原長行が独断で生麦事件他の賠償金一一万ポンドをイギリス艦隊に支払った。これが九日のことだ。翌日の一〇日には関門海峡で長州藩が外国船への無差別砲撃を始めた。
 一方、横浜で小笠原と顔を合わせるのを避けた慶喜は、翌日の一一日に江戸で小笠原から独断で賠償金を払いましたという事後報告を受けた。
 慶喜はそれを聞いて何と言ったか?
「おまえの責任だから、京へ行って弁明して来い」と言ったのである。しかも、その三日後(五月一四日)に「攘夷は実行不可能ですから辞めます」と将軍後見職を辞任してしまった。(略)
「腹を立てた」小笠原は、(略)「幕府海軍」の軍艦蟠竜丸(ばんりゅうまる)に乗り、多くの兵を引き連れて西へ向かった。
 大坂に上陸し、兵を率いて京へ入り、将軍を迎えて帰国するつもりだったのだ。(略)

p198
『海舟日記』によれば、龍馬が勝の意を受けて神戸を出発したのが、五月一六日である。
 そして、翌五月一七日付で龍馬は故郷の土佐にいる姉の乙女に対して、手紙を書いている。
p202
 勝の代理として、越前の春嶽のもとに赴いた龍馬は、(略)仕事を成功させた。(略)この越前訪問で、龍馬は生涯の友人となる越前藩士三岡八郎と出会う。(略)由利公正と改名し「五箇条の御誓文」の起草や、明治政府の財政の確立に貢献する(略)。
 また、春嶽の政治顧問をつとめていた横井小楠ともこれをきっかけに親しくなる。(略)
 越前から帰ってきた龍馬が姉乙女に出した手紙の中にある有名な言葉「日本をいま一度洗濯致したく候」も、明らかに小楠の口癖だったという「天下一統人心洗濯希(こいねが)うところなり」の影響を受けていると言われている(略)。

p190
 姉小路公知が暗殺されたのである。
 五月二〇日のことだった。

p203
文久三年前半史
五月二六日 姉小路公知暗殺犯と目された薩摩藩田中新兵衛が自害。
五月二九日 長州藩中島名左衛門、藩内過激派に暗殺される。

p205
(略)京にいた老中板倉勝静があわてて淀まで駆け付け小笠原に「京へ入ってはならぬ」と説得した。これが六月六日のことである。

p217
 さて、高杉が奇兵隊創設の許可を得たのはこの年の六月六日のことだった。

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