20150124マッハとニーチェ

マッハとニーチェ
世紀転換期思想史
木田元
2014.11.10
講談社

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池田信夫ブログより
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51329795.html

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第一回 序論──マッハとニーチェ
p11
一九世紀思想史

p12
レーヴィット『ヘーゲルからニーチェへ』

p13
等身大の一九世紀思想史

p14
一九世紀の捉え方
p15
一七八一年のカントの『純粋理性批判』初版の刊行、一七八九年のフランス革命、このあたりを目安にして考えてよいと思う。フランス革命とナポレオン戦争、ウィーン会議、旧体制(アンシャンレジーム)の復活、そしてふたたび一八三〇年の七月革命と、これまでを大革命とその後始末というひと続きの時代として見ることはできそうである。

p16
世紀転換期思想史の先蹤(せんしょう)

p17
「現象学」の由来

p19
エルンスト・マッハ

p21
フッサールとレーニンのマッハ批判

p22
マッハの影響力

p24
ハイデガーへのニーチェの影響

p25
マッハとニーチェの類似性
(略)
 だが上山安敏さんの『神話と科学』や『フロイトとユング』を読んでいるうちに、エルンスト・H・ヘッケル(一八三四~一九一九)の存在を教えられ、これがけっして偶然の暗合ではないことに気づかされた。一八八二年にヘッケルが『ゲーテ、ラマルク、ダーウィンの自然観』を書き、ドイツ語圏にダーウィニズムを、それもかなり歪曲し、ダーウィンをゲーテのロマン主義的な自然哲学やラマルキズム(*1)に引き寄せながら紹介している。マッハもニーチェも出版されるとすぐこの本を読み、(略)彼らがきわめて似た世界像を描くことになる共通の動機があったのである。
https://kotobank.jp/word/ラマルキズム-147754
ラマルキズム
Lamarckism
フランスの C.ラマルクが 19世紀初頭に唱えた進化学説で,親が獲得した諸形質は子孫に伝わりうるというものである。この説によると,動物が継続して使用する器官は代を重ねるにつれてますます発達し,反対に使用しない器官は次第に退化して痕跡的となり,やがて消失する。

p26
世紀末ウィーンが嗅ぎとったもの

p28
ローベルト・ムージル

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第二回 力学的自然観とは

p30
産業革命

p31
蒸気機関の科学的考察とエコール・ポリテクニク
p32
イギリスの蒸気機関がフランスに輸入されたのは、一七七二年ペリエによってであるが、フランスでは当面宮廷の噴水の水揚げくらいしか使い途がなかった。(略)サディ・カルノー(略)
 そのカルノーを育てたのがエコール・ポリテクニクである。

p33
「ニュートンの力学」から「ニュートン力学」へ
山本義隆さん
一六八七年に出版されたニュートン(一六四二~一七二七)の『自然哲学の数学的原理』(プリンキピア)は、(略)初期条件の設定や、その運動が減衰もせずに継続しているのはすべて神の力によると主張する。つまり、ニュートンにあっては、「自然哲学の数学的原理」は神学的原理によって補完されているのである。
(略)ラプラス
(略)エルンスト・マッハ
(略)オイラー
(略)ヘルマン・クライン(略)ガリレイ(略)オイラー(略)

p35
「ニュートン力学」の完成

p36
物理現象の相互変換性

p38
力の保存の原理を発見したヘルムホルツ

p41
生理学と物理学

p43
力学的自然観

p45
俗流唯物論
p47
一九世紀中葉の思想状況というのは、この「水晶宮」と「二二が四」に象徴される。

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第三回 実証主義の風潮
p48
人間諸科学の成立
一九世紀の後半に、自然科学の方法を模倣し、哲学から脱皮して科学として自立する(略)。

p49
哲学的心理学
テーテンス(一七三六~一八〇七)などは(略)心理現象を知・情・意に三分し、(略)この分類法がカントに大きな影響を及ぼした(略)。ヘーゲルの『エンツィクロペディ』にも、「精神哲学」の一節として「心理学」が組みこまれている。

p49
フェヒナーの精神物理学

p50
ヴントの実験心理学
 フェヒナーの実験的研究を事実上引き継ぎ、推し進めたのが、ドイツ実験心理学の父と言われるヴィルヘルム・ヴント(一八三二~一九二〇)である。ヴントはベルリン大学で、ヘルムホルツの師でもあったヨハネス・ミュラーに実験生理学を学び、次いでハイデルベルク大学では講師をしながらヘルムホルツの助手となって研究を続けたが、その間にしだいに興味を感覚生理学から生理学的心理学へ移し、一八七四年に『生理学的心理学綱要』を書き、一八七九年にはライプツィヒ大学に世界最初の心理学実験室を創設した。
※名張図書館の蔵書より、神経心理学か? 身体心理学ではなさそう。原著はネット検索しても購入不可。ido

p52
方法論的前提

p54
近代実証史学の成立

p55
社会学の成立

p57
言語学
p58
おおよそ一八六〇年代から九〇年代あたりまでのあいだに、人間的事象にかかわる諸研究が哲学から離脱し、科学として自立することになる。(略)
 こうして人間諸科学が成立すると、それを追いかけるようにして、先に見たように、それらの科学に過大な期待をかける〈心理学主義〉〈歴史主義〉〈社会学主義〉といったイデオロギー(*1)が提唱される。これらの主張自体はけっして科学的認識ではなく、一種の哲学的主張である。
(*1)考え方。一般に、思想傾向。特に、政治・社会思想。

p58
文学・社会理論における科学主義

p60
実証主義

p61
新カント派

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第四回 エルンスト・マッハの生涯
p65
 エルンスト・マッハは一八三八年二月一八日に、現チェコ領、当時はオーストリア領モラヴィアの首都ブルーノの数マイル南にあるキルリッツという村の母ヨゼフィーヌの実家で生まれている。
p70
 アインシュタインは、自分たちの世代の者、たとえマッハの反対者でさえもが「どれほど多く自分たちが母乳とともにマッハの探求法(アプローチ)を吸収したか、ほとんど知っていない」と断言し、その探求法を「発生論的方法」と呼んでいるそうだが(*1)、マッハはフロイトに先立って幼児期の体験がいかに成人後の感情や思考のあり方決定するかを十分に知っていたようである。

(*1) ルイス・S・フォイヤー『アインシュタインと科学革命』一九七四年、「Ⅰ アインシュタインの相対性理論の社会的起源、3エルンスト・マッハ──相対主義的見地の起源」

p70
ヨハン・マッハ(父)は一八四八年の革命の夢の崩壊期の「自由思想家」の一人であり、(略)息子も父のこの自由思想を継承し、後年ウィーンの社会主義グループ(ウィーン・フェビアン協会)に加入することになる(略)。
p71
指物師(*1)修行
(*1)指物の細工をする職人。 指物とは、板をさしあわせて作った家具や器具。たんす・箱・机の類。
 三月革命挫折後のウィーンは宗教的な反動が強まり、陰鬱な雰囲気に覆われ、そんななかで、半世紀近く前に書かれたショーペンハウアーのペシミスティックな『意志と表象としての世界』が急に読まれ始めるといった状況だったらしい。

p71
カント『プロレゴーメナ』を読む
 一五歳の頃に、マッハは父の書斎でカントの『プロレゴーメナ』を読み、強い感銘を受ける。

p74
ウィーン大学入学
 エルンスト・マッハは一八五五年にウィーン大学に入学し、今度は数学や物理学といった好みの学問だけに精進することになる。
(略)
 一八六二年(略)マッハはこの頃から生理学や心理学への物理学の応用に関心をもつようになる。

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第五回 現象学的物理学の構想
p82
一五歳のヒューム主義者
(略)マッハは一五歳くらいのとき父の書斎でカントの『プロレゴーメナ』に出会い、強烈な感銘を受けたが、二、三年後には、そこで〈物自体〉が果たしている「なくもがなの役割」に気づいたという。カント哲学から物自体を引き去ればヒュームの現象主義になるというのは哲学史の常識だが、そんなことはなにも知らないままに、マッハは独力でヒュームと同じ見解に達したことになる。

 ある晴れた夏の日に…突如として、私の自我をもふくめた世界は連関しあった感覚の一集団である、ただ、自我においてはいっそう強くては連関しあっているだけだ、と思えた。

 ヒュームとそっくりのこのマッハの発見は実に印象的である。(略)

p83
マッハのもっとも重要な仕事
(略)科学史三部作、つまり『力学の発達』(一八八三年)、『熱学の諸原理』(一八九六年)、『物理光学の諸原理』
(一九二一年)である。

p87
 こうして、物理学の体系のなかで力学が特権的な位置を占めることになる。つまり、熱や光や電磁気といったすべての自然現象は、時間・空間内での質点の運動という力学モデルに還元されてはじめて理解されたとみなされるのであるから、物理学のすべての諸学科は力学を中心に組織されることになる。これが〈力学主義的〉な古典物理学の体系である。

p91
自然は感官を
世界に固有の

p93
要素ABN

p94
どの現象も物理学の全分野に

p96
「単なる現象」と蔑視されてきたこの感性界をこそ究極の実在

p98
ダーウィン

p102
ヘッケル

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第六回 感性的要素一元論

※実在するのは何か? という論争。
アトムなのか?
エネルギーなのか?
神がそれを造ったとか造っていないとかは問題になっていない。ido

p105
アトミスティークvs.エネルゲティーク

p105
ボルツマンとアトミスティーク

p106
両派の論争
 この両派の対立が激化したのは、マッハのウィーン帰還直後の一八九五年九月にリューベックで開かれた〈ドイツ自然科学者・医師協会〉の大会以後である。この席上、ゲオルク・ヘルム(一八五一~一九二三)とヴィルヘルム・オストワルト(一八五三~一九三二)が、可逆的な力学法則から不可逆性を内包する熱力学第二法則(エントロピー増大の法則)を導出することはできないということを根拠に、アトミスティークを批判し、物質や力に関する物理法則をすべてエネルギーに関する法則系に還元すべきだというエネルゲティークを主張し、フェリックス・クラインをセコンドにつけたボルツマンがそれに応戦した。ヘルムとオストワルトの背後には、そこに出席はしていなかったが、マッハがいると見られていたし、ボルツマンの見解はマックス・プランク(一八五八~一九四七)によって支持されていた。

p107
論争の帰趨
(略)
 それだけではない。アトミスティークを主張していたボルツマンが、熱力学の第二法則を気体分子の運動によって説明し、さらにそうした分子運動についてはニュートン力学のような一義的な力学法則は通用せず、確率統計論的方法を導入する必要があるとして、統計力学を提唱するにいたる。これは事実上、決定論的な力学的自然観の崩壊を意味しよう。
 一方、エネルゲティークの主唱者オストワルトも、J・トムソンのイオンに関する研究とペランのブラウン運動に関する研究の成功を見て、一九〇九年には「原子仮説がいまや十分に根拠のある理論に高められた」ことを認めるようになる。もっとも、論敵ボルツマンは、自分の統計力学の構想が一般に受け容れられないことへの不満と論争の疲労から、すでに一九〇六年にみずから命を断っていたのだが。
 それにエネルゲティークの陣営も必ずしも一枚岩ではなかった。オストワルトは、やむなく原子論は認めたものの、だからといってけっしてエネルゲティークを放棄したわけではなく、一九〇一年から一四年までみずから編集にあたった雑誌『自然哲学年報』で、依然としてエネルギーこそが客観的実在だという主張を展開しつづけたし、それどころか彼は、一九一〇年から一四年まで、前回ふれたヘッケルの創設した〈ドイツ一元論者同盟〉の会長に就任し、宗教に替えてエネルギー論的科学にもとづく世界観を普及しようとさえした。
p108
 同じエネルギー論者でも、ヘルムはエネルギーを実在と見る見方には断固反対し、エネルギーを関係の表現としてしか見なかった。

 一般の理論物理学にとっては、原子もエネルギーも、あるいはこの種のなんらかの概念も実在するものではなく、ただ一群の観測から直接に導き出される経験があるだけである。(略)(ヘルム『エネルゲティーク』、三六二ページ。カッシーラー『認識問題4』、一二二ページの引用に拠る)

p109
マッハの立場
 この論争の渦中でマッハが採った立場は微妙である。たしかに彼は、反原子論および力学的自然観批判という年ではオストワルトに同調したが、エネルギーを実体的実在と見たり、エネルギー概念によって法則を定式化したりするつもりはなかった。彼は原子であれエネルギーであれ、現象を越えた実在と見ることには否定的であり、その意味ではアトミスティークにもエネルゲティークにも反対であった。(略)

p110
マッハが思い描く「哲学」とは?
p111
『感覚の分析』の第二版(一九〇〇年)への序文で「私の(略)根底には、同一の見解が介在している。それは形而上学的なものはいっさい余計であり、科学の経済を混乱させるものとして、ことごとく消去されるべきだという見解である」(略)「私の考え方は、いっさいの形而上学的問題を、それが現在解けないだけなのか、それとも一般に、また永久に無意味だとみなされるものかにかかわりなく、排除するものだということ」(略)
彼が〈哲学〉ということで思い描いているのは、感官感覚に現れてくることのないような形而上学的存在(イコール神でしょido)について論ずること、つまり〈形而上学〉であるらしいことがうかがわれる。その意味では、自分の感性的要素一元論は〈哲学〉ではないと言いたいのであろう。

p112
マッハの思想=感性的要素一元論
※後日
p113
※後日
(野家啓一「世紀末の認識論──エルンスト・マッハと「ウィーンの精神」」、『無根拠からの出発』、九-一〇ページ)
p114
「中性的一元論」
(略)マッハの思想を、W・ジェームズやB・ラッセルが〈中性的一元論(ニュートラル・モニズム)〉と呼ぶのは、このゆえである。
※後日
p114
自我の解体
※後日
(略)バークリー流の主観的観念論になりそうである。

p115
物体・身体・自我
 こうして、唯物論・実在論が拠りどころにしてきた〈物体〉も〈物質〉も、また唯心論・観念論がいっさいの存在を支える基点としてきた〈自我〉も、〈感性的諸要素〉に解体されてしまう。当然、もはや物体と自我、外界と内界、物質界と精神界を区別する理由はない。
p117
 こうして、実体的な意味での物体も自我もすべて解消され、残るのは感性的諸要素が互いに関数的に依属しあい連関しあいながら現われ、絶えず離合集散を繰り返している一元的世界、つまり〈現象〉の世界だけである。それは〈物体〉と呼ばれうるような両義的(アンビギュアス)な世界である。これらの複合体も比較的安定して持続するというだけで、絶対的な恒常性をもつものではない。この世界には、そうした絶対的な恒常性をもつようなものはなに一つないのであって、(諸行無常ido)マッハに言わせれば、論理学的真理や数学的真理でさえも、そうした感性的諸要素の離合集散、つまり経験に起源をもち、そこから生成してきたものなのである。彼は、幾何学的空間でさえも、絶対のアプリオリではありえないと言う。

p118
空間と時間

p119
現実と仮象
 こうして、いっさいが感性的諸要素に解体されたマッハの世界においては、〈現実と仮象〉〈実在と現象〉、さらには〈現実と夢〉の区別さえも意味を失ってしまう。
(略)
こうした認識論をもふくむマッハの〈感性的要素一元論〉が、進化論という(神は完全に死んでいる。アダムなどいない。ido)作業仮説からの帰結であることは、言うまでもない。われわれの感覚器官がもっと進化すれば、いまとは違った感性的諸要素がいまとは違った関数的依属関係のうちに現れてくるかもしれない。しかし、進化の現段階では、これが、それ以上還元不可能な究極的所与であり、これが世界なのであって、これを経験的に記述し、それに適応するしかない。
 たとえば原子論にしても、感性的諸要素から成るこの現象界を記述する一つの仕方としてなら、その経済効率はともかく、承認されうる。アトミスティークの誤りは、単に一つの記述の仕方でしかないものを、形而上学的実在として実体化し、この感性的世界をその単なる〈現象〉に貶めるところにある、とマッハは言いたいのである。

p120
ニーチェのマッハへの共感
※後日

p121
経験批判論
※後日

p123
ジェームズが主張する純粋経験
※後日

p125
要素還元主義か
(略)
 たしかにマッハも、〈感性的諸要素〉を世界の究極の構成要素だと主張する。だが、これは、世界をこうした要素の単なるモザイクに解体しようということではない。感性的諸要素はけっしてバラバラに孤立して現れてくるものではなく、つねになんらかの〈関数的相互依属関係〉の項として捉えられる。マッハの視線は、つねに要素を包みこむ〈全体〉へ向けられているのである。
 マッハのこの発想から、ゲシュタルト心理学と現象学という二つの大きな思想の流れ出る次第を次回見てみたい。

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第七回 ゲシュタルト理論の成立

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第八回 マッハと現象学の系譜

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第九回 アインシュタインとフリードリヒ・アードラーの交友
p177
(略)マルクスとエンゲルスが人間の歴史から形而上学的概念を除去しようとしたのと同じように、マッハは自然科学から形而上学的概念を払拭しようとしたのである。

p179
オリンピア・アカデミー
 アインシュタインは一八九七年から一九〇〇年まで連邦工科大学に在学し、卒業後二年間をほとんど無駄に費やしたあと、一九〇二年六月ベルンのスイス特許局で三級技師として働きはじめ、特殊相対性理論に関する論文執筆をはさんで一九〇九年までそこに在職するが、このベルンで彼は〈オリンピア・アカデミー〉という知的サークルを結成する。

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第十回 レーニンとロシア・マッハ主義者たち
p187
レーニンの『唯物論と経験批判論』

p194
ボグダーノフ

p198
レーニンとボグダーノフ

p205
ボグダーノフの経験一元論
p208
(略)どうやら集団的身体の実現を目指して血液交換を研究しようとしたものらしいが、一九二八年(張作霖爆殺事件ido)にみずから被験者になっておこなった輸血実験に失敗して死亡した。

p209
ボグダーノフのマッハ批判
p210
(略)彼は、宇宙や人間にはさらなる進化の可能性があると考え、新しい集団主義においては、個人が自覚的に集団の一員となる。しかもそれは精神面においてだけではなく、肉体にもおよび、一種の「集団的身体」のようなものさえ実現可能だと信じていたらしい。こうして彼は、「やがて、全人類が文字どおりの血縁関係となり、生命の同志的交換は観念だけでなく、肉体におよび、真の同志的関係にもとづく社会が完成する」(八三─八四ページ)と考え、最後にみずから設立した輸血研究所の所長として彼が自分を実験台に血液交換の実験をおこなったのも、それを実証しようとしてのことだというからなんとも悲劇的な話である。

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第十一回 ウィトゲンシュタイン/ウィーン学団/ケルゼン
p214
初期ウィトゲンシュタインのマッハ観
p216
「マッハの文体にむかつく」と書いているそうである(マックギネス、六三ページ)。マックギネスは、この発言の底には、文体は思想を反映するというウィトゲンシュタインの信念があったにちがいないと主張する。つまり、現象はどのようにでも記述することができ、力学もまた一つの記述の仕方にすぎないとするような、マッハの相対主義でいわばとりとめのない考え方に対する反発がこうした発言を生んだと見るのである。

p217
ウィトゲンシュタインの究極の関心は、キルケゴールやトルストイの取り組んだ倫理の問題にあったのであり、彼がフレーゲやラッセルから借りた手段によってヘルツやボルツマンの仕事を拡張し、およそ〈語りうること〉を明晰に語ろうとしたのも、そうすることによって〈語りえないこと〉─つまり、倫理の問題─を内がわから画定し、間接的に〈示す〉ことができると考えたからだろうと主張している。
 このように、〈語りうること〉と〈語りえないこと〉とを明確に区別し、しかも〈語りうること〉を一義的に明晰に語る言語をもとめていたこの時代のウィトゲンシュタインにとって、徹底して相対主義的なマッハが「むかつき」の対象だったであろうことはうなずける。(略)

p217
後期ウィトゲンシュタイン
p218
『論考』において(略)〈語〉は究極的には固有名だと考え、それを〈名前〉と呼んでいた。そして、「名前は対象を意味している。対象こそが名前の意味なのである」と主張していた。ところが、復帰後の彼は、『論考』の意味論を自己批判するかのように、語の〈意味〉とは実際におこなわれているその語の〈使用〉にほかならないと説きはじめる。こうした〈意味論〉と〈言語ゲーム理論〉を中軸とする以後の思想が、〈後期思想〉と呼ばれ、『論考』の前期思想と区別される(略)

p219
ウィトゲンシュタインの現象学
p219
 現象学とは、物理学がみずからの理論を構築するための土台としている諸事実を記述する文法である。(I・1節)

 和声学は少なくともその一部は現象学であり、したがって文法である。 (I・4節)

 これを見て、(略)そそっかしく、過渡期・後期ウィトゲンシュタインとフッサールの超越論的現象学の関係を論じはじめる研究者もいたが、ウィトゲンシュタインがここで考えているのはマッハの〈現象学〉らしい。

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第十二回 〈力への意志〉─ニーチェの哲学Ⅰ

p239
 ついでにいえば、ニーチェの考えでは、現状確保のための価値定立作用が「認識」と呼ばれ、それによって定立される「価値」が「真理」と呼ばれる。
 そして、高揚のための価値定立作用が「芸術」と呼ばれ、それによって定立される「価値」が「美」と呼ばれる。
 認識も芸術も、真理も美も、徹底しては「生(レーベン)」の圏委棄内で、生の機能として捉えられるのである。
 もし「プラクシス」を「生の遂行」という意味に解してよいのだとしたら、ニーチェは徹底して「プラグマティック(*1)」にものごとを考えようとしていることになる。
(*1)実利的。実際的。実用主義的。実利主義的。

p243
世界とは
(略)言いかえれば、その生命体のそのつどの認知能力に応じて現実的および可能的なものとして現れてきている現象の総体が世界なのであり、その背後に形而上学的な真の世界などありようがない。かつて〈真の世界〉に対して〈仮象の世界〉と呼ばれていたもの、いまはそれがすべてなのである。(アリストテレスの引用とプラトンの否定。現象の肯定。ido)

p244
 あらゆる力の中心(人間および生命全般のことかido)は残余のもの全体に対しておのれの遠近法を、つまりおのれのまったく特定の価値評価(あの子は美人だとかido)、おのれの作用の仕方(音声で「愛している」と伝えるとかido)、その抵抗の仕方をもっている。それゆえ〈仮象の世界〉なるものは、一つの中心から発して世界へ働きかけるある特殊な作用の仕方に還元されることになる。
 いまや、それ以外の作用の仕方はまったくないのであって、〈世界〉とはこうした諸作用の総体的働きを指す呼び名にすぎない。

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第十三回 〈力への意志〉─ニーチェの哲学Ⅱ
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第十四回 ホフマンスタールとフッサール
p263
ホフマンスタールと若きウィーン派
(略)私が〈マッハとニーチェ〉を二つの焦点にして〈世紀転換期思想史〉を粗描しようと思いついた一つのきっかけは、ホフマンスタールをはじめとする〈若きウィーン派〉の作家たちが〈マッハとニーチェ〉を対にして、彼らこそ現代風(モデルネ)だと見ていたということを上山安敏さんの『神話と科学』で教えられたことだった。

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第十五回 ムージルに現れるマッハ/ニーチェ体験

p291
したがって、主語〈われ〉が、述語〈思う〉の条件であると言うのは、ある事実の偽造である。それは思う……はいいとして、しかしこの〈それ〉こそまさにあの古く有名な〈われ〉にほかならないとするのは、おだやかな言い方をしても、一つの仮説、一つの主張であるにすぎず、いわんや〈直接的確実性〉などではない。
※神を殺し、神を捏造した〈われ〉を殺す。すべては〈現象(=夢、幻)〉であり、実在などない、と。ido

p292
可能性感覚
 さまざまな論議を呼んでいるムージルの〈可能性感覚〉や〈別の状態〉や〈ユートピア〉といった概念もそうである。彼は(略)「現実感なるものがあるのなら、可能性感覚なるものもあるにちがいない」と言って、一九世紀のリアリズムが誇った現実感をいわば当てこすってみせる。(略)明らかにこれは、神はあらゆる可能な世界のうちで最良の世界を創造したのであり、この現実には充分な理由があるのだとするライプニッツの弁神論を裏返した考え方であり、現代の可能世界論に通ずるものである。
※パラレルワールド? それも現象なら無意味の増殖にすぎない。ido

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