20140429うつぼ舟II 観阿弥と正成#本


うつぼ舟II 観阿弥と正成
梅原 猛
出版社: 角川学芸出版
発売日: 2009/1/30

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伊賀在住の身にしてみれば、第一章「伊賀行──夢幻の川」が特に面白い。自作・第六巻「室町Ⅱ」の対象である。芸能とは何なのか、芸能と政治あるいは権力者との関わり、そのあたりがテーマか。

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第一章 伊賀行──夢幻の川
p8
木津町の和泉式部の墓のある

p9
『太平記』には「古津川」とありますね。能の「重衡(笠卒塔婆)」でも「こつ川」と読ませています。

p9
──私どもは農業用水として、古くより堰(いせき)を作って川の水を利用して参りました。旧暦の五月頃から流れを止め、九月の彼岸頃に「水落とし」と言って堰を外します。
その間は、ここらから伊賀神戸の「市場」まで、舟は通行出来ないのです。あの有名な角倉(すみのくら)家はここを通って、麻・茶、雑穀類などを運んでいました。

p10
──上嶋は大和の一乗院に仕えておりましたから、侍屋敷を与えられて一乗院の近くに住んでいたようです。
梅原 佐保川の流れの辺りでしょうか。今佐保川の流れる、法蓮町に金春欣三さんがお住まいです。

p11
梅原 ただ上嶋家と観世は特別に親しかった?
──伊賀に残った観世が福田家です。今は愛知県の知立の方に出てしまいましたが、福田家は私どもの領内におりました。
梅原 知立ですか。能の「杜若」の地ですね。観世という家もあったのですか。
──観世が福田です。観世が住んだその地名をとって福田を姓としたのです。
梅原 能楽師の一番の仕事はその昔は豊穣祈願だった?
──田楽と同じですね。そして……。
梅原 呪術者?
──そうです。

p12
梅原 大和に移って後、その「芸」が将軍にも認められるようになり、プロの芸能者となった。そうなると神事からは離れ、呪術集団的役割は終わった。
──と、思います。

p17
梅原 宮さまのお世話ですね。一乗院と言えば大和の二門跡の一つで、もう一つの大乗院より格が高かった。
──宮さまは生涯独身を通します。
梅原 妻帯してはいけなかった。
──それでお子さんが、あちこちに出来ますでしょ。
梅原 なるほど。
──その御子さんたちの養子縁組をするのが、上嶋の御役の一つでした。なかなか貰い手がおりませんでした。

p26
梅原 (略)丹波は大和の補巌寺(曹洞宗・世阿弥の菩提寺/田原本町味間)と深い関係にあります。

p30
梅原 いや特別に美味しい。それにしても、上嶋家というのは……。
──一乗院の宮さまの家来です。それで水谷川(みやがわ)さんとも親しくさせて頂いておりました。
梅原 あの後陽成天皇の皇子から続く水谷川家の? 一乗院の門跡を務めた?
──明治維新で還俗して、男爵に列せられます。春日の宮司をしていらっしゃいました。
梅原 春日大社の……それにしてもそれにしても伊賀の上嶋は……。
──宮さまの家来です。

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第二章 河勝の招待状
p40
この二つの系図には、今までの能楽論に根本的に改変の迫る情報が多く含まれている。中でも重要なものの一つは世阿弥の息子・観世元雅の死についての記述であり、もう一つは世阿弥の父・観阿弥の母についての記述である。つまり、世阿弥の愛児である元雅は足利義教の家臣である斯波兵衛三郎(しばのひょうえさぶろう)という者によって殺され、そして観阿弥の母は楠正成と姉弟で、観阿弥は正成の甥にあたるというのである。

*
第三章 補巌寺(ふがんじ)と観音信仰
p69
日本天台宗の開祖・最澄はこの「法華経」を根本経典として総ての人間に仏性があり、いつかは仏になれるという説を称えて、仏になれない人間やなれるかどうかわからない人間があるという説を採る奈良仏教に対して果敢な論争を挑んだ。

p70
このような「法華経」の総ての人間が救われるという説が、救済の幅を人間以外のものに広げて、「草木国土悉皆成仏」という言葉で表現される天台本覚(てんだいほんがく)の理論を生んだのである。この「天台本覚理論」が根本にあって、そこから鎌倉仏教即ち浄土宗も禅宗も法華宗も生まれたと考えてよいであろう。「人間ばかりか草木国土は総て成仏することが出来る」という天台本覚の思想を根本に置き、「成仏するには極楽浄土へ往生するのが近道だ。極楽往生するには口称念仏をすればよい」という易行の念仏往生の説を称えたのが法然・親鸞である。
そして禅もまた公案や座禅によってその身そのものが仏になることを主張するが、道元の著書を読むと仏になるのは人間のみではなく万物総てが仏になるという思想が語られている。また日蓮も「無情成仏」を称え、「有情」即ち動物ばかりか「無情」即ち植物や鉱物も仏になると言うのである。

※成仏とはなんだ? 死後の世界があって、そこで幸福に暮らすということか? 何でも成仏は滅茶苦茶だ。

p73
(略)法華経信仰・観音信仰はまさに日本曹洞宗の伝統なのである。世阿弥を禅思想のもとで考えるとしても深い法華経信仰・観音信仰との深い関係において語られねばならない。このこと無視した香西氏の論は全くの謬論で、戦後能楽研究者が誰一人この論を批判しなかったのは能楽研究者の怠慢と言わねばならない。

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第四章 観阿弥の故郷・伊賀
p98
観阿弥は母が南朝の楠正成と姻戚関係にあるという家筋を隠して、足利義満の前で能を舞った。

p99
しかし世阿弥に次いで音阿弥が将軍家寵愛の能役者となり、能役者の社会的地位が広く認められる時代になると、最早能役者を蔑視する者はいなくなる。つまり南北朝の対立もなくなり、能役者の社会的地位がたいへん高くなった時に書かれた「画像讃」では南朝との関係も川の民の出であるという出自も隠す必要がなくなり、実父の系図を誇らかに語ったのであろう。

p101
(略)もし上嶋家が楠家と姻戚関係があるとすれば、当然楠正成の蜂起とともに南朝方に参加しなければならなかったであろう。しかしおそらく二人の子を失った父・元成は三男ばかりは死なせたくなく、猿楽師として兵役を逃れさせ、戦乱の世を生きながらえる方策を図ったのではないか。

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