20140428法然「別冊太陽」(5~7)


法然―宗祖法然上人八百年大遠忌記念 (別冊太陽 日本のこころ 178)
出版社: 平凡社 (2011/1/24)

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Ⅴ 教団弾圧
Ⅵ 配流の日々
Ⅶ 帰京、入滅、その後の法難
「一枚起請文」を読む

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Ⅴ 教団弾圧
p72
教団弾圧
安藤俊英

元久の法難──旧仏教側からの批判
旧仏教側からの法然教団批判(略)が最初の頂点に達するのは、元久元年(一二〇四)年一〇月、法然は、七二歳のことである。比叡山の衆徒(僧兵を中心とする僧侶たち(大衆?軍部ido))が集会を開いて「専修念仏」を停止すべきことを天台座主に訴えたという。当時の比叡山延暦寺の政治的実力を考えると、その決議は法然をして危機感を募らせるのに充分なものであったろう。
 そこで法然はその危機を何とか回避すべく、一一月七日、『七箇条制誡(しちかじょうせいかい)』(七箇条起請文ともいう)と『送山門起請文』という二つの文献を奏した。前者は門弟たちの行き過ぎを七箇条にわたって誡(いまし)め、それを守るように門下(出家の弟子)に署名をさせた文献である。署名の門弟は、原本とされる二尊院蔵本によると総勢一九〇名。後者は比叡山に対する弁明の書で、題名からしても比叡山へ送ったものと考えられる。自身には他宗批判をする意図はなく、自分がたてた教えも、天台宗の教えを妨げるものではないことを、神仏に誓った「起請文」となっている。
 つまり、門下の不善を誡めると同時に比叡山に対しては弁明を述べることによって、事態を沈静化しようとしたわけであるが、一時は功を奏したものの、門弟の中には制誡は法然の真意ではないとして、制誡が無視する者もあり、結局は事態はそれほど好転せず、翌元久二年(一二〇五)一〇月には興福寺の貞慶(じょうけい)が、旧仏教側全体の総意として、「専修念仏」の教えの過失を八箇条にわたって指摘し、朝廷に対して念仏禁止を申し入れた。これが『興福寺奏状』である。
 ただこの申し入れを受けても朝廷の動きは鈍く、一二月にようやく出された宣旨(せんじ。天皇の発布文書)も門弟の不善を誡める以上のものではなかった。そこでこの処置に到底納得できなかった興福寺は、翌元久三年(一二〇六)二月、改めて法然以下、数名の門弟の処分を朝廷に求めた。これに対し、朝廷は重い腰を上げ、念仏の禁止と安楽・行空の配流を決定したが、現実には、いずれもほとんど実行されなかったらしい。
 朝廷が法然教団弾圧に消極的であったのは、一つに清僧として名高く、しかも一心に念仏をとなえている法然をなぜ弾圧しなくてはならないのかという思いが、朝廷の中にあったからと考えられる。それともう一つは、建久七年(一一九六)に失脚していたとはいえ、前関白(さきのかんぱく)であった九条兼実も法然に罪科が及ばないように尽力していたからであろう。
 なお、以上の元久年間に起こった一連の出来事を「元久の法難」と呼ぶ。ただ、法難といっても、ここまでは旧仏教側と法然教団の間には極度の緊張はあったものの、朝廷が本腰を入れて弾圧をおこなったわけではない。これが次の「建永の法難」(浄土真宗では「承元(じょうげん)の法難」と呼ぶ)との大きな違いといえる。

p74
建永の法難──四百年ぶりの死罪
 朝廷の緩慢な対処に業を煮やしていた旧仏教側であったが、意外なところから、旧仏教側の要求が実行に移されることになる。
 法然の弟子であった住蓮・安楽は鹿ケ谷(銀閣寺のみ南あたり)で六時礼讃(ろくじらいさん。一日六回、阿弥陀仏等を礼讃する文(もん)を節を付けて唱える法会)を修していたが、二人は声がよく、都ではちょっとした評判であったらしい。(アイドル歌手かido)後鳥羽上皇が寵愛していた二人の女官(松虫・鈴虫という名であったと伝えられる)も、その噂を聞いて、上皇が熊野へ行幸中にその法会に参加し、感激のあまり二人の元で出家してしまった(文献によっては密通を臭わせるものもある)。
 激怒したのは上皇である。旧仏教側から弾圧を要求され続けていたこともあり、一挙に大弾圧へ至ることとなった。住蓮・安楽は捕らえられ、厳しい取り調べがおこなわれたという。結果、念仏禁止、及び住蓮・安楽等の四名が死罪、法然・親鸞等八名が配流に決定し、おおよそその通り実行された。
 実は日本の歴史の中でもっとも長期にわたり死刑がおこなわれなかったのは平安時代である。弘仁元年(八一〇)薬子の変以来、保元の乱(一一五六)を除くと、ほぼ四百年にわたって、公式の死刑は実施されていなかった。(将門は戦死扱いか?ido)そのような中にあって、住蓮・安楽等の死罪は保元の乱と並ぶ、異例中の異例の死罪であったといえる。僧侶の場合、実際には罪一等減ずるのが普通であったことを鑑みると、余計にその厳しさが知られよう。

p75
批判の内容──「他宗誹謗」と「造悪無碍」
(略)もちろん、一つには「出る杭は打たれる」という諺どおり、旧仏教側が法然教団の教線拡張を妬み、その布教力を恐れたからということも推測されるが、どうもそれだけではなさそうである。(略)それに対し、法然自身は(一)も(二)も明確に否定していた。(略)
 法難で処罰の対象となった者を見てゆくと、「偏執(排他的)」がことさら強いとされた安楽をはじめ、親鸞などの先鋭な主張をしていたと推測される者が多い。

p76
法然の対処法──教えを守るために
 法然は「たとえ頸切られようとも、専修念仏の教えは説き続ける」という強い決意を持っていたが、当時絶大な勢力を持っていた比叡山延暦寺や興福寺、及び朝廷が本腰を入れて弾圧に乗り出せば、一介の新興教団など、十分に消滅する可能性があった。実際、法然と同じ時代に興った「達磨宗」は弾圧によって、教え・教団とも消滅している。教えを守るためには、法然の命をかけるだけでは不充分だったのである。
 そこで取った対処法は以下のようなものであった。まず上述の(一)(二)は批判の主たる原因になっていたのみならず、法然自身も認めがたいところであったので、これを門下に対し強く戒めることとした。ところが、当時、法然個人の力だけではもはや統制できないほど教団は大きくなっていたようである。勝手に法然の弟子と名乗って、悪行(わざと悪業をなすこと?ido)を修していた者もあったらしい。従って、いくら延暦寺や興福寺に対し弁明しても、現状が変わらないのであるから、批判は収まらなかった。
 そこで、もしもの場合のことを考えてとられた措置が、門下の分散である。郷里のある弟子に対しては、郷里に帰って、そこで教えを弘めるように指示したらしい。聖光(しょうこう。聖光房弁長)をはじめとする何人かの門弟が、『七箇条制戒』が著された元久元年前後に帰郷しており、記録に残されていない者も入れると、相当数が帰郷したものと考えられる。結果的には大弾圧がなされた訳であるから、これは賢明な措置であったといえるのではなかろうか。

「七箇条制誡」と「興福寺奏状」

p78
法然の革命性 阿満利麿(あまとしまろ)
(略)
p79
 法然が、このような簡明な教えを説いた背景には、二つの理由がある。一つは、万人が救われてはじめて仏教だと法然が確信していたこと、二つは、法然が「凡夫」という人間観を確立した点である。
道徳にも左右されず、「苦行」や「作善」の度合いも問題とせず、特別の人格(カリスマ)による支配からも自由で、政治権力からも自立する、「念仏」を第一とする生き方の出現である。つまり、阿弥陀仏の慈悲を暮らしの基準とする生き方が、このとき生まれたのである。(略)そこに法然の革命性がある。

*

Ⅵ 配流の日々

p80
 流刑さらにうらみとすべからず。そのゆへは齢(よわい)すでに八旬にせまりぬ。たとひ師弟おなじみやこに住すとも、娑婆の離別ちかきにあるべし。たとひ山海をへだつとも、浄土の再会なむぞうたがわん。又いとふといへども存するは人の身なり。おしむといへども死するは人のいのちなり。なんぞかならずしもところによらんや。しかのみならず念仏の興行、洛陽にしてとしひさし。辺鄙におもむきて、田夫野人をすすめん事年来の本意なり。しかれども時いたらずして、素意(そい。かねてよりの考え)いまだはたさず。いま事の縁によりて、年来の本意をとげん事、すこぶる朝恩ともいふべし。この法の弘通(ぐづう)は、人はとどめむとすとも、法さらにとどまるべからず。
(「法然上人行状絵図」巻三十三)

p82
 建永二年(一二〇七)二月二八日、ついに法然に四国土佐への配流の宣旨が下る。(略)
われたとひ死刑にをこなはるともこの事いはずばあるべからず。
(「法然上人行状絵図」巻三十三)
p82
都市から地方布教へ──配流
(略)弾圧の主要原因は、専修念仏における諸行と念仏の関係論にあった。諸行は念仏へ導く手だてとなるがそれ自体に往生行としての価値はなく、選択本願たる念仏のみが阿弥陀仏の意志に叶った行いだと法然は考えた。
 能力や好みあるいは財力に応じて多様な信仰を貴族や民衆へすすめる寺院勢力は、この点を問題とした。しかし配流を前にして法然の信念が揺らぐことはなかった。専修念仏は自分勝手に説いたのではなく、釈尊の経典や善導の解釈に従ったもので、普遍的真理に根拠するという自信がみなぎり、たとえ首を切られても説かないわけにはいかないとまで述べている(醍醐本『法然上人伝記』)。
 法然が住み慣れた京都を離れたのは建永二年(一二〇七)三月一六日である。(略)高砂の浦(兵庫県加古川市)で漁師の老夫婦と交わした会話が記される。ここは漁業が盛んな土地柄であり、それで生計を立てる人が多かったことであろう。老夫婦がいうには幼い頃より魚類の命を奪って生活してきたが、殺生の罪は地獄に堕ちるという。どうすればそれから逃れることができるのかと。法然は、念仏を称えれば阿弥陀仏の本願によって往生できることを説明した。自分たちが救われることを喜んだ二人は、漁業をやめることなく念仏にはげんだという。(p88 高砂十輪寺)
 さらに室の泊(兵庫県たつの市室津)ではその生業から罪意識に悩む遊女を教化したと伝え、塩飽島(香川県丸亀市本島)では地頭の高階保遠入道西忍を信仰へと導いたという。

p82
配流旅立ちの地──小松谷正林寺
(略)兼実が法然を戒師として剃髪・出家した地でもある。

p86
海を越えて──塩飽諸島より讃岐へ
この地に着いた法然を時の地頭・高階保遠(たかしなやすとお)は厚くもてなした。法然の説く念仏の教えに帰依した保遠は、自らの館の近くに法然の住居となった堂(現・専称寺)を作り、住民にも念仏を広めたといわれる。

法然住居跡とされる本島の専称寺は今は無住。

p87
讃岐の地にて──小松庄生福寺(p89 現・西念寺)
(略)居住したのは小松庄(香川県琴平町・まんのう町)の生福寺と伝える。小松庄は九条家領であったから身を寄せる上で安心であった。九条兼実のなんらかの配慮が推測でき、この地域への滞在は確かなことであろう。(略)
 配流後まもない四月五日、京都では九条兼実が五九歳で他界した。兼実の様子を知りえた弟慈円の『愚管抄』によれば、法然の配流を嘆きながら亡くなったという。

*

Ⅶ 帰京、入滅、その後の法難
p92
帰郷、入滅、その後の法難
善裕昭

p92
 建暦(けんりゃく)二年(一二一二)、赦されて戻った京都の禅房で、付き添う弟子や門徒たちに見守られ、法然は八〇歳の生涯を終えた。

p92
勝尾寺をへて帰洛──赦免宣旨
(略)後鳥羽院御願寺の最勝四天王院の供養で大赦があり、承元(じょうげん)元年(一二〇七)年一二月八日勅免の宣旨が下された。京都を離れて八ヶ月後である。ただし入洛は許されず、摂津箕面山中の勝尾寺(大阪府箕面市)に滞在した。

p93
 建暦元年(一二一一)一一月一七日、ようやく帰洛が許され京都へ戻ることとなった。待ちわびた門弟・信者らとも五年ぶりに再会した。(略)新たな住まいは大谷の禅房である。現在の知恩院勢至堂の場所とされるから、東山の中腹あたりで標高はかなりある。この地を手配したのは青蓮院門主慈円であった。法然のことを心配しながら亡くなった兄兼実の様子を見ていた故の配慮であろう。
 慈円は台密(天台密教)を専門とした学僧で、青蓮院門跡の祈祷儀礼を充実させて同寺を台密の一大拠点に発展させ、後鳥羽院の祈祷要請にたびたび応えた。(略)『愚管抄』によれば慈円は必ずしも専修念仏に賛同していたわけではないが、兼実没後も九条家一門とのつながりはゆるやかに維持されたのであろう。

p95
(略)
 そのような時代思潮のなかで法然の亡くなり方は特徴的である。臨終の様子を記録した「御臨終日記(醍醐本『法然上人伝記』)」にはこうある。

 ──高齢で体力は衰え、ここ二、三年は耳は遠くなり意識も蒙昧になりがちであった。ところが死期が近づくと昔のように耳目は明瞭になり、往生のことだけを語り念仏は絶えなかった。睡眠中も舌口はかすかに動いて念仏していた。弟子に語るには、自分はかってインドで修行し、その後日本へ来て天台宗に入り念仏をすすめたのだと。弟子が極楽へ往生なさいますかと問うと、もともと極楽にいたのだから当然だという。弟子が枕元の本尊を拝むようにすすめたところ、虚空を指してこれ以外に仏がいるのかという。さらに五色の糸を握らせようとしたところ、自分には必要ないことだという──。(略)

p96
 また臨終に近い頃、筆を執って念仏のエッセンスを短い文章にまとめた。「一枚起請文」である。
尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし。
無智にかえり平等な姿勢で念仏しなさいと諭している。(略)建暦二年(一二一二)正月二五日、この世での念仏教化をまっとうした法然は、八〇年の生涯を終え極楽へ旅立った。

p96
(略)建暦二年(一二一二)正月二五日、この世での念仏教化をまっとうした法然は、八〇年の生涯を終え極楽へ旅立った。

p98
遺骸を移し荼毘に付す──嘉禄の法難
明恵(略)『摧邪輪』(略)建暦二年(一二一二)一一月(略)
 明恵は華厳宗の学僧で人びとに念仏信仰をすすめることもあったという。つまり『選択集』と『摧邪輪』の差は、専修念仏なのか念仏信仰一般なのかという点にあった。法然没後も浄土宗と顕密諸宗との思想対立はなお深刻で、(略)
 法然のお墓は大谷の禅房の東側崖上に造られた。現在の知恩院御廟所の地とされる。(略)
 法然の入滅から十五年、再び大きな法難が浄土宗を襲う。嘉禄の法難である。(略)
定照『弾選択』(略)隆寛『顕選択』(略)嘉禄三年(一二二七)六月、延暦寺の衆徒らは大谷廟堂を破壊して遺骸を鴨川に流そうとたくらんだ。六波羅探題の介入で治まりはしたが、延暦寺は再び襲ってくるに違いない。(略)改葬を計画した信空と覚阿は、このことを妙香院良快へ申し入れた。良快はこの時の青蓮院門主で九条兼実の子息である。そのことから浄土宗には理解があった。遺骸はひそかに掘り出されて嵯峨へ運ばれ、さらに太秦広隆寺の来光房円空のもとに預けられた。(略)
p100
七月に中心人物の隆寛・空阿弥陀仏・幸西三名が流罪に決まった。十月には『選択集』は謗法の書と見なされ、版本・版木が比叡山の大講堂前に運ばれ焼却された。この『選択集』は法然没後まもなく出版された建暦版であり、明恵もこれを読んで『摧邪輪』を書いたと考えられる。現在、建暦版が一点も伝存しないのは、言論弾圧で焚書に処された悲しい身上を物語っている。
 年が明け安貞二年(一二二八)正月、法然の遺骸は西山粟生野の幸阿のもとへ移され、ここで荼毘に付された。荼毘の場所には墓堂が建てられ、のちに光明寺(西山浄土宗総本山、京都府長岡京市)に発展する。遺骨は正信房湛空の指示で二尊院に雁塔を建てて納められた。
p100
次代の後継者たち──門流の形成
 門弟たちが著述活動を始めるのは法然没後である。早い時期に隆寛(長楽寺義)・證空(西山義)・幸西(一念義)らは、信心の意義について新境地を開いた。つづいて弁長(鎮西義)・長西(諸行本願義)は念仏行を重んじ、さらに親鸞は浄土真宗の他力回向論を展開した。いずれも師から学んだ浄土宗の教えを、自己の思索と体験によって再構成していった。(略)法難で分散しながらも遠隔の地で生き延び、九州北部や関東では鎮西義・長楽寺義・諸行本願義や浄土真宗が着実に門流や門徒集団を形成していった。京都でも西山義が追善仏事の儀礼を整えて貴族層の信仰を集めていく。
 他力思想という新たな宗教世界を開示した法然の生涯は波乱に満ちていた。しかし重なる試練に心が折れることはなく、むしろ対立を超えて人びとを救いの道へ誘うことこそ本意であったろう。法然の生涯から教えられることは、状況や人に応じて巧妙に変貌するのではなく、おのれの思想に賭けた生きざまである。大地に屹立する大樹のごとき法然の根もとからは、次代を担う後継者たちが芽吹いていた。

p106
「一枚起請文」を読む

(三)ただし三心(さんじん)・四修(ししゅ)と申すことの候うは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞとおもううちにこもり候なり。

p110
法然の手紙
p111
法然消息(熊谷入道へつかはす御返事)
p115
一紙小消息(黒田の聖人へつかはす御文)
 法然が黒田の上人といわれる人に送った書簡。法然の念仏の教えが簡潔に、順序よく、格調高くまとめられており、「一枚起請文」とともに浄土宗で重要な法語として勤行で常に拝読されている。別名「一紙小消息」。黒田の上人については、東大寺領伊賀国名張黒田庄に住む聖人とも、東大寺の俊乗房重源、あるいはその弟子の行賢など諸説がある。

p116
後白河法皇が延暦寺や園城寺の碩徳を招き、『往生要集』を講じたとき、法然の講説に対して、初めて聞いたように感じ、感涙にむせぶ。そして法然に対する信仰のあまり、右京権大夫隆信朝臣に命じて法然の真影を描かせ、蓮華王院の宝蔵に収めたといい、絵は法住寺御所を法然が訪れたところと(略)

p124
 仏陀の入滅から数えて二千年目──わが国においては永承七年(一〇五二)以降が、仏法が衰滅するとされる「末世」になる。
 法然が生まれたのは、その発端からおよそ八〇年後で、飢饉と風水害に加え、さまざまな疫病が猖獗して、洛中に放置された屍が腐臭を放ち、大地震が起きて数多の神社仏閣が崩壊し、町の家々が消失して、数え切れないほどの死傷者が出る末法の世を生きた。
 そうした世にあっても、「南無阿弥陀仏」と称名さえすれば、衆生一切の救済を本願とした阿弥陀如来の他力に救われて、必ず極楽往生が叶う、と説いた法然の教えは、「人は善行や儀式によらず、『信仰』のみによって義(正しい)とされる」としたマルティン・ルターの根本思想にほぼ等しい。
 こうした観点から、筆者(おさべひでお 小説家)はこれまで、わが国のヴァチカンというべき比叡山を離れ、絶対的な権威を誇っていた既成仏教に敢然と対抗し、専修念仏によってのみ人は救われる、と唱えて、僧の妻帯を否定しなかった法然の画期的な新宗は、ルターのプロテスタンティズムにはなはだ近く、即ちわが国では、ヨーロッパで起こる三百数十年も前に、宗教改革が始まっていたのだ……と述べてきた。
 法然上人は世界で最初の宗教改革者だったのである。

p125
夜襲を受けて致命傷を負った父時国は、息子の勢至丸(法然上人の幼名)に「仇討ちをしてはならない」といい残します。それは報復の連鎖を絶つため。あの時代にそういう言葉を残した父、その遺言をわずか九歳にして聞き守った息子の心。(略)(ひらのけいこ 語り部)

p136
悪人正機説について(別途)

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