20140427奈良市 奈良市立中央図書館#自作本・昔話

取材の一環。法然関連の昔話調査。

調査対象は次の4冊。
1.子供のための大和の伝説 奈良新聞出版センター刊 ¥980
昭和45年12月10日初版発行
昭和57年11月20日15版発行
著者 仲川明 発行者 宮司宏之
発行所 奈良新聞出版センター0742-26-1331

2.子供のための続・大和の伝説 ¥980
昭和56年7月1日第一版発行
著者 乾健治
発行者 奈良新聞社

3.奈良ふるさとのはなし ¥1000
昭和60年12月20日発行
著者 乾健治
発行 奈良新聞出版センター
0742-22-7553
ここまで、法然関連昔話撮影済み。

4. 日本の伝説(第Ⅱ期)全12巻 13奈良の伝説
昭和51年12月10日初版発行
著者 岩井宏美、花岡大学
発行所 角川書店

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1.子供のための大和の伝説 目次





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2.子供のための続・大和の伝説 目次





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3.奈良ふるさとのはなし 目次





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4. 日本の伝説(第Ⅱ期)全12巻 13奈良の伝説 目次




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1.子供のための大和の伝説より
p12
・若狭井戸(奈良市)
東大寺二月堂の修二会を、俗に「お水とり」というのは、その行法中の三月十二日の夜半に、二月堂の下にある若狭井戸から、お香水(こうずい)のお水をくみとる行法があるから、その名がこの行法全体の名になっているのです。この若狭井戸に次のような伝説があります。
むかし実忠和尚が、修二会の行法中、神名帳(じんみょうちょう)の読み上げといって、全国一万七千余の神さまの名を読まれると、すぐここへ集まって来られたのに、若狭の国(福井県)の遠敷(おにゆう)明神だけが、魚釣りに出ていらっしゃって、遅刻されました。ほかの神々は、なぜ遅参したのだと、とがめられますと、遠敷明神は
「恐れ入ります。遅参しました申しわけに、若狭の水をここへお送りして、このお堂のほとりへ香水をお出し申します」
といって、祈念されますと、二月堂下の大岩がグラグラと動いて二つに割れ、その間から黒白二羽の鵜がとび出して、そこから清水がわき出て来ました。
それで実忠和尚はここを閼伽井(あかい)とされました。これが今も二月堂下にある若狭の井戸です。
×××
これが若狭井の伝説ですが、全国一万七千余の神さまの中で、遠敷明神だけが、なぜこうした話の種になったのかと、考えられます。
近年歴史を調べられると、実忠和尚はもと若狭の国の遠敷神社のそばのお寺におられたそうです。それで、実忠和尚が東大寺へ来られてからも、二月堂の修二会には、若狭の国から、お香水をほんとに奈良まで持って来させたのではないだろうか、後世、それが出来なくなってから、若狭からこの井戸へ水が来るという伝説が生まれたのではないかと、考えられた人があります。あるいはそうかもしれないと私も思います。

p14
・走りの行法と青衣の女人(奈良市)
奈良の東大寺では、毎年三月一日から十四日まで、二月堂で修二会という行事があります。俗にお水とり、またはおたいまつといっています。
この行事のうち、十二、三、四の後夜(ごや)におこなわれる行法の中に「走りの行法」というのがあります。二月堂のお堂の中でおこもりの坊さんが走って行なう行法です。
むかし、実忠和尚が笠置の竜穴にはいると、常念観音院という所で、天衆(てんしゅう。坊さんのこと)たちが集まって修行していました。
和尚は、この行法を人間の世界にも伝えたいと思われ、天衆たちに話しますと、
「兜率天という仏の国の一日は、人間世界の四百年に相当するし、行法も厳格で、一日に千回の行道(ぎょうどう)を正しく行わねばならないから、人間世界では無理である」
と教えました。和尚は一心にやれば人間世界でもやれないことはないと信じ、この行法を走って行なうことにしました。
それで走りの行法と呼ぶようになったといいます。
×××
この修二会の行事の中に、過去帳の転読というのがあります。亡くなられた東大寺関係の方々の名をたくさん読み上げるのです。
鎌倉時代に、東大寺の僧、集慶(しゅうけい)さんが過去帳を読み上げていますと、そこへヒュウと青い衣を着た女の人が現われまして、
「なぜ、私の名を呼んでくれないのですか」
とうらめしそうにいいました。
何だか見たような人でもあり、見たことのない人でもありましたが、集慶さんは即座に「青衣の女人」と読み上げました。すると、その人はスウッと姿を消したといいます。
それ以来、過去帳を読む時は、この「青衣の女人」も読み上げるようになりました。

『転害門』源平の戦 源頼朝

『牛若丸と棒術』源義経

『今井堂』源頼朝、木曽義仲、源義経


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2.子供のための続・大和の伝説より
『良弁杉(ろうべんすぎ)』


・良弁杉(ろうべんすぎ)(奈良市)
むかし、滋賀県の志賀というところに夫婦がいました。ながらく子どもがありませんでしたので観音さまにおいのりをして、男の子をさずかりました。よろこんでそだてていました。この子は二歳のとき母とともに桑畑へいきました。母が桑の葉をつみました。そのあいだ、桑の木のかげであそんでいました。空をとんでいるワシは、この子どもを見つけました。よい大きな食べ物が見つかったとワシは、母親の知らぬ間に、スウッとおりてきて、その子をワシづかみにつかんで空へとびあがりました。子どものいなくなったのに気のついた母親は「オーイ、オーイ」と、とんでゆくワシのあとを追いかけましたが、ワシは人間の言葉がわかるはずはありません。どんどん向こうへとんでいって、雲の中へはいってしまいました。
ワシは、その子をつかんだまま、奈良へとんできました。いまの二月堂の下の杉の枝にひっかけて食べようとしました。すると、その子の胸のあたりからご光がさしてワシの目がくらみました。どうしてもその子を食べることができません。それであきらめてワシはとんでいきました。
子どもは「おかあちゃん、おかあちゃん」といってないていました。
その下を、たまたま、義淵(ぎえん)という坊さんがとおりますと赤子の泣き声がするので上を見ると、枝に子どもがひっかかっていました。「これは、かわいそうに」と人をしてその子を枝からおろしてみました。子どものふところに一寸八分(五・四センチ)の金の観音さまのお守りぶくろが入れてありました。義淵はこの子を育てて大きくしました。名を良弁(ろうべん)といいました。大きくなってから東大寺の建立に力をつくしました。三十年間、全国をさがしていた母親と、はじめて杉の木の下でめぐりあったということです。その杉を「ろうべん杉」といいます。

『常盤御前』牛若丸

『風の神』元寇


・風の神(生駒郡)
むかし、元という大国がありました。それは日本の隣の国です。大きな勢力をもって、日本の国を攻めとろうとしました。そして大きな船を引きつれて九州の近くまでやって来ました。日本に上陸しようとしました。
日本の国の人たちは、こんな大きな国と戦うこともできず、こまりました。海岸は上陸できないようにいろいろな防備の方法を考えました。大きな石がきを海岸につくって番をしました。
うわさのとおり九州の玄界灘までたくさんの大きな船がすがたを見せました。いつ上陸するだろうかと待ちかまえました。大きなハシゴも引っかけるクマデもたくさん用意しました。しかし敵も、なかなか上陸はしてきませんでした。あちらこちらの神社やお寺では、安全のおいのりがはじまりました。国の人たちもみなおいのりをしました。
生駒郡三郷(さんごう)町立野の竜田(たつた)大社では日夜かけてのおいのりがつづきました。
ある晩のこと、竜田大社の裏手の方から、にわかに空がくもってきて、天地が大鳴動して、おそろしい黒雲の中へ、大きな竜巻が天へのぼりはじめました。そしてそれが大きなふくろの玉となって舞いあがりました。そのふくろは雲に乗って西の方へ向かいました。
九州の玄界灘まで攻めてきていた元の国の大船の上で、ふくろは破れて、大暴風雨は敵の大きな船を吹き飛ばしました。敵もそれに困って逃げ帰りました。沈没した船もありました。たくさん死んだようです。
竜田大社は風の神さまで、ジェーン台風のとき、ここは少しも風が吹かなかったといいます。祭神はシナツヒコ・シナツヒメの神といいます。

『面塚』観世清次、足利義満

『頓知のこども』源信

『千本橋』源義経

『三本松と焼鮠(やけばえ)』北条時頼

『静御前掛衣け(ころもがけ)の松』義経、頼朝、政子

『弁慶の力釘』義経


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3.奈良ふるさとのはなしより
『狂女百万』謡曲百万、西大寺の大念仏会、嵯峨の清凉寺
http://weekly-nagano.main.jp/2013/01/31-5.html

『ワシと子ども』義淵、良弁


・ワシと子ども
むかし、近江の国(滋賀県)の志賀の里に仲のよい夫婦がありました。ところが久しく子どもがありませんので観音さまに祈願をこめて男の子を授かりました。かわいがって育てていましたが、二歳のとき母におわれて桑畑へゆきました。母が桑の葉を摘んでいる間、木の陰(かげ)にその子をすえおきました。するとどこからとんできたのか、ワシ(鷲)は、この幼児をつかんでとび去りました。驚いた母親が「おうい!」とワシのとんでゆくあとを追いましたが、ワシの姿は雲の中に見失いました。
ワシは、その子をつかんで奈良の今の二月堂の下の大杉の枝に引きかけて、つばさを休めていました。子どもの胸のあたりから御光がさして、どうしても食べられないことをあきらめてワシはとび去りました。たまたま僧義渕(ぎえん)が木の下を通りまして赤児の泣き声を聞きました。しらべてみると杉の枝に幼児のいることがわかりました。子どもをおろしてみると一寸八分(五・四センチ)の金色の観音さまが子どものお守袋に入れてありました。それが御光をさしていたのです。
義渕はこの子を育てました。名を良弁(ろうべん)といいました。この杉の木を父母と思い、毎日杉の木を拝んで成長しました。
五歳というに一を教えられ十は易(やす)くわきまえるほどでした。その後、聖武天皇の御信任あつく東大寺の建立に力をつくしましたので天下の名僧とよばれました。
良弁の母は子どもをワシにさらわれてから各地をさがしもとめて三十年、ある日淀川を舟で下りました。そのとき舟の中で旅人のうわさに「あの名高い良弁僧正は、幼い時にワシにさらわれ奈良の杉の木の枝にすてられなさったお方や」と聞きました。それから奈良の東大寺をたずねて、かの杉の木の下で母と子の対面をされたということであります。くわしいことは「元亨釈書(げんこうしゃくしょ)」にあります。
(奈良ふるさとのはなし『ワシと子ども』より)

『横笛の像』建礼門院、横笛、平重盛、斎藤時頼、滝口入道、『平家物語』『源平盛衰記』小説『滝口入道』

『蚊とうちわ』唐招提寺、覚盛(かくじょう)、四条天皇、後醍醐天皇


『青衣(しょうえ)の女人』鎌倉、東大寺、二月道、僧集慶(しゅうけい)、源頼朝


p151
・青衣(しょうえ)の女人
水取やこもりの僧のくつの音 はせを
二月堂の内は静寂の暗やみの中にともる一点の灯明あるのみです。そとは寒風に吹かれふれあう木、枝の鳴る音が聞こえています。
ときは鎌倉時代、東大寺の僧集慶(しゅうけい)が過去帳の名前を、おさえるような調子で、一番、聖武天皇。二番、光明皇后。三番、良弁僧正とつぎつぎに読み上げています。これは東大寺に功労のあった人びと二百六十万人の中から転読(*1)されるのです。東大寺の再興につくした源頼朝の名前も暗夜にひびきます。そのとき荒格子のうちに青い衣を着た女人がひとりまぼろしのようにあらわれました。そして女人は恨みをこめた声で
「なぜ、わたしの名をよみあげて下さらないのですか」といいました。
見おぼえのない人でしたが、僧集慶は、おもわず口をついで、十八番目に
「青衣(しょうえ)の女人(にょにん)」と読み上げました。一段と声を落とした低い声でした。
すると、それで満足したかのように、そのまぼろしの姿は消えました。
この青衣の女人は、いかなる身分の女性で東大寺にどんなかかわりのあるのか今だにわかりません。けれども、この女人の前後に読み上げられる人物から推して、鎌倉時代の女性と思われます。
それ以来は、過去帳を読み上げるときは「青衣の女人」も読み上げるようになりました。この行法に女性の内陣入りは許されないことになっています。
修二会(しゅうにえ)は本尊の十一面観音に東大寺の僧侶がおのが犯した罪・けがれをざんげして国家の安泰と人びとの豊楽をいのる法要です。本尊にお供えする香水をくみとる行事が「お水取り」です。松明は、その道案内です。
(土岐善麿の新作能「青衣女人」・「過去帳にあらわれる青衣女人」児島建次郎など)
*1 転読…数行だけを略読すること。

『般若寺の塔』鎌倉、東大寺再建


『大仏開眼』平重衡、後白河法皇

『万年青年』後白河、源空(法然)、重源、長谷寺、西行、源頼朝

『頼朝の太刀』大和神社(おおやまとじんじゃ。天理市)

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