20140328鎌倉と京#本

鎌倉と京 武家政権と庶民世界
五味文彦
2014.1.10
㈱講談社
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基礎知識
(1)本所(ほんじょ)…荘園の実効支配権を有した者
(2)預所(あずかりどころ/あずけしょ/あずがっそ/あずかりしょ)…中世の荘園において本所の補任を受けて在地を統括した職。(預所は本所の御領における所務代官である)
預所は本所の補任を受けて在地において下司・公文などの下級荘官を指揮して経営にあたっていた。
預所の種類
1.京都に居住したまま現地には赴かない(在京預所)=上司
2.現地に赴くもの(在地預所)=中司
上の1.2.に対して、現地で実務を取っていた下級荘官を下司と呼びます。
(3)知行国…有力貴族・寺社・武家が特定の国の知行権(国務権)を獲得し収益を得た制度。
*

第一章 中世の序幕
p29 武者の世『愚管抄』
p31 古代の都城から中世都市へと
p35 祭(=自由)都市民 中世都市を支える(=工商?)保元の乱
▲都市化=反自然化・脳化(自由に、思いのままに、神に)
▲都市化の萌芽は宗教か=意識・脳。神に願い(=神に干渉)
p36 信西の晒首。それまで死者は怨霊となり祟り。死刑もなかった。
p37 庶民 絵巻(火事、再生力)、今様(後白河『梁塵秘抄』)
▲歌う快楽。無制限に快楽を?
p44 信西政権(保元の乱後)
p50 平氏の知行国、六分の一。別当とは?
p51 清盛政権(平治の乱後)
p60 重盛「武家」国家が諸国守護を託す。確立。清盛の制度化。(一一六七院宣)
p65 高松院、九条院の死。
p66 (文庫版p67)一一七六滋子(建春門院)の死。健御前(俊成娘)。鴨長明(賀茂等御祖かものみおや神社の神主の子。高松院に仕える)
p66 一一七七京の大火。九条兼実(当時右大臣)。信西再建大内裏焼け落ちる。

*

第二章 武家政権への道

p67
安元三(一一七七)四・二八 京の大火。九条兼実『玉葉』後白河法皇衝撃。この数日前、叡山延暦寺の大衆(だいしゅ)の訴え。その二つの処置を後白河は翻す。逆に天台座主の明雲の解官・配流。▲神罰=大火と後白河は考えたか。

p68
一一七七・五・二七夜 清盛、叡山攻めを決心。(叡山は明雲を奪い、福原の清盛に訴え。後白河も清盛に叡山追捕を求める)直後に急変、鹿ケ谷事件。『愚管抄』静賢(じょうけん。信西の子)の別荘に成親、西光、俊寛。
一一七七・六・一 清盛、西光を拷問。西光打首、他流罪、後白河執政停止。

p69
一一七八 高倉中宮徳子に皇子。平氏外戚=執政は後白河に戻す。
治承三(一一七九)七・二九 重盛亡。重盛妻の兄が鹿ケ谷の成親。法皇は重盛の知行国越前没収、六・一七に亡くなった基実後家の白河殿(清盛娘盛子)の所領を没収して、基房に与えようとした。

p70
清盛、怒ってクーデター。(一一七九・一〇 基房の子師家八歳で中納言。基実の子基通(清盛の娘婿)の官位を越える)
一一七九・一一・一五 清盛、福原から大軍を率いて上洛。法皇を鳥羽殿に押し込め、他は配流。関白近衛基通。平氏一門は諸国の受領。

p71
一一八〇 頼政、以仁王に反乱を促す。『平家物語』

p72
一一八〇・二 安徳天皇。高倉上皇厳島参詣、福原遊覧。

p74
一一八〇・五・一五 以仁王配流の宣旨。
五・二一 宗盛、頼政が園城寺攻略。
五・二二 頼政、宮方に。
五・二五 宮と頼政、南都の途中、宇治川で討死。

p75
五・三〇 乱の恩賞
六・一 福原遷都
六・二 遷幸。天皇、上皇、法皇。

p77
九・三 『玉葉』(頼朝)伊豆・駿河両国押領。
九・五 頼朝追討宣旨。

p78
全国一斉反乱。坂東、信濃、熊野、肥後。平氏と王朝国家に反発。

p79
一一八〇・一一・三〇 左大弁藤原長方は清盛批判。法皇の執政を求める。『古今著聞集』

*

第三章 源平の争乱

p86
 頼朝は、平治の乱により伊豆国に流されていた。
 平頼盛の母池禅尼(いけのぜんに。清盛義母)が、亡き子家盛の面影に似ているから、助命を清盛に嘆願。

p87
 頼朝の監視役、伊豆の在庁伊東祐親(いとうすけちか)の娘とのあいだには男子までなしている。祐親の在京中のことであったが、祐親は所領伊東荘・河津荘の荘園領主として平重盛を仰いでいた。
 帰郷した祐親に追われた頼朝は、伊豆中央の同じ在庁の北条時政のもとにのがれ、今度はそこで時政の娘政子と結ばれている。これも三年間の皇居大番役で時政が在京中のことであったという。平氏によって大番役が整備されたのは、この少し前頃からである。

p88
 承安三年(一一七三)には、文覚が、伊豆奈古屋(静岡県伊豆の国市)に流されてきた。しきりに頼朝に挙兵をすすめたという。
 鹿ケ谷事件。
 平兼隆が伊豆に。
 狩野川を挟んで西の北条では時政を後見として頼朝が、東の山木には伊豆国在庁堤権守信遠(つつみごんのかみのぶとお)を後見とする兼隆が、それぞれ勢威をふるっていた。

p89
 そこに源行家が以仁王の令旨を北条の館に。『吾妻鏡』治承四年(一一八〇)四月二七日。ところがすぐに京の康信からは乱の失敗が伝えられる。伊豆の知行国主が源頼政から、兼隆の仕えていた検非違使別当平時忠に。
六月二四日
二七日
八月二日
一七日 頼朝挙兵

p90
一九日 史大夫知親(しのだゆうともちか)の知行を否定する文書

p104
寿永二年(一一八三)二月、義仲対頼朝
四~六月、維盛大敗(北国攻め)
p106
七月、平氏都落ち。兼実感想。
八月、後鳥羽四歳即位。摂政近衛基通。義仲、有綱は京警固。
九月、義仲、京を追い払われるように西国平氏追討。頼朝の手紙、王朝国家の荘園・公領に対する支配権は容認しつつも頼朝が東国に築いてきた支配権を公認させる。
p109
一〇月宣旨。東国全域頼朝。義仲怒る。義経、伊勢伊賀に。
一一月、義仲、京に首百十一。
p112
寿永三年(一一八四)正月十一日、義仲征夷大将軍。
正月二〇日、粟津で討ち死に。西行歌「きそひとは…」
p113
東国独立の夢を抱いた武士等も怒る?
一〇月宣旨、上洛断念、広常誅殺。鎌倉殿誕生。
一月二六日、頼朝に平氏追討宣旨。
二月、一の谷合戦。

3平氏滅亡
p115
義経「鎌倉殿御使」畿内近国で武士統率権。頼朝の関心「平家没官領」。都落ちで五〇〇カ所。(一四〇は義仲。九〇は行家。その後全て義仲。)
頼朝全て要求。朝廷からの帳簿はこれ(五〇〇?)にはとても及ばず。倍ほど。(?)
p116
はっきりしないが、朝廷がおしきったようだ。それでも東国+平家没官領。関東御領の成立。
back
一一八四年二月四日、清盛三周忌、福原へ。
二月六日、和平の院宣。騙し討ち、一の谷、義経うしろをつく。東国武士と戦法で常に諍いを起こす義経。恩賞の申請を躊躇う頼朝を見て後白河は義経を検非違使に任じ五位に叙す。範頼、門司・彦島おとせず。
p120
一一八五年二月一八日、再び義経。屋島勝利。熊野・伊予水軍味方。
三月二四日、知盛の守る彦島。長門壇ノ浦の合戦。水手(かこ)梶取(かんどり)を殺す義経の荒っぽい戦法。
p122
四月四日、京に平氏滅亡の使者。
四月一一日、鎌倉に平氏滅亡の使者。
*

第四章 鎌倉幕府と武士団
1東と西の武士団
p133
弁舌に長じないために、度重なる尋問に疲れきって敗訴を覚悟し、突然に出家してしまった。
 この直実の例にもうかがえるように、小武士団は自立の名誉を求め、「一所懸命の地」といわれる所領の安堵を願って、源平の争乱を生き抜いてきた。頼朝はこうした小武士団の動きを重視し、大武士団と同列の御家人として処遇した。自立を象徴する館(たち。屋敷)や堀の内(宅)を安堵する本宅安堵政策を実施し、さらに彼らを地頭にとりたて、所領の保護と拡大をはかった。
 その結果、本宅の地は、国衙や荘園領主が実施する検注から除かれて、年貢・公事(くじ)を免除され、また苗字の地として長く維持された。「御家人とは開発(かいほつ)領主として武家の御下文(おんくだしぶみ)を賜る人のことなり」とのちにいわれたのは、こうした開発領主のありかたによるものであった。

p136
武士らは「自由(自分勝手)の下文」を携えて神社仏寺諸司人領を押領してい
った。

p138
 やがて地頭の支配がすすむと、その非法を訴える声が各地にあがったが、頼朝は地頭の配置をやめるどころか、占領地を中心に地頭を次々と配していった。その到達点が、文治(ぶんじ)元年(一一八五)末の守護地頭補任の勅許であり、これによって地頭は国制として明確に位置づけられた。
 そこでの地頭は、領内の農業生産の振興(勧農)にあたって年貢を徴収する権利を有し、また領内の治安の維持にあたって警察・裁判上の権利を(検断権)を有する領主と位置づけられた。その任免権は幕府が有するものであり、幕府の保護によって荘園領主からは自立した地歩を占めるにいたった。

p139
 文治二年(略)頼朝は「この上、張行(武威による占領)を致すの輩候はば、交名(きょうみょう)を注し給はり、炳誡(へいかい)を加ふべく候」と応じて約束している。
 幕府と朝廷との提携はここになった。地頭の大幅な支配権の拡大がこれによっておさえられたことはいうまでもない。武士たちの目からみれば、頼朝の反動化は歴然たるもので、不満や反発がうずまいた。
 しかしその不満も、文治五年(一一八九)におきた奥州合戦により解消された。合戦の契機は、文治三年に義経が藤原秀衡のもとに逃げこんだことにはじまる。やがて秀衡の死により藤原氏の内訌がおき、あとをついだ泰平が義経を攻め滅ぼしたことで、これを機会に奥州を手に入れようと、幕府は軍事動員をかけた。(略)追討の宣旨が得られないことで頼朝は合戦をためらったが(略)奥州合戦は武士の強い要求とともに始まった。
 結果は、幕府の圧倒的勝利に終わり、陸奥・出羽両国の荘園・公領にひろく地頭が置かれることになって、武士の要求は満たされ、不満は和らいだ。

p140
建久(一一九〇~九九)幕府は西国に「大田文」の調進を命ず。
大田文…一国の荘園・公領の領主と田数を記載。これまでも国司(朝廷任命)の命により在庁官人が作成。幕府はその在庁に地頭の名を記載。地頭のいない土地を把握してそこに地頭を補任(ぶにん)する意図。
地頭補任状を「頼朝の花押を文書の袖に据えた下文(袖判の下文)」から「政所職員連署の下文(政所下文)」に。幕府の地頭制のはっきりした定着。
p144
没官領(もっかんりょう。元平氏)のみ地頭設置?
*
2地頭と御家人
p149
国司、受領。この言葉の関係は?
受領はみな源氏一門
侍の受領はみとめない。

**********ここから小学館
p150
 幕府の御所の侍に座を占め、頼朝の政策・行動に大きな影響力を与えた彼らは、頼朝の死後には一段と力をつよめていく。

頼家が訴訟を直断することを止める処置
一三人の有力な御家人が談合して成敗を行うこと(大名九人、吏僚四人)
幕府の真の担い手が東国の有力豪族

p151
 それだけに頼朝の彼らに対する警戒心は強かった。広常を「朝家」に謀反の心あるものと殺害する一方で、東国の侍が朝廷に勝手に仕えることを禁じた。文治元年(一一八五)に上洛して朝廷との交渉にあたっていた時政をほどなく鎌倉に呼び戻したのも、時政が朝廷と独自の結びつきを持ち始めたことに警戒したからである。

p151
 これにひきかえ、東国の大名が推挙された朝官といえば、(源氏)一門の受領より一ランク下の兵衛尉(ひょうえのじょう)や衛門尉(えもんのじょう)などであった。建久六年(一一九五)の東大寺(再建?)供養に頼朝が京上した折、大雨でずぶぬれの中を、彼らが「雨に濡るるとだに思はぬけしき」で警固していた姿に、その身分が象徴されていよう。
 頼朝は、大名の実力に対処するに、「朝家」の権威をもちだし、その身分秩序をそのまま幕府の秩序に利用したのであった。

*

3幕府機構の成長
頼朝の親裁権 

東国支配権と政所

鎌倉幕府の二つの性格

九条兼実の執政 
p159
九条兼実の執政
 幕府が文治から建久年間にかけて(一一八五~一一九九)機構を整備し、権力の安定化を模索するのと軌を一にして、王朝国家の側もあらたな政治体制を模索していた。その中心にいたのは九条兼実である。
 兼実は頼朝の推挙で文治元年末に内覧(天皇に奏上する文書を内見する役)となり、その翌年には摂政となって、王朝国家の政治の再興をめざしたのであった。兼実の弟慈円の『愚管抄』は、その政治を(略)記している。
 ここにみられる「善政」の内容は、公卿に意見を召す(聞く)ことを除けば、いずれも信西政権の「徳政」を継承するものであったことが注目される。じつは兼実の政治に大きな影響を与えたのがこの信西であり、あるいは父忠通だった。公卿に意見を召すというのも忠通が執政時代にしばしば試みた。兼実はそれを取りいれた。
 兼実は、忠通が自邸に仕える女房に生ませた子であったことから、父の寵愛をうけその邸宅法照寺殿(ほっしょうじどの)を譲られたばかりか、日記をも譲られた。
 それはかの左大臣頼長(*1)が、忠実とその家の女房のあいだに生まれて、忠実のもとで育てられ寵愛をうけたことから、摂関家の正統意識を根強くもち、やがて執政への意欲をもったのとよく似ている。兼実も成長し研鑽をつむうちに執政への意欲をもちはじめた。
 その時期を慈円は治承三年(一一七九)の冬のことと記しているが、それは清盛がクーデターで後白河法皇を鳥羽殿(*2)に押しこめたころである。

(*1)藤原頼長(ふじわらのよりなが)は、平安時代末期の公卿。兼実の叔父。兄の関白・藤原忠通(兼実の父)と対立し、父・藤原忠実(兼実の祖父)の後押しにより藤原氏長者・内覧として旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない性格により悪左府(あくさふ)の異名を取った。後に鳥羽法皇の信頼を失って失脚。政敵の美福 門院・忠通・信西らに追い詰められ、保元の乱で敗死した。男色はじめ当時の風俗を克明に記した日記 『台記』でも有名。

(*2)とば‐どの【鳥羽殿】
京都市伏見区鳥羽にあった白河・鳥羽上皇の離 宮。現在その跡に鳥羽離宮公園・安楽寿院・城 南宮などがある。鳥羽離宮。城南離宮。

p160
 ただ兼実が執政をめざすといっても、平氏のあとおしのある近衛家や、法皇と結んだ松殿基房とはちがい、強力な政治的庇護者をもたぬだけに容易なことではなかった。治承・寿永の内乱と飢饉のなかで徳政の必要をつよく主張し、しばしば法皇に意見を述べたが、多くは容れられなかった。
 兼実の、不遇をかこち政治の不毛を嘆く長い日々がつづいた。平氏の都落ちで、やっと自分の番がまわってきたかと思ったときのこと、案に相違して近衛基通が平氏とともに都落ちせず、摂政にそのまますわったのをみて、じつはそれが法皇の基通への寵愛のゆえと知ると、怒りをぶちまけている。
 義仲がクーデターをおこしたときにも、摂政へと心は動いたが、義仲は基房の子師家(もろいえ)をたて、とるところではなかった。その義仲が滅亡したときには、今後こそは自分だと思った。鎌倉の頼朝も自分を推挙しているとの報もはいり、気をよくしていたところが、またも法皇の指名は基通であった。兼実がその日記『玉葉』に、信西が後白河のことを「和漢の間、比類少なきの暗主なり」と称していた、と記しているのは、このころである。
 やがて兼実は鎌倉の頼朝と連絡をとりはじめたらしい。京の情勢が義経をめぐって険しくなりかけたころである。兼実の意をうけたのは家司(けいし)藤原光長と考えられる。文治元年(一一八五)九月に光長が兼実の命をうけて東国領にかんする訴えを頼朝に送ったころより両者の連絡がついたらしく、一一月三〇日には光長が鎌倉に下していた使者が上洛している。かくて一二月二六日、待望の日がやってきた。兼実を内覧として、一〇人の議奏公卿をおき、その意見によって朝務を計らうべきことなどを盛りこんだ、廟堂改革を求める頼朝の六日付の奏状が京に届いたのである。
 いっしょに兼実への書状もつけられており、それをみて「夢の如し、幻の如し」と喜んだ兼実ではあった。だが頼朝をして「日本国第一の大天狗は、さらに他の者にあらず候か」といわしめた法皇がいったいどういう態度にでるか明らかではないのに、兼実はおいそれと動くことはできなかった。事実、兼実が頼朝と内通しているとのうわさが飛んだのであった。
p162
法皇と頼朝・兼実

*
p165
第五章 王朝文化の新展開
p166
1鎌倉仏教の誕生
慈円と大懺法院 
若き日の法然
彷徨の日々 
大仏勧進聖人
p176
新宗の開立 
p177
(略)ところが建久五年七月、山門大衆の訴えにより、朝廷は、「在京上人能忍」とあわせて「入唐上人栄西」の「達磨宗」を停止(ちょうじ)するとの宣旨をだした。ここにおいて栄西は、みずからの立場をより明確にする必要にせまられ、それを「禅宗」とよび、戒律を強調した。
 翌年、京にでた栄西は九条兼実の徴問にこたえ、また『興禅護国論』を執筆している。さらに正治元年(一一九九)には幕府によばれ鎌倉に下向すると、禅とともに以前から修学していた密教の祈祷をもって信頼をうけ、翌年正月の頼朝の一周忌には導師となり、つづいて政子の願になる寿福寺の開基となっている。
「真言を面(おもて)として禅宗は内行なりけり」といわれたように、なによりも栄西にもとめられたのは、幕府鎮護の宗教であった。京で南都北嶺の諸大寺の高僧が行っていた「護国」の祈祷と同じものが、期待されたのである。しかしこれを果たすことによって「内行」としての禅宗を認知させていった栄西は、建仁二年(一二〇二)に「武家の寺」としての建仁寺を京六波羅に創建し、真言・止観(天台)・禅の三宗兼学の道場とした。栄西の立場はここに確立したといえよう。

『選択本願念仏集』
旧仏教の抵抗

2詩的人間の誕生
王朝文化の革新 
p186
 こうして元久二年(一二〇五)に一応の完成をみた『新古今』は、まさに和歌の黄金時代の到来を告げる(略)。集中にもっとも数多くとられたのは西行であり、上皇にもっとも大きな影響を与えたのは藤原俊成・定家である。
「西行はおもしろくて、しかも心もことに深くあわれなる」と評した上皇は、西行を「生得の歌人」とも「不可説の上手」とも呼び絶賛している。西行死して一五年、すでにその評価はいちじるしく高まってはいたわけであり、そうであれば『新古今』にふれる場合、まず西行をみる必要がある。

p186
西行の遁世
(生い立ちから出家するまでの記述)
p187
どうも西行の遁世は、けっして世を避けるためだけの消極的な遁世ではなかったようである。
 とすればなにをもとめたのであろうか。ひたすらなる仏道の修行であろうか。西行の大峰山や高野山などの山林での修行はそれを物語っていそうである。
 あるいは勧進の作善のためであろうか。(略)
 それぞれ無視できない理由であるが(略)和歌の修行の延長上に、仏道の修行の道を選択するようになったと考えたい。(略)
和歌曼荼羅(略)
仏の道と和歌の道は一体、というこの考えが前提となって、西行のような仏道と歌道とに精進する遁世者が登場してきたのであろう。
 和歌や、また管弦もそうであるが、これらは詠み奏でることにより心が澄みわたるとされていた。その澄みきった心で仏道に精進する、こうした境地がもとめられたわけである。
p189
 西行に少し遅れて出家した少納言入道信西は、出家によって政治的世界での活動領域をひろげている。そうした信西を、中世社会の生みだした最初の政治的人間とすれば、西行は最初の詩的人間である。
  心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫建つ沢の 秋の夕暮
  願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ
 望み通りに西行は文治六年(一一九〇)の「如月の望月のころ」往生をとげたが、その三年前、藤原俊成は第七番目の勅撰集『千載和歌集』を選進している。

歌よみの家 
定家の苦悩と成長
後鳥羽院と『新古今』

3『平家物語』の世界
『平家物語』の特色
『平家』のつくられた場
信濃前司行長 
年代記と歴史意識
もとになる日記 
行長の父

*

第六章 鎌倉と京の政権

*

第七章 承久の乱と執権政治

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第八章 中世都市の成立

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第九章 つながる農村社会

*

第一〇章 庶民信仰と新仏教
1似絵と花押

2仏像にみる信仰

3新仏教の祖師たち

*

第一一章 蒙古襲来

*

第一二章 鎌倉末期の社会

*

第一三章 幕府の滅亡

*

おわりに

*
写真一覧
p61 平氏系図



p67 太郎焼亡

p57 東国武士団の分布

p54 平氏知行国(瀬戸内地図)

p45 信西をめぐる諸権力

p43 天皇家系図(鳥羽、崇徳、後白河~後鳥羽)

p25 保元の乱関係図

p71 平家知行国

p67-79手書きメモ

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