20130305 評伝ボッカッチョ(一)

評伝ボッカッチョ 中世と近代の葛藤
1994.7.31 初版第1刷発行
著者 アンリ・オヴェット
訳者 大久保昭男
発行所 ㈱新評論

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ボッカッチョ(1313-75)
ペトラルカ(1304-74)

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第一部 青春期
第1章 一三一三~一三三五年
p22
一三一三年末にフィリップ端麗王(フィリップ四世ido)によってパリでつくられた「人頭税簿」にボッカチオの父は〈ボッカサン・ロンバールとその兄弟〉として記載されている。
p23
ボッカチオは、彼の父がパリで行った両替業が儲けの大きいものであり、そのことが父のパリ滞在を長びかせたことをはっきりと言っている。
ボッカチオの父・ボッカチーノがあるパリ娘と親密になり、これを口説き落として子を産ませることができたのも、そのような事情であろう。
p24
ボッカチオは、母が高貴な血筋の出であることと、母が貞淑であったばかりに誘惑者(ボッカチオの父)の罠にはめられたことを強調し、母を誘惑した男に手厳しい非難の言葉を浴びせている。
p24
母の名前がジャンヌだったことは想定される。少なくとも、この名前は、フランスでは一四世紀以降、貴族の間でも市民層の間でもごく普通に用いられていた。
p25
ジョバンニ・ボッカチオが生まれて間もなく、その母と子供は置き去りにされる。父・ボッカチーノは結婚しなかったのである。彼はフィレンツェに戻り、マルゲリータという女性と結婚する。いつ頃かはよくわからないが、幼児ボッカチオはパリからフィレンツェに呼び寄せられる。理由はよくわからない。パリの女性は、ジョバンニの父が戻ってきてくれるという期待をしばらく抱いていたらしいが、男がフィレンツェで結婚式を挙げたという知らせを聞いて、あらゆる希望を失い、そして死んだ。こういうことだったのかもしれない。いずれにせよ、フィレンツェに来たときに、ボッカチオはまだごく幼かったのである。

P29
フランス女性である自分の母─この母のお陰で彼は、偶然のいたずらから自分の父となった成り上がり者の男よりも自分をずっと上位の人間だと考えた─を貴族の出であるとしてボッカッチョがなぜ誇ろうとしたかは、彼の青年期の最も有名なエピソード、即ちある王とあるフランス女性との間の庶子であるフィアンメッタと彼の関わりを調べる時に明らかになるはずである。

P42
一三二五年から一三三〇年までの数年は、(略)ボッカッチョが空しく浪費した(商人になるための徒弟奉公)と述べている六年間にまさに対応している。それゆえ、教会法勉学の六年は一三三一年から一三三六年ということになろう。ところで、ボッカッチョは一三三六年三月三〇日に(ナポリの教会で見かけた)フィアンメッタに恋着するに至り、この女性に気に入られ、彼女を讃えようとして、たちまち物語と詩の創作に没頭する。

P43
「金をポケットに収めることだけに長けた我が商人たちは、いったいなんと言うのだろうか。その信奉者に死後何世紀にもわたる栄光を約束するその詩歌が金儲けにならないと彼らは主張するだろうか。そして、機械的な業だけが儲けを保証してくれると言い張るのだろうか。彼らは、何一つ理解していない神聖なるものをひたすら攻撃するだけの己を恥じて、口をつぐむべきであり、彼らの低劣な心が辛うじて理解しうる物共の中に這いつくばるだけにすべきである」

P44
ジェノヴァの天文学者アンダロ・ディ・ネーグロに出会ったのもナポリにおいてであり、(略)アンダロが死亡したのは一三三四年六月だったから、ボッカッチョは五年余りの間その傍らで学識を積むことができたわけである。

P44
“トリヴィウム”(三科目。即ち、文法・修辞・論理)
“クアドリヴィウム”(四科目。即ち、算術・幾何・天文・音楽)

P45
教会法学者になるという条件で雇ってもらった商会を息子が辞めるのを父ボッカッチーノが許したときの状況がどういうものであったかは、よく分かっていない。おそらくは、ジョヴァンニ(ボッカッチョのこと)がささやかな商人にさえ決してなれないだろうということを、父親は悟らざるを得なかったのだろう。

P46
ナポリを舞台とする彼の作品の一つの中で、ボッカッチョは詩人チーノ・ダ・ピストイアのカンツォーネを─ほとんど一語一語引き写す形で─注解している。若い見習詩人にダンテの作品を最初に教え、この大作とその作者に対する崇拝の念─ボッカッチョのその思いは最後まで変わらなかった─を吹き込んだのがチーノであったということも大いに考えられるところである。

P46
会計などの業務からやっと解放された教会法の学生に、ナポリはさらにいくつかの手段や方策を与えたに違いない。少なくともここで名を記しておかなければならないのはパオロ・ダ・ペルージアである。彼はロベール(ロベルト)一世王の図書係で、神話に関する彼の学識は、この領域にボッカッチョの関心を向けさせる上で貢献したと思われる。ずっと後に彼が『異教の神々の系譜』をまとめた時に、(略)

P47
『アメート』と『フィローコロ』の中の自伝的頁は、(略)この都市の女たちの色香や魅力を(略)彼は手始めに、美しく気位の高いパンピーネアとかいう女性に言い寄り、次いで、より魅力的なアブロトニアという女性に近づいた。彼女はつれなくはかなかったが、程なく彼から離れ去った。(略)人々の言いうることは、それらの恋愛体験が彼の情熱的な性情を露にしているということのみである。なぜなら、彼はそれによって大いに苦しんだからである。そしてそのことは、彼の最初の詩作の試みのきっかけとなった。あまりに短い相愛の時期の後に来たアブロトニアの予期しない手厳しさは、ボッカッチョのナポリ到着からまた六年が経過していない時期に、したがって一三三四年来以前に示されたのである。彼は二十一歳であった。苦痛に打ちのめされ、恋情ゆえに余儀なくされた絶対的ともいうべき服従に屈辱を感じたジョヴァンニ(=ボッカッチョ)が、この時に、もう恋はすまいと心に期したろうと考えるのは自然である。こうして彼はあらゆる色合いの感情的体験を積み重ね、その作中人物たちの中にそれを描いてみせている。それは、まだ色恋を知る前の主人公の若者らしい気負いから、獲得勝利の喜びとまったくの服従、裏切られたあとの恥辱感、そしてこのような抗しがたい狂気にはもはや身を委ねまいという毅然とした決意まで、さまざまである。この通過儀礼は、ボッカッチョがフィアンメッタという名のもとに不朽のものとした女性に対する熱烈な恋を燃え上がらせる前に生じたことである。

*
第2章 フィアンメッタ
『フィローコロ』の第一部
P49
緊密な繋がりが両都市(フィレンツェとナポリ)を結んでいた。それはまず政治の領域においてであった。フィレンツェが十三世紀末にグェルフィ党(教皇派)の牙城になっていたとすれば、何度となく破門されたホーエンシュタウフェン家を逐い立てるために法王庁が一二六〇年にアンジュー家のプリンス〔シャルル・ダンジュー〕を招いたナポリは、イタリアでの法王政治のもう一方の中心となっていた。シャルル・ダンジュー(カルロ一世)は、聖王ルイの弟で、プロヴァンス伯でもあったが、〔イタリア〕半島の南部に王朝を築いていて、彼の過誤や失敗にも関わらず、グェルフィ党の最も強固な支柱であった。しかし、彼の勢力のかなりの部分は、アンジュー家が必要としている資金を唯一提供する力のあるフィレンツェに依拠していた。一方、フィレンツェはつねに内紛に明け暮れていて、ナポリ王家の仲裁に頼ることがしばしばであった。
一三〇六年に、当時まだ単にカラブリア公であったロベール(ロベルト)一世は、フィレンツェ勢およびルッカ勢を率いて、ピストイアの”白軍”(皇帝派)に戦いを挑んだ。
そして、一三一〇年に即位のために赴いていたアヴィニヨンから引き返すと、フィレンツェの有力な銀行家ペルッツィ家の客人として二ヶ月間滞在した。三年後、それはボッカッチョがこの世に生をうけた頃であったが、ラ・シニョーリア〔フィレンツェ政庁〕は五年間にわたってロベール王の庇護下に入り、ロベールはトスカーナのギベリン党(皇帝派)を威圧するために、タラントのピエトロとフィリッポ〔ピエール・ド・タラントおよびフィリップ・ド・タラント〕を送りこんだ。
さらに下って一三二二年に、フィレンツェは、ルッカの専制君主カストルッチョ・カストラカーニと紛争を起こしたときには、ナポリ王ロベールの子息であるカラブリア公シャルル(カルロ)の応援を求めた。
そこでカラブリア公シャルルは、妻のマリー・ド・ヴァロワと多数の従者を引き連れて、一三二六年七月、市内に堂々の入城を行い、その華やかなパレードは盛大な歓呼を持って迎えられた。若いボッカッチョはこれを目の当たりにして目も眩む思いであったに違いなく、恐らくはこのときから、フランスの血を引く高貴な王公や麗しい貴婦人たちの統治している国を訪ねてみたいと願望するようになったのである。(略)

P53
ボッカッチョは、”カステル・ヌォーヴォ”城の飾り付けに招かれたジョットに一三三〇から一三三二年にかけて接触をもつことができた。歴代法王(教皇)たちによって放置されたままのローマ、文明発達の不完全なフィレンツェに対比して、当時のナポリは光彩陸離たる都市であり、万人の視線の赴く中心であった。文芸の見地からは、両王の最も栄光に値する振る舞いは、ボッカッチョの天才の開眼を促したことであり、さらに一三四一年には、ペトラルカが〔ローマの〕カンピドリオの丘での桂冠詩人としての称号受賞の先駆けたらしめた盛大な訪問を受け入れたことである。個人としては、ロベール王は平凡な人物であった。口さがない連中は、ボッカッチョに向かって、子供の頃の王の知能の発達が遅かったことを語って聞かせもした。詩人をよく理解することもできず、ヴェルギリウスの作品に含まれているのは駄文だけではないことを知るためにはペトラルカの来訪が必要だったなどとも話した。
P53

*

第3章 『フィローストラト』と『テーセウス』
初回ナポリ滞在の終わり

P84
この作品『フィローストラト』の題材は、トロイア戦争に関わる伝説からとられたもの(略)

P85
ボッカッチョは(略)(サムニウムでの長期滞在の)フィアンメッタが、愛する女に去られて悲嘆に暮れるトロイルス(浮気なブリセイダに裏切られた最後のトロイア王)の人物の中に彼を見てとってくれることを望んだ。「彼の生活は、あなたが遠くへ行ってしまって以後の私の生活に奇妙なほど似ていた」と彼は書いている。

P86
この説明を手紙の文面どおりに受けとるならば、『フィローストラト』は、ボッカッチョがマリーア・ダクイーノに切ない求愛を始めた時期と、二人が本当に親密だった時期の間、一三三六年四月から九月の間に書かれたと解さなければならない。この想定にはいくつかの難点がないわけではない。

P94
こうして、トレッロ(トロイルス)は最後まで詩篇の主役であり、愛のヴィオルの琴線を打ち震わせる。最も明るい、最も勝ち誇った調べから、最後のエレジーと悲劇に至るまで。

P96
(フィローストラトの)あとボッカッチョが没頭した作品『テーセウス』は、より思念をこらされ、より野心的でもある。この作品は、読む喜びは遥かに小さいが、それにも関わらず、最新の検討に値する。

P96
『テーセウス』の創作をボッカッチョの青年期のナポリ時代、フィアンメッタの背信の直後とする主張には、非常に説得力がある。一三三九~四〇年当時の彼の書簡中の一通によって、この時期に彼がスタティウス〔紀元一世紀後半のローマの詩人〕の『テーバイ物語』を研究していて、これをよりよく理解しようとして、傍注を付された一巻を参照しようと望んだことが知られている。(略)フィアンメッタへのこの詩のきわめて雄弁な献辞は、『フィローストラト』の悲嘆よりももっと痛切な、もっと深刻な感動に溢れている。いくぶん気取った荘長さをはらんだこの総合文の中には嗚咽がある。ボッカッチョは不実な女を愛することをやめなかったし、その心をふたたびつかむことを諦めなかった。そもそも彼はナポリをまだ去ってはいなかったのである。なぜなら、その愛する女性の合図のみをひたすら待って、そのもとに駆け寄り、その足下に身を投げようとしていたのだからである。
その後フィレンツェで書き、フィアンメッタの思い出になおも捧げた作品のどれをとってみても、かくも直接に彼女に宛てられたものはなく、彼の計算された節度でもって、あまりに切ない恋心をかくも生々しく表現しているものはない。(略)ボッカッチョがその後トスカーナで書いた作品は、ずっと違った規範から着想を得ている。

P102
彼(ボッカッチョ)が解決を目指した問題─古典時代の叙事詩と騎士道小説の折衷─がルネサンス期の文人にとっては解決不能の問題であったことを思えば、少しも不名誉なものではない。
※古典と現代評論とファンタジーの結合はどうなんだ?(笑)

P103
ボッカッチョのエミーリアは、ポリツィアーノのシモネッタ、ボッティチェッリの何人かの人物像の明快な先駆けである。

P105
一三三六年から一三三八年にかけてのフィアンメッタとの不安定な恋愛関係に惑わされて、ボッカッチョはナポリ滞在の最後の二年間である一三三九年、一三四〇年を、暗澹たる思いで過ごした。それまではさまざまな満足や輝かしい成功に溢れていた彼の人生のこの時期を暗いものにしたこれらの試練の中にあって、彼が最大の慰めとしたのは古代ローマ作家の研究であり、さらにおそらくは彼の”叙事詩”の創作であったろう。

P107
同郷人ニッコロ・アッチャイウオーリ(略)は、彼もまたこの地で華々しい艶福に恵まれ、(略)財産と名誉を手に入れ、しばらくしては、ナポリ王家の家令にまでなった。さて、一三三八年一〇月、ボッカッチョがいつもにもまして愛情、助言、励ましを必要としていた時に、ニッコロはモレーア(ペロポネソス半島)での任務を果たすためにナポリを後にしなければならなかった。

P108
しかし、この時期の書簡の中で最も目立つのは、自分の貧しさへのボッカッチョの暗示である。(略)バルディ商会(略)は、イングランドのエドワード三世王に百七万五千フロリンを前貸しし、それがまったく償還されなかった結果、一三三九年に大規模な倒産をした。

P109
ボッカッチョの伝記を最近になって豊富にした一連の文書中最も興味深いのは、一三三八年一一月一六日付の証書で、これによってボッカッチーノは、カプア大司教区に属するサン・ロレンツォ教会の施設を、一年間の契約で二十六フロリン金貨を支払って、自身と息子ジョバンニのために借りていることが分かる。(略)「お前は商人になることも、教会法を学ぶこともしなかった。あとは(略)」これは気がきいていて、しかもありそうなせりふである。(略)
ボッカッチョは父の右の指図にまったく背いたと言うことである。生来利欲には関心がなく、生計の営みを”機械的な業”と呼んで軽んじていたから、その貧しさを自尊心で包みこみ、古代の偉人たち、即ちウェルギリウス、オウィディウス、アプレイウス等の一員のように振る舞わなければならなかった。(略)しかしながら、カプアのサン・ロレンツォの住居の賃借はさらに一年更新され、一三四〇年一一月一日までとされた。しかし、この賃借更新に関する証書には、あくる年の一月一一日、於フィレンツェ、との日付になっている。この時ボッカッチョは父と共に、フィレンツェのサンタ・フェリチタ教区内に住んでいたのである。このデータは貴重である。なぜなら、ボッカッチョは、ペトラルカが一三四一年にロベール王に盛大な謁見を賜った時には、父のもとへ赴くためにすでにナポリを去っていたのではないかと久しい以前から考えられていたからである。(略)小説『フィアンメッタ』は、この件についてはー級の心理上の記録である。「フィレンツェは不快な町である。(略)これと反対にナポリは陽気で、平和で(略)」(略)『アメート』の主人公は、フィレンツェの父の住居は寂しくて寒く、おまけに、吝嗇で頑固な老人との同居は(略)
こうして、ボッカッチョは、ナポリへ着いた時から十二年後の、一二月の陰気な日にナポリを発った。そして、遅く見ても一三四一年一月初旬にはアルノ河の畔に着いた。

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